オリエンテーリングhogehoge

最初にお断り

タイトルは無視してよい。内容はオリエンテーリングに限らない。そもそも私は綺麗な文章を書くことが苦手である。人様用に文章を書く労力を捻出する気が起きるのが年に一度ほどで、かなりのエネルギーを要する。
ここに記載することは誰に向けて書いたものでもなく、すべて個人の偏見であり、リソースに乏しいものであり、n=1の感想程度のものである。特に構成を考えている訳ではなく、普段ほげーっと考えていることを思いついたものから書き連ねていくことにする。

「やりたいこと」と「できること」

ベン図のイメージ。
「やりたいこと」と「できること」が重なる部分だけして生きていけたら本望である。しかし、自分に力がないうちは重なる部分が小さい。「できること」など殆どないからである。であれば、最初のうちは「できること」の部分を大きくするために動くのが良い。すると自然と重なる部分が大きくなる。
そして「できること」が増えると自然と「やりたいこと」も増えるような気がする。金がないうちは良い物を身につけたいと思えなくても、いざ金を持てばそれらに興味を持つことがあるように。思えばオリエンテーリングでも競技1年目から日本代表を夢見たことはなく、それなりの実力がついてから日本代表になって世界選手権で戦いたいと思うようになった。

走行距離

週間で見たい。トレーニング量を管理する目的であれば、月間で見るのはあまりにスパンが長い。
月によって28〜31日のバラつきがあるのも微妙。

ポイント練は40km/wから

故障のリスクを鑑み、走行距離全体に占めるeasy runの割合は少なくとも70%欲しい。40km/w走る人であれば、ポイント練に費やせるのは12km/wである。また、オリエンテーリングのレースは心拍数で見れば、ポイント練の負荷と遜色ない。つまり走行距離が40km/wを下回るオリエンティアは、言葉を選ばずに言えば、ポイント練に手を出す資格がない。まずは走行距離を増やすことから始めたい。

トレーニング後の補食

たんぱく質に意識が行きがちだが、糖質を意識したい。あんパンやバナナが補食として好まれるのはこれが理由。理想は糖質:たんぱく質=3:1。愛用しているのは「ガッツギア」。子ども向けだが成分表示を見るとなかなか良い。個人的には他のゼリーより味も好み。

故障

腸脛靭帯炎は、大腿筋膜張筋、中殿筋あたりに張りがあることが主要因のことが多い。ほぐすと改善する。
シンスプリントは、ヒラメ筋と前脛骨筋を緩めると良くなる。特に前脛骨筋をボールでゴリゴリやるのは効くらしい。
しかし上記はいずれも対処療法的なアプローチであり、ランニングフォームの改善等、根本解決に向けたアプローチを継続的に行いたい。

結果がすべて

と私が信じている訳ではないが、皮肉なことに「過程が大事」と信じる人の過程より、「結果がすべて」と信じて頑張る人の過程の方が価値が出てしまうのだろう。
結果が過程の意味付けをすることもある。成功すればそれまでの過程で起きた失敗もただの失敗ではなく、成功のために必要な糧だったと言えるようになる。自戒も込めて。

量 × 質 × 方向性

何かで成果を出したいなら取り組むうえで意識したい。よく「量 vs. 質」の二項対立で語られやすいが、最も重要なのは「方向性」である。極端な例で、プロの野球コーチに専属でついてもらい、365日10時間 野球の練習をしてもサッカーはうまくならない。
「自分の取り組みの方向性は目標達成に正しく向かっているか」常に考え、考えるためにも正しい知識をインプットし続けたい。私が「競技者には思考する力が必要」と考える理由のひとつはここにある。

綺麗な終わり方

何事も始める前に終わりを考えてしまう。綺麗な終わり方(自分の気持ちの落としどころ)が見つけられないうちは始められない。数年前からずっとネコを飼いたいと思っているが、どうしても一歩踏み出せない。

麦酒

お酒を飲み始めてしばらくは良さが分からなかったが、前の彼女の晩酌に付き合ううちに飲むのが苦ではなくなり、今では好き好んで飲んでいる。かくいう今も木曜日なのに「水曜日のネコ」を飲んでhogehogeしながら書いている。

トレーニング論

私のトレーニングは基本的にデビッド・マーティンとピーター・コー、アルベルト・サラザールらのトレーニング論に基づいている。最近気になっているのは「ノルウェー式二重閾値走のトレーニングシステム」。勉強中だが今の生活リズムに組み込むには平日のトレーニングがtoo hard。判断を保留中。

トレーニング効果

「トレーニングの辛さ=トレーニング効果の大きさ」は成立しない。また、ある閾値より10%強度の高い運動は、ある閾値より10%強度の低い運動と比較して4-5倍疲労する。生理学的には、閾値を下回っていてもトレーニング刺激の適応を促すのに十分であり、寧ろより多くの刺激時間を確保できる。

