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読書感想#59 【西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・下村寅太郎】「田辺哲学とは」

出典元:田辺哲学とは 西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・下村寅太郎  燈影舎 出版日1991/10/1

田辺哲学と西田哲学

田辺哲学から見た西田哲学

「田辺哲学」は、"絶対無"を基盤にするという点においては、「西田哲学」と通ずるところがあります。しかし、「田辺哲学」側から「西田哲学」を見ると、「西田哲学」は哲学を宗教化しており、哲学独自の立場を放棄していることになります。これは"絶対無"の捉え方から生じる分断です。

然るに田辺先生の批判によれば、宗教的体験である絶対無の自覚から、哲学的体系の原理として絶対無の場所が立てられるのは、無制約的な全体が一挙に与へられるやうな立場を基礎にすることであり、従ってそれ以下の段階をなす諸々の一般者の領域がそこからその限定として出てくることになる。即ちその哲学は一種の発出論的構成の体系とならざるを得ない。

p.9

いわゆる、"宗教的体験"がそのまま哲学理論上の根拠となっているのであり、現実の制約が理不尽に無視されてしまうのです。

宗教の立場ならば、意識的自己を単に突破するといふだけでよい。その代り宗教家は宗教とは何かを問題にしない(それを問題にするのは宗教学者である)。併し哲学といふ立場では、哲学するといふこと自身が哲学されるものとなり得る。

p.39

田辺にとっては、「西田哲学」がこの宗教的な立場に甘んじているように映り、それゆえ哲学そのものへの不徹底に思えたのでしょう。

私個人の感想としては、そのことに特に引っ掛かりはないのですが、それはおそらく私自身の知見に低さに原因があるので、むしろ田辺氏の着眼点を素直に受け入れることで、「西田哲学」の理解を深めることにしましょう。

田辺哲学と西田哲学の違い

両者の違いを端的にまとめると、おおよそ以下のようになります。

「西田哲学」の場合、"絶対無"の自覚によって一切が包まれ、それゆえ、自己を"無"にしてものを見ます。それに対し「田辺哲学」はあくまでも、"絶対無"に留まるのではなく、その否定原理を原点として、自己を"有"にしてものを見ます。つまり「田辺哲学」の足場は"相対的有"、私たちの"実践"にあるのです。「田辺哲学」において"絶対無"は、私たちの"実践"を方向付ける超越としての微分に他なりません。

田辺哲学の独自概念「絶対他力」

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