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78年前の今日

 8月22日は、三船殉難事件の日である。

 昭和20年(1945年)8月14日、日本は無条件降伏を認めるポツダム宣言の文書に調印していた。
 しかし、78年前の今日、北海道留萌沖で、樺太(現在のサハリン)からの引揚者を乗せた3隻の引揚船が、昭和20年8月8日に対日参戦を宣告したソ連(ソビエト社会主義共和国連邦=現在のロシア)の潜水艦により激しい攻撃を受けた。
 小笠原丸と泰東丸の2隻が沈没。特設砲艦だった第二号新興丸だけは沈没を免れたものの、砲撃と銃撃により船内でも多くの死者が出たという。沈没寸前の状態で近隣の留萌港に入港出来た第二号新興丸を含め、3隻の犠牲者数は、1,708名とされている。
 当時は、現在のようなきちんとした形での乗船者名簿等が作られていなかった。さらに、当時の樺太の状況から、実際の犠牲者の数は1,708名よりも多かっただろうと現在では考えられている。


 私の母は、樺太で生まれた。
 引揚げの際、母が三船のいずれかに乗っていれば、私は今、ここにはいない。

 けれど、今は亡き母からも、また祖父母をはじめ母方の親族からも、樺太の思い出を聞いたことも無ければ、引揚げの際の悲惨な状況を聞いたことも無い。
 ただ、引揚げの際に臨月を迎えていた祖母が、周囲からどんなに引き留められても予定どおりの引揚げ船に乗船して北海道に帰ると言ったこと、そして船の上で叔母(母の妹)が生まれたことだけは、幼い頃から母方の親族が集まる場で度々聞かされてきた記憶がある。
 逆に言えば、それ以外のことは、誰も語ろうとしなかった。

 語るためには、思い出さなければならない。
 語らなかったということが、答えなのだろう。
 今は、そう思う。



 今から17、8年前だっただろうか。仕事をしながら続けている音楽活動を通して、留萌市の方からライブのお誘いを受けた。
 札幌から車を走らせること約3時間。初めて訪れた留萌は、豊かな緑ときれいな砂浜にかこまれた、静かで素敵な街だった。
 ライブ前、町の観光名所を案内していただく中で、私は留萌市に樺太引揚三船殉難事件の慰霊碑があることを初めて知った。それまでの私は、砲撃を受けて大破した第二号新興丸が留萌港に入港したことも、三船で犠牲になった多くの方々のご遺体が留萌市や留萌管内の小平町、増毛町に漂着したことも知らずにいた。
 「私の母も、樺太からの引揚者なんです。この船には乗ってなくて無事だったけど。」
 「ええっ?!そうだったの?全然知らなかった!」
 案内してくれた方は、とても驚いた表情でそう言ってから、
 「今日、案内出来て良かった」
 そうしみじみと言われた。
 「私も来られて良かったです。来てなかったら、知らないままだったかもしれない。」
 「もしかしたら、シノブさんにここに来てほしかったのかもしれないね。」
 私も、同じことを思った。

 それ以来、札幌を離れるまで、留萌は私にとって年に数回必ず訪れる街になった。
 北海道を遠く離れた今でも、自分にとって留萌は大切な場所である。



 令和2年7月、留萌市教育委員会はこの事件を後世に伝え、戦争や郷土の歴史についての理解を深めることを目的に、冊子「留萌沖三船遭難 ~終戦秘話~」を作成した。
 こちらの冊子は、留萌市のホームページで今も読むことが出来る。



 樺太からの三船殉難事件については、北海道外はもちろん、北海道内ですら報道されることの少ない印象がある。
 けれど、決して風化させないようにと、今もこうして語り継いでくださる留萌の方々に、心から感謝したい。
 児童向けの冊子ではあるが、是非、多くの方々に読んでいただきたい。
 そして、「終戦の日」とされる8月15日以降にも戦争の犠牲となった方々がいることを、一人でも多くの方に知っていただけたらと思う。

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