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『ジャパン・リバイバル』米国はガレージから日本は町工場から①

「日本はイノベーション後進国」という声が聞こえるようになって久しいです。しかし、イノベーションが起きていないのは、日本社会の閉塞感を強く感じている若者たちのせいなのでしょうか。それとも、社会の構造的な問題が原因なのでしょうか。本対談では、日本のイノベーションの現状と課題を、中島高英氏と中島聡氏に議論していただきます。若者たちは日本のイノベーションの鍵を握っているのでしょうか。日本の未来を切り開くためには、何が必要なのか。必見の対談です。

『ジャパン・リバイバル』米国はガレージから日本は町工場から
1.自己紹介・・・(運命を決めたパソコンとの出会い)
2.得意なこと、好きなことを見つける
3.ChatGPTとは料理をするもの!?
4.Q&A続き・・・GPTがもたらす教育の未来!?

自己紹介

中島高英氏(以下、高英):では、私の方から。今日は、わざわざハワイから飛んできていただきまして、ありがとうございます。

中島聡氏(以下、聡):とんでもないです。

中島高英・・・生産性が上がらない国

高英:聡さんと私は10歳違うのですよね。ただ、後でお話が出ますけど、Windowsを味わってきた仲間でもある。まずは簡単に自己紹介をさせてください。今日はZ世代の方も来ていただいています。ここのところZ世代と付き合っていると、非常に良心的だし真面目。ただ、発想の自由が少し足りない感じがしています。同時にいい子なのです。いい大学に入って、いい会社に入る。それがベストウェイみたいになっちゃっている。ハイウェイに乗ろうとしているわけです。

それに乗せようとしているのが親たち、学校の先生。進学率、就職率という率で決められている。我々の時代も、もちろんあったのだけれど、非常にそこの幅が狭まってきていると思う。そういう方々に、これから僕がいろいろと質問をしたいと思います。

私自身は、5回大きく人生を転換してきています。大学を出て商社に勤め、それから父親の金型工場に入り、抜け出したくてIT、それこそWindowsのパソコンソフトを作って売って、会社になったのがシムックス。35年前です。

逃げ出せたと思ったら、親父が倒れて2代目の社長を継ぐことになった。パソコンソフトを作っていただけですから、工場の経営なんて全然分からなくて。しどろもどろに頑張って、なんとか終わって。自分の人生このまま終わってもいいのだけども、寂しいと55の時に金型会社の方はTDKというところにバイアウトした。

次に何をやるのといったら、パソコンソフトじゃない。インターネットだと。インターネットのビジネスに挑戦してみたいと思いましたが、勉強してもなかなか頭に入ってこない。知識が足りないのかもしれないと思い、東京大学の先生のところで教わろうと思ったら、一緒にやろうということで…

産学連携でプロジェクトをずっとやらせていただいて15年過ぎています。だいたいアルファベット3文字ぐらいが、OSIとか含めて、いつでもそんな会話をして。半年以上全然分からない。日本語なのに分からない世界をウロウロしながらやっとの思いで、はあはあ言いながらここまで来た。

それから15年経ち、それなりに足跡は残せたので、じゃあ次に何をしようかと思っていたらコロナになった。コロナになったので、このまま終活、就職じゃなくて、人生の終わりの活動をしようということで一生懸命荷物を整理していたら、なかなかコロナが終わらなくて2年過ぎた。だんだん家にいるのも飽きてきて、どうしようかと。ネットでいろんな勉強をする。それこそ聡さんのメルマガも読ませていただきながら、情報は取っていた。

イノベーションが起こらないのはなぜ?!

