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ドラマを捨てて、人生を描いた朝ドラ「スカーレット」

 101作めの朝ドラ「スカーレット」。とうとう最終回を迎えましたね。

 地味だつまらないとの声もありつつも、愛好家には熱烈に愛され絶賛され続けたこのドラマ。
 ドラマとしてのクオリティで言えば、役者の熱演、劇伴の巧みさ、伏線回収や微に入り細に穿つ描写で称賛が圧倒的でしょう。しかし、絶賛の一方で、ハマらない人には全然面白みがない。
 それは何故か。
 それは、このドラマには「ドラマ」が欠けているからだと思います。
 スカーレットには、物語のカタルシスがない。問題に対して明快な答えを用意していないのです。

ドラマを捨てたスカーレット

 例えば常治。貧乏ゆえに酒に溺れ貴美子や姉妹の進路を翻弄し、時に暴君として家庭内で理不尽な振る舞いをする彼に、物語の中で明快な鉄槌は訪れませんでした。常治からの抑圧を感じ、そこからの解放を示唆するセリフや描写はあれど、誰かが常治の行いを断罪したり咎めることはなく、彼は惜しまれつつ退場していきます。
 例えば三津。貴美子と八郎の別離の因を作った彼女ですが、彼女の未熟さを指摘はしても三津が悪いと責める人はなく、また三津の行く末も不明で、彼女の取った行動が良かったのか悪かったのか、それを総括する描写もありません。
 スカーレットは、ある物事の良し悪しを明示するのではなく、常に物事には二面性があることを提示してきます。
 それは物事を見る視点としては間違っていないのですが、ドラマとしては非常に煮え切らない態度です。ある主題に対して答えが明示される。その時に私達はカタルシスを感じるのです。けれど、スカーレットにはそのカタルシス、スカッと解決、一刀両断がない。
 更に、答えがその場では提示されず、ずっと後になってから伏線回収として示されるのです。
 空襲の時に直子の手を離してしまった後悔は、最終回の直前になって答えが提示されました。それまでの間、この後悔は度々提示はされるのですが、答えは用意されません。問題が宙に浮いた長い長い期間のせいで、答えを待ちきれない視聴者は脱落し、解決のカタルシスは薄まってしまいます。
 スカーレットは問題に対しての答えの提示タイミングが意図的に長く取られていると感じます。それは幼少時の貴美子が絵を破り捨てられた後、意地と誇りにたどり着くまでに数日を要した時から変わりません。
 ある問題に対して山場を作り感情を盛り上げておいて、その答えをすぐには提示せずに、別の問題に移った後で伏線として回収していく。それがスカーレットの手法だと思います。起承転結の、転がとても長く、かつそれが別のエピソードの起承になっているのです。
 この構成は伏線回収の巧みさとしてはカタルシスがあるものの、盛り上がった感情は一旦置き去りになってしまい、そこに不完全燃焼を感じてしまう。また、問いと答えの連続性がストーリーの中で分断されているために、エピソード単独でのテーマが不明瞭になってしまい、そこに物事の二面性の提示もあるがゆえ、何を主張したいのかが明確ではない、主張したいことがないように見えるのです。
 一つ一つのエピソードが積み重なり大きな物語のうねりを生み出すのではなく、いくつものエピソードの流れが複雑に絡み合い、時に奔流となり、時に伏流となり地下に潜りながら、長い長いエピソードの束として一つの物語になる。
 非常に巧みで技工を要する脚本ですが、物語の大きな盛り上がりやカタルシスは得がたい。これがスカーレットが地味だ、つまらないと言われている原因だと思います。
 さて、私達の実際の人生において、問題に対して答えはすぐに提示されるものでしょうか。
 人生における選択があり、それに取り組んで、その是非がすぐに明確になる。そんな出来事は受験くらいではないのでしょうか。
 進路の選択、居住地、職業、結婚相手、子供を育てること、病気の治療方針、誰かと手を繋ぐこと、離すこと。大なり小なり人生は選択の連続です。 でもその選択が正しかったかどうか、それを選んですぐに答えが出ることは稀です。
 私達は、選択が正しいかどうかなんて分からずに、常に選んでいかざるを得ないのです。そしてその答えは、後から自分が気付くことでしか分からないのです。それは時には十年、二十年後、人生を終える間際に気がつくことだってあります。
 この人生の選択を忠実に再現しているのがスカーレットなのではないでしょうか。
 物語中で問題と正解が明快に示されていれば、主人公の選択に対して私達は是非を問いやすく、それは感情移入しやすくなることに繋がります。クイズの答えを当てた時の爽快感のように、主人公が正解の道を選ぶと見てる側もスッキリする。逆に正解に反しても幸福に繋がる道が示されたときは、その逆転劇に爽快感を覚える(上手に逆転できずに視聴者が失望する場合ももちろんあります)。
 ところが、スカーレットは常に物事の二面性が強調され、この場面では何が正解なのか、どの選択が正しいのかを明示されません。しかも、のちの伏線回収で正解が覆されたりもします。八郎との結婚は正解だったのか、それは作中で二転三転します。最終的に八郎との結婚の是非を貴美子が語ったりもしません。そうして棚上げになっている問題はいくつかあります。
 それは、私達の実際の人生と近しい態度なのです。
 実際の人生からエピソードを取捨選択し、そこに脚色を加えシンプルにすることによって、見て分かりやすく感情移入しやすく仕立てる。ドラマとしてはまっとうな仕事を、スカーレットはあえて施していない。スカーレットは、それまでのドラマと比べて、人生をドラマとして仕立てることを放棄しているとも言えると思います。

