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読書感想#34 【ジル・ドゥルーズ】「カントの批判哲学」

諸能力は、表象の対象と主観への関係の仕方に応じて、認識、欲求、感情の能力へと分化すると同時に、表象の起源の観点から、感性、悟性、理性に分かたれます。そしてこれらの諸能力は、それぞれにアプリオリを有しています。


しかしこのアプリオリというのは、決してそれら諸々の能力を人間的有限性から分離することはありません。諸能力が上位の形態に達するのも、また立法的役割を獲得するのも、全ては特殊で有限な能力たる限りにおいてだからです。即ち私たちは立法者ではありますが、それは畢竟私たちが有限性であるという意味においてでなければならないのです。


では、私たちの立法の目的とは一体何であり、そしてその意義はどこにあるのでしょうか。それは一言にていえば、最終目的にあります。最終目的とは即ち、ある現実存在の目的が、それ自身の内にあるもののことを指し、故にそれは同時に現実存在の根拠ともいえます。そして現実存在の根拠を自己の内に持つ存在者こそは究極目標といわれ、私たちはここに意義を見出すのです。

究極目標、それは諸目的について一つの概念を形成することであり、自己自身の現実存在の目的を、自己自身の内に見いだすことです。しからば自己自身の目的とは一体何なのでしょうか。例えば幸福の追求でしょうか。否、そうではありません。目的としての幸福は畢竟、私たち人間が何故現実に存在するのかという問に対しては、頗る無頓着なものだからです。では認識の達成にありましょうか。否、それも違うでしょう。もし認識者の現実存在自体がすでに究極目標でないのだとすれば、この目的等はなおさら、何ものでもないからです。あくまでも認識とは、私たちがただ反省の観点から自然目的の概念を形成しているに過ぎず、究極目標の理念を形成してはいないのです。即ち残すは、私たちが道徳的に存在すること、であるとしか考えられません。私たち自身が道徳的存在となったとき、もはや何故私が存在するのかなどという問いは意味をなさず、私の現実存在自体が自己自身の内に、至高の目的を含んでいるということになるからです。

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