どうしようと思ったときに、僕は15年間、東京大学に毎月通って、勉強を含めていろんな打ち合わせをしていたけど、イノベーションと言いながら、日本はどこもイノベーションが起きていない。振り返ると30年間くらい何も変わっていない。生産性が上がらない国だと。

どうして、こんなにイノベーションが起きないのだと。ちょっと激しい言葉になりましたけど、そう思ったときに、今の若い子たちが抱えている問題と日本が抱えている問題は同じだと感じた。

忖度です。』

期待に沿わなきゃいけない。いい子でいたい。だから失敗はしない。イノベーションが起きないのです。アイデアがあっても、会社はきっと利益を要求する。いくらぐらい儲かるのか。これで市場が取れるのか。でも、そんなことは誰にも分からないじゃないですか。分からないのに聞くじゃないですか。聞かれるのは嫌だから、今度は提案しなくなるのですよね。

そういうのがもったいないと僕は思っていて。そうやって埋もれていくものを掘り出す場所がないのか。その時に物理的な補助金では駄目で、精神的なものを支えるものがないと駄目だ。失敗を恐れない。失敗も成功もない。やってみることが面白いことなのだ。そういうことを伝えたくて、科学反応という言葉を使いました。

もう1つは、テクノロジー偏重なのです。アカデミズム、科学、サイエンステクノロジー、コンピュータテクノロジーが爆発的な成長をしたおかげで、皆さんはそっちへ行って、今ではデジタルとかAIとか言われています。ところがそうではないところがある。テクノロジーとアートの交差点にしたい。ボツになったものを、ここに持ってきて試してみよう。成功しないものも山ほどあると思うけど、そんなことを伝えたくてシン・オープン・ラボという名前を作りました。それが私の68歳の決断で、今始めている段階。

自己紹介が長くなりましたけど、どうして丁寧に話をしているかというと、シンギュラリティ・ソサエティと何かコラボができればうれしいし、こんな大人たちがいるのだと、若い人たち、Z世代に伝えられるだけでも元気が渡せるのではないかと思います。

中島聡・・・「昭和の価値観」とは

聡:ありがとうございます。私も自己紹介の時、気を付けないとずっと喋ってしまいます。特にZ世代の人たちとか、これからの日本を担う人たちに1つ聞いてほしい話があります。

最近になって言い始めた言葉で、僕は「昭和の価値観」と呼んでいるのです。「昭和の価値観」というのは、日本の高度成長期に作られた価値観。かなり人為的に作られた部分もあると思うのでが、それまで第一次産業中心だった、農業とか漁業が中心だった国が、社会として、国として栄えるためには、たぶん今でも続いているけど、地方にいる頭のいい人たちが都会に出てきて、いい大学に入って、その人たちが大きな企業に入って成功する。彼らが成功すると同時に、その会社が伸びるという成功方程式が、その時にできて、それは私の父の世代に作られた。九州の田舎町のお米屋さんの息子だった彼が、たまたま数学が得意だった。いい先生に巡り合えて、旧制高校みたいなところに行って、東京の…東京工業大学ってありましたっけ?

高英:あります。

聡:名前は変わった?

高英:変わっていません。

聡:東工大に行って、建築を勉強して、鹿島建設に入ってちゃんと成功して、そのおかげで私が育ったのですけど。彼なんかは、典型的な昭和の価値観が作られる中で成功し、かつ鹿島建設はすごく大きい会社だったから、成功した、日本を大きくした代表選手みたいなもので、そこで育ったのが私なのです。たまたま父が出向していたときなので、生まれは北海道ですが、基本は東京で育っている。そういう家庭なので、ちゃんと勉強して、いい大学に入って、いい企業に就職するという価値観の下に育てられていたのです。

基本はいい子だったのですが、変な言葉を使うと量子もつれみたいに、親の言うことを聞くいい子と、そうじゃない子が、2つ合わさった形で育っていたと思います。というのは、もともと僕も小さい頃から数学とか理科が得意だったのですが、実は社会とか国語の授業は大嫌いでした。小学校の頃から、社会とか国語の授業中に、実は机の上で数学の問題を解いているみたいな、ちょっと悪い子でもあったのです。
ただ、親の言うことを聞いてちゃんと勉強もしていました。

