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プラハの地図を見て

ユーラシア旅行社が主催するチェコ旅行の紹介が広尾のチェコ共和国大使館であった。祥雲寺の角を曲がり、長い坂道を登った所に大使館はあった。台地の斜面に建てられているため、住宅が階段を登り玄関に至る構造が目についた。チェコ大使館は、反対に下り斜面に建てられていて、入口を入ると階段を降りて、下の方に講堂があった。そこで、チェコの初めて耳にする街の説明があり、ビールが美味しいこと、路面電車が発達していて旅行者には便利だといった話を聞いた。

チェコには行ったことがない。ましてやプラハも知らない。もらってきたプラハの地図を帰ってからゆっくりと眺めてみた。ヴルタヴァ川(モルダウ川)が街の真ん中を流れている。川は、北方へと流れて、ドレスデンやハンブルクを経て北海に注いでいる。地図の中央に目をやると川の左岸が高いようだ。というのも左岸にペトシーン展望台やプラハ城がある。カレル橋という古い橋を渡ると右岸には旧市庁舎がある広場を中心に街が広がっている。高台の古城と広場のある街づくりは、ヨーロッパでよく見かける風景だ。人が住み着いてから王城が造られたのかは地図からは分からないが、王城のある街として、発達したようだと想像する。

『男はつらいよ』でウィーンから帰って来た寅さんに「ウィーンはどうでしたか」と博(前田吟)が聞くと、寅さんは「川が流れていて、お寺があってお坊さんが居る」というように答える。「それでは柴又と同じだ」と皆で笑い、どこに行っても人間は同じだとホッとさせる場面がある。プラハも、城があり、寺院があり、川の方に下町があり、江戸の町と基本は変わらない。

カレル橋の呼称がドイツ語由来ぽく感じる。カレル=カール=シャルル=チャールズと王様に多い名前だ。地図裏の説明では、14世紀カレル4世の治世下で建設が始まったとある。神聖ローマ皇帝カレル4世(ボヘミヤ王カレル1世)下でボヘミヤ王国の首都プラハが神聖ローマ帝国の首都にもなり、繁栄が築かれた。しかし、旧市街が2キロ平方の中に入ってしまう位に小さい。江戸の朱引きの範囲は、東西10キロ強ではるかに大都市であった。

カレル4世の父親は、ヨーロッパ貴族のルクセンブルク家のヨハン・フォン・ルクセンブルク(神聖ローマ帝国ハインリヒ7世の子)、母親は、ボヘミヤのチェコ人王朝プシェミスル朝のエリシュカ・プシェミスロヴナで、ヨハンは、エリシュカに婿入りの形でボヘミヤ王となった。このあたりの歴史は、上層王族間の政略が絡らみ複雑で、住んでいる民族と支配者は必ずしも一致しない。ヨーロッパの国々の歴史は複雑で、島国の歴史中心のわれわれには理解が難しい。

チェコの位置は、地理的にはヨーロッパの中央にあり、北東はポーランド、東はスロバキアに接するが、北西と西はドイツ、南はオーストリアとドイツ圏に囲まれている。古代にはケルト人、やがて民族大移動でゲルマン人、さらに6世紀までにスラブ人が定住して、現在のチェコ人の元が作られた。中世11世紀にドイツ人の植民が行われ、ドイツの影響を受けるようになったという(ウィキペディア)。

知れば知るほどに大陸の歴史は複雑である。近代のナショナリズムが興隆するまでは、住民と支配層は違っていた。庶民の関与しないところで国が動いていた。国は支配する人たちにより作られた時代が長く続いたということをプラハの地図から垣間見たようである。

プラハ市内


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