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読書感想#57 【高坂正顕】「キルケゴールからサルトルへ」

出典元:キェルケゴールからサルトルへ 高坂正顕 創文社 1967/9/30発行

決断の哲学

「実存主義」とは、その人自身の哲学です。その人自身の救いとなる"実存的真理"を説きます。

真理は単に客観的に、非人称的に妥当geltenしているものではなく、魂の歴史に於て生起geschehenしてくるものなのである。

p.9

すなわち、その人を通じて明らかになるのです。そのため、そこにあるのは"真理"というよりも"決断"です。その人が何を"決断"するか、ここに"実存的真理"が現れるのです。

そこには解決を与える命題はなく、むしろ決断を迫る命令があるだけであろう。所謂思惟が背理と逆説の前に挫折して、実存的現実に当面せざるを得ない時、その時、実存的真理は思いがけなく生起するのである。

p.11

かくして、実存哲学は"決断"において超越を求める哲学といえるでしょう。

そして、この"決断"には不安が伴います。なぜなら、決断という行為においては、答えとなるものがないからです。正しい選択をした、という安心感を得ることは出来ず、ずっと宙ぶらりんの状態です。それゆえ不安がつきものなのです。しかし、この不安こそは、実存主義の根底にあるものです。

不安(キルケゴール)

不安の概念の礎を築いたのは、高坂氏いわく、キルケゴールです。それゆえ、キルケゴールから、実存主義の系譜が始まるとされます。

キルケゴールは不安をどのように考えたか。それは次の二つの命題に要約されます。

一つは、不安は人間を罪に導くと共に、不安はまた却って人間を救済に導くということ、即ち不安の弁証法であり、他の一つは、その堕罪と救済の間に人間歴史は成立しているということ、即ち不安の歴史性である。

p.27


ここでは二つの内、前者についてのみ、述べることにします。それというのも、後者については、後に述べるサルトルの実存主義と内容が重複するからです。

キルケゴールは聖書を手掛かりに、不安に迫ります。聖書、すなわち戒めとの関係において、不安の本質を見出だし、またその戒めのゆえに不安が増大し、罪に至るという様を示すのです。それは三つの段階を経過するとされます。

第一の段階に於ては、アダムは無垢であると共に、まだ知恵を知らぬ無知の状態にある。ところがその無垢であると共に無知であるという状態が、実はそのまま不安な状態なのである。では何故であるか。それはアダムの魂は、未だ知恵の実を食わぬ故に知恵を知らず、まだ知恵を知らぬ精神は謂わば夢みる精神der traumende Geistにすぎぬからである。

p.28


聖書に馴染みがない人のためにも、俗的な解説を試みると、要するに人が生まれたばかりの状態は、無垢で無知であるがゆえに、いわば無を知覚している。つまり無に接しているのであり、それゆえ不安である。

しかしこの第一の段階は、「善悪を知るの樹は汝その果を食うべからず」という神の戒めの言葉を聞くことによって、不安の第二の段階に移される。何故であるか。けだしこの戒めは、食うべからずという禁止を含んでいる。ところが禁止はすべてその可能を前提し、それを行なう自由を予想する。してみればこの禁止の戒めをアダムが聞いたことは、当然「彼の中に自由の可能性を目覚めさせ」「成し得る可能性」die Moglichkeit zu konnenが存することを気付かせたであろう。

p.30

先ほどと同様に、俗的な解説を試みると、これはいわゆる人が社会生活に参加する段階です。人は社会に参入するにあたり、禁止の戒めを学びます。「してはいけない」こと、しかしこの禁止によって、あらゆる可能性が前提されるようになります。「食べてはいけない」という禁止から、「食べる」自由が予想され、「走ってはいけない」という禁止から、「走る」自由が予想されるように。

しかし、その自由が何であるかは分かりません。その分からない自由を前にして、不安は増大せざるを得ないのです。

しかしアダムの不安は単にそこには止まらない。アダムの不安は更に激しい第三の段階に達するのである。そしてそれは先の戒めに続く次の警告、「汝之を食う日には必ず死ぬべければなり」を聞くことによってなのである。

p.30

これは言い換えるなら、無なる自由の有限化です。これまで分からない自由であったものは、有限化されることによって、ようやく対象にすることができるようになります。しかしそれゆえにこそ、人は"有限なる自由"にすがりつくことになります。有限への執着、すなわち自己が自己によって誘惑されるという我欲、ゆえにこれは原罪であり、かくして不安と罪は結び付くのです。

我々は原罪を脱し得ない。我々の自己が自己自身を誘惑しているのである。我々が自己自身であろうとすることが罪なのである。

p.35

しかし、不安は原罪と同時に、救済の面も持ちます。

「私はこう語りたい、不安を学ぶということこそ、何人も耐えねばならぬ冒険である。けだし人は、もしそうでないならば、何らの不安を感じないことのために没落するか、或は不安の中に沈溺することのために没落するかのいずれかになるからである。これに反し、真に正しく不安を感ずること。学んだ人こそ、最高のものを学んだ人なのである。」

p.34

この言葉の真意を汲み取るには、神を持ち出さないわけにはいかないでしょう。不安は原罪であり、絶望であり、しかしその絶望的な不安を学んだからこそ、神への信仰が芽生えるのです。

しかしその絶望的な不安を学んだ時、即ち不安の根源に触れた時、その不安は無の深淵の前の不安でなく、むしろ神の前の不安として、彼を救済に導く媒介になるのである。

p.35


それゆえ、キルケゴールの実存主義は、「神の前に立つ」といわれます。

反復(キルケゴール)

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