実践知

科学によって得られた知識はトレーニング方法や技術の選択にあたってその根拠となるものだが、科学自身は決してトレーニングをしてくれない。科学を根拠に楽をしたくなるのは人情であるし、それが大きな効果を生むこともあるが、それは競技の追及の過程で楽をしても良い理由にはならない。競技者としてトレーニングをする上で、根拠があり、理論があっても、経験が伴わなければ理解はできない。「やった者しか持ち得ない知」がある。
科学的な視点でやるべきことを見極める術を知ったなら、実践にて知を得たい。理論と直感、楽と根性のバランス感覚を大事にしたい。

『一瞬の風になれ』

陸上競技を好きになりかけていた中学生の私にとって、高校で陸上部に入るきっかけとしては十分だった。
そうして入部した陸上部では毎日が同期との競争だった。ポイント練のときも、そうでないときも。昼休みのウェイトトレーニングでさえ。
楽しかった。あれは正真正銘「かけっこ」だった。

価値観

必要なのは互いの価値観が合うことではなく、互いの価値観を認めたうえで寄り添えるかどうか。

不整地走

基本的にロードでのトレーニングは避けたい。近所に不整地があるのであればそこでトレーニングをするのがベスト。ロードでのトレーニングは故障のリスクを高め、スピードを殺す。脚の筋力強化も兼ねて不整地を走るのが良い。

コーチング

間違っていることを正しい方向に導くことはコーチの重要な役目だが、合っていることを「合っているよ」と伝えてあげることもまた重要である。自分の選択に確信を持てないまま進み続ける恐怖は強い。「この道でいいのか…?」と不安になっているとなかなかアクセルを踏みにくい。
選手がモチベーションを保ち、取り組みを継続できるよう、その恐怖を取り除いてあげることもコーチのひとつの役目と言える。

トレーニング計画

ジョグから逃げるな。ジョグに逃げるな。

価値観2

年々価値観がよりドライで、自分勝手で、濁りを含んでいくのを感じる。客観的に見れば好ましい変化ではないのかもしれないが、主観では純粋無垢な自分より嫌ではない。
濁った部分もまるごと愛してくれ~~~ーー!!!!(自分勝手)

難しいこと

素直になればいいのに、と思うことは多々ある。他人に対しても自分に対しても。お互いが素直になるだけで解決する問題はとても多いと思う。

トレーニングのタイミング

ある程度は同じ時間帯に統一したい。例えば7:00にトレーニングする日と19:00にトレーニングする日があった場合、毎日トレーニングをしていたとしてもトレーニングの間隔が12時間と36時間でバラつきが生まれてしまう。このことに自覚的にならないまま、あるいは自覚したとしても、疲労をコントロールする難易度は上がる。

マラソン

いつか挑戦したい。ただし、スプリントを頑張ると決めた今のタイミングではない。スプリントに求められる能力とマラソンに求められる能力が全く異なることが理由のひとつ。マラソンの負荷が高すぎてトレーニングの流れが完全に切れてしまうことがもうひとつ。同じ理由でスカイランニングや30km以上のトレイルランにも出ない。OMMも出たい。競技者をやめたらきっと。

トレーニング効果2

トレーニングは単発で完結しない。良いトレーニングかどうかは「トレーニングの内容 × 頻度 × 継続日数」で決まる。一度こなしただけで未来永劫それが身につくトレーニングは存在せず、頻度と継続を伴う必要がある。

読図走

あまりしない。好みの問題。読図しながら走ることは走力強化の観点でデメリットがあることを認識している。条件が合えばやることもあるが、殆どの場面でデメリット>メリットに感じる。自分がスプリンターだからというのもおそらく関係する。いずれにしても、普段のジョグを軽視しない意識は持ち続けたい。

ランニングフォーム

改善のスタートは良いランニングフォームを知ること。次に自身のランニングフォームを知ること。それができて初めて改善が始まる。

アドバイス

他人にアドバイスを仰ぐと色々なことを言われる。人によって真逆のことを言うこともある。しかし、結果を出している人が共通して大事にしていることもきっとある。それは人の性格やスタイルに依らず重要である可能性が高い。課題設定に迷ったときの拠り所になる。

読書

ここ5年でブクログに本を150冊ほど登録した。そこそこの読書好きの自覚はあるが、私は本から感じたことをうまく言語化できない。さらには1か月もするとその本に対する印象だけが残り、内容を殆ど忘れてしまう。そのことがいつからかコンプレックスになり、無意識のうちに誰かと本について話すことも読書好きを公言することも避けるようになった。

大切にしたいもの

気にかけて連絡をくれる友人。
私はきっとまだ誰の特別にもなれていないけれど、微妙な変化に気づいて連絡をくれる人がいるうちは、私の人生も捨てたものじゃない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?