中学受験はしなかったのですが、高校は早稲田の附属に入りました。うちの親が東大に入ってほしいというのは知っていたのですが、東大に入るためには、ちょうど共通一次が始まっていたので、社会とか国語を勉強しないといけませんでした。それは嫌だったので…。早稲田の附属なら、数学と国語と英語だけでいけて、300点満点で、僕の前の年のボーダーラインが167点だったんです。計算してみると、数学はやたら得意なので80点は楽々取れる。国語は不得意とはいえ日本人なので、30点、40点は取れる、あとは英語さえ勉強すればいいということで、英語だけちょっと勉強して、割と軽々受かったのです。

僕としては作戦で、とにかく親の言うことを聞いていい大学に行くという務めを果たしながらも、嫌いな勉強はしたくない。自分の好きなことだけしたいということで、早稲田の附属に入りました。早稲田の附属に入ると幸いなことに受験勉強がないので、本当に好きな勉強だけをしていればいいので、数学とか物理とか生物とか、そういう勉強ばかりしていました。

運命を決めたパソコンとの出会い

高2のときに、たまたま叔父の紹介でTK-80という、その頃はパソコンと呼ばずにマイコンと呼んでいましたけど、マイコンのトレーニングキットを手に入れて、プログラミングに出会いました。

1ヶ月ぐらい、最初は何も分からなくて苦労したのですけど、あるところでプログラミングとは何かというのを理解した途端に、水を得た魚のようにバンバンプログラムを書き始めた。最初ゲームとかを作っていましたけど、その後コンパイラを作ったり、開発環境を作ったりということを、ずっと学生時代はしていました。

とはいえ、親の価値観はずっと染み付いていたので、僕にとってプログラミングは趣味でしかなかったのです。結構稼いでもいたのですが、あくまで趣味であり、いい大学、大学院まで行きましたけど、大学院を出てから、ちゃんとした会社に就職するんだと頭から思い込んでいました。大学院の1年ぐらいの時に教授に相談して、「僕はどこに行ったらいいでしょうか?」と話をしたら、先生に「君の成績ならNTTの研究所に入れるよ」と言われました。

NTTの研究所は、その頃は本当に花形で、アメリカで言うとベルラボに相当する研究所でした。特に僕の時は、初めて電電工社からNTTになった第1世代だったので、NTTという会社の1番目の1期生で入りました。上場もしていて、その時は世界一の株価総額だったのです。憧れの研究所に入り、趣味でプログラムを書いていたけど、あくまで僕にとっては趣味でしかなかったです。「親の価値観に従っていい大学に入り、いい企業に入る。」それも世界一の株価総額を持つNTTに入りました。

研究所に入ってみたら、意外とたいしたことがないのです。入っている人は半分が修士卒で、残りの半分がドクター卒くらいの賢い人なのだけど、仕事のやり方が僕から見るとどうしようもなくて…。

基本は仕様書だけ書いて全部丸投げして、メーカーの人に作ってもらう。僕は趣味で実際にプログラムを書いていたので、プログラミングを書く楽しさも知っていたし、プログラミングを書く難しさも知っていました。先輩の仕事ぶりを見ていると、彼らは1日中仕様書を書いている。しかもソフトウェアのフローチャートまで丁寧に書いて、それを下請けに丸投げ、当時はNECのエンジニアがコードを1行いくら(という値段)で書いてくれて、できあがったプログラムをこちらで動かす。その作り方を見たときに、僕は許せないと思ったのです。

仕様書を書いている時間の4分の1ぐらいの時間でコードを書けると思ったし、どんな賢い人でも、最初に思いついたアーキテクチャ通り動くとは限りません。作って、自分でコードを書いて作り直して、フィードバックを得る必要がありますが、下請けの上下関係がある場合、NTTの偉い人から下りてきた仕様書に、文句を言えないじゃないですか?!

『ジャパン・リバイバル』米国はガレージから日本は町工場から②に続く

『ジャパン・リバイバル』米国はガレージから日本は町工場から
1.自己紹介・・・(運命を決めたパソコンとの出会い)
2.得意なこと、好きなことを見つける
3.ChatGPTとは料理をするもの!?
4.Q&A続き・・・GPTがもたらす教育の未来!?


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