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不慮の事故 運が悪いのかな

不慮の事故には原因はあるのだろうが、はっきりとした法則があるかというと疑わしい。

かつて、友人が雪山で遭難した。朝方、山頂の山小屋をでて、鉄梯子をつたわって降りて尾根に立ったとき、突風が吹き転倒し、そのまま谷底に滑り落ちた。

その報を聞いて同僚たちと現地に行った。電車からその雪山が見えたとき、前の席に座っているひとりの先輩が「死んじゃったのか」とつぶやいた。私には、すでに友人が亡くなったことが耳に入っていたのだが、真白な山塊を見たとき、黙っていられなくなり、「すでに亡くなったそうです」と同席の同僚に伝えた。そのときのことである。

その日に泊まった宿の湯舟に入りながら、登山好きの先輩のKさんが「彼は運が悪かったのかな」としみじみと言った。私は、それに答えるすべを知らずに、ただうなずいた。

彼は、あのとき、たまたま突風が吹いて押したおされたということなのだろうか。風の原理が力学的に解明されて、人体のメカニズムが分かっていても、何故彼がそこに居て強風に倒れねばならなかったのかは説明できない。ひとつひとつの現象には法則性があるとしても、重なり合う現象の予測は不可能である。そんな場合にひとは運命としか言いようがないとため息をつく。

要因が増えれば増えるほど蓋然性は高まる。危険に遭遇しないようにするには、危険因子を取り除くしかない。君子危うきに近寄らずを突き詰めていくと、人間の行動は狭まり、山に行かなければ遭遇しなかったということになる。行動しつつ、計算し尽くされた安全は蓋然性として保障されるが、ある確率で事故は発生する。事故発生率は統計的に言えても、個別の事故は予測不可能である。

あの日あの宿の湯でKさんは、何故どうしてと理由を探りながら、あの予測不可能な不確実な現象に、ただ運が悪いのかなとつぶやいたのだろう。

人生における事故とは、飛び交う弾丸にたまたま当たったということなのだろう。Aさんは当たり、Bさんは当たらなかったとして、何故Aさんなのかという答えはない。ランダムに飛び交う弾丸というのは、この世のあらゆるところで、サイコロがふられているということだろう。人知を尽くしたとしても不運はある。運命は予測不能なものとして、そのまま受け入れるしかないのだろう。

2023.2.17

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