「私の人生」とリンクするスカーレット

 貴美子は女性陶芸家の草分け的存在です。作品は高額で取引され、熱烈なファンが付くほどの有名な陶芸家です。人生も波乱万丈です。彼女は成功者であり、天才であり、特別な人物です。
 でも、スカーレットではそこを強調して来ません
 貴美子が陶芸家としての底知れぬ才能を発揮して作陶に突き進んだのは、常治が亡くなってから穴窯が成功するまでの間です。
 穴窯にかける情熱は凄まじく、家を出た八郎と武志を捨て置き、照子の忠告に「一人もええなあ」と返したとき、筆者は貴美子がこのまま孤高の天才として生きていくのかと思いました。まあ凡百な素人の考えですが、世間を逸脱して芸術の神に(この場合は炎の神様に)人生を捧げて、家族を捨てた報いを受けながらも、それ以上に炎に愛され陶芸のミューズとなる。そういう苛烈でドラマチックな、しかし余人に真似のできないようなヒロインを提示してくるのではないかと慄きました。
 しかし、そこから貴美子は世間へと戻っていきました。大阪の人たち、家族や親友に支えられ、ファンに恵まれ、そして別れた夫とも和解していきます。貴美子の陶芸への情熱が世間を振り切ったのはとても印象的でしたが、穴窯が成功してからは常人が理解し難いほどのがむしゃらさは見せません。むしろ淡々と日々の作陶を続けていく、日常の中に常に途切れず陶芸が根付いているという印象です。
 貴美子が八郎を振り切って穴窯を成功させたあの一瞬、創作の成功と日常の幸福とは並び立たないのか?という問いが視聴者に散見されました。それは古来から続く芸術のテーマであり、その部分に切り込んできたのか、と感嘆したものです。
 だが、物語はそちらに舵を切りませんでした。
 創作が日々の暮らしの中でもたらす幸せ、不幸を乗り切る励ましの力となること、創作することが生きがいへと繋がること、創作が人と人とを結んでくれること。
 それは天才のみが許されることではありません。プロ・アマ、上手下手を問わず、創作をするすべての人が得ることのできるものです。
 これは、スカーレットが貴美子のモデルはいませんと言い続けていた事に深く関係するものです。
 川原貴美子というキャラクターは、参考とされた神山清子氏の抽象化ではなく、こうして筆者のように趣味で文を書いたり、絵を書いたり、書道や陶芸をしたりする、また仕事として創作をしている数多の人の、創作者の代表として人物造形されているのです。
 だから、貴美子を見ていると自分の人生の記憶の引き出しが開けられるのです。けして特別なことではなく、誰にでも起こりうる事、少なくない人が経験する思い。そういう普通から離れないよう、丁寧に綴ってきた人物描写だと思います。
 神山清子氏の生涯は簡単に報道されたものしか存じ上げませんが、それでも十分に波乱万丈であり、またものすごく強い方なのだと感じます。まさに烈火のような激しさと、そして苦難を乗り越え続けてきたからこその器の大きさです。
 でも、貴美子の炎は周りを焼き尽くすほどの激しさはありません。強かさがあり芯がありますが、器がすごく大きなわけでもなく、鈍感で至らない部分もある。孤高に佇む人ではなく、色んな人の手を借りて、助けて助けられて生きている。私達の延長にいる、普通の人なのです。
だから、物語の締めくくりが川原貴美子の個展ではなく「みんなの陶芸展」なのです。

ありのままの、普通の人生こそが尊い

 スカーレットとはどういうドラマだったのか。
 分かりやすさを最大限にして、誤解を恐れずに極端なことを言うと、朝ドラ版「この世界の片隅に」です。
 初の女性陶芸家ではありますが、この世界の片隅にいる、そしてどこにでもいるすずさんの一人なのです。
 スカーレット制作陣は、その普通の女性の生き方にこそ、私達を魅了する輝きがあると信じたのではないでしょうか。
 そして、川原貴美子の生き方にドラマを加えず、あえて生き様をごろりと剥き身のまま視聴者に提示しても、そこに輝きは見い出せると踏んだのだと思います。
 参考にされた神山氏、また女性陶芸家の方々、そして参考にされた幾人かの方々の人生は、きっと制作陣にとって最上のものに映ったのでしょう。その人々の人生をどう味付けして料理として仕立てるか。手を凝らして多くの人に受ける料理に仕立てることもできたでしょう。しかし、スカーレットはあえて塩だけで勝負に出たのです。
 食べる側の舌が肥えている、この素晴らしい素材の味をきっと分かってくれるはずだと思い、素材のそのものを生かした料理にしたのです。
 それは今までのドラマの定石を外したものです。制作陣としては大きな賭けだったでしょう。けれど、視聴者を信じるという強い信念がスカーレットにはあったと思います。
 あえてドラマを捨て、特別ではない普通の人の、そのままの人生を描くことが、この上ないドラマになる。それをスカーレットは最後まで貫いたのだと思います。

今を「普通」に生きること

 スカーレットの描き出した「当たり前の日常こそが尊い」というテーマは、偶然にも今この時に重く私達にのしかかります。
 普通の暮らしを当たり前に生きる。難しいことでしょうか?
 スカーレットの朝は食事の支度から始まります。食べること、掃除をすること、好きなことをすること、仕事を持つこと。当たり前の日常を営むこと。
 強いヒロインの貴美子だからできたことでしょうか?
 でも、貴美子は特別な人ではないのです。普通の、あなたの隣にもいる人です。みんなよりちょっと強い人、でも色んな人に支えられて強く生きる人です。そんな人は、きっと私達の周りにもいるはずです。

 スカーレットは、そんな貴美子の物語なのです。

  
 

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