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読書感想#53 【ディルタイ】「解釈学の成立」

出典元:解釈学の成立 	ディルタイ 訳久野昭 以文社 出版日1981/1

本書との出会い、思い出話

本題に入る前に、軽く思い出話を一つ。私が初めて本書を手に取ったのは、たしか2年ほど前だったと思います。ディルタイが誰かも知らぬまま、ただ「解釈学」という単語に引かれて、古本屋の入り口前に並べられた100円コーナーから本書を拾いました。当時の私が「解釈学」という単語に期待していたことといえば、「相対主義の肯定」「主観の優位」おおよそそのようなものだったと思います。だからというべきか、当時は全く本書の内容が理解できませんでしたし、魅力も感じませんでした。唯一の救いは、ページ数が少なかったこと、そんなことを思いながら本書を棚にしまいこんだものです。もちろん、今改めて読んでみても、十分理解できたとは言いがたい状況ですが、少なくとも本書の魅力が分かるようにはなったつもりです。昔と今で何が変わったのか、一つには相対主義に対する考え方でしょう。この変化が、私の中に価値転換をもたらしました。「解釈学=好き勝手に解釈しよう」から、「解釈学=正しく解釈するための技術を手に入れよう」と意識を改めた事が大きかったように思います。

解釈学とその目的、また私の読み方

「解釈学」と聞くと、初聞の方にとっては難しく思われるかも知れませんが、要するに認識を問題にしていると思って良いでしょう。私たちのものの見方、すなわち私たちの解釈というものを、理論的に考察するもの、それが解釈学なのです。

もちろん、私たちは特に理論を意識していなくても、日頃からすでに解釈というものを行っています。「リンゴ」を見れば、私たちはそれを「リンゴ」と解釈しますし、「消しゴム」を見れば、それを「消しゴム」と解釈します。しかし、この段階での解釈は、あくまでも主観的な解釈に留まります。「リンゴ」や「消しゴム」といった概念の由来を考慮すれば、多少は客観性を含んではいるものの、その解釈の仕方としては、「自分がこうだと思えば、それはこうである」以上、自分がどう感じるかということに尽きます。それに対して、解釈を学として扱う以上は、個人的な解釈を好き放題まかり通すわけにはいきません。学問とは普遍性を含むものでなければならないからです。それゆえ、解釈学の問題意識は、普遍的な認識の可能性とその限界を図ることに向かいます。普遍的な認識、それはどのようにして可能か、そしてどこに限界があるのか。これを目的として、私は本書を読みました。

主観的な解釈から客観的な解釈へ

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