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読書感想#52 【西田幾多郎】「純粋経験」

出典元:哲学概論 西田幾多郎 岩波書店 出版日1953/11/25

哲学の出発点

哲学においてもっとも重要なことは、疑うに疑い様のない直接の真理から出発することです。たとえばデカルトなどはその好例となるでしょう。<我思う故に我あり>=どれだけ物を疑っても、疑っている自分だけは疑えない。なぜなら、疑っている自分を疑っている自分を疑っている自分を……と、どれだけ自分を疑っても、疑っている自分はいなくならないからです。この疑っても疑ってもいなくならない自分を出発点に置いたのがデカルトでした。
 しかし西田幾多郎にいわせると、デカルトの<我思う故に我あり>は、まだ直接の真理には到達していません。

真の直接経験の事実は、我がそれを知っているというのではない。我が知るというのではなく、ただ知るということがあるだけである。否、知るということがあるのでもない。赤ならばただ赤というだけである。これは赤いというのも既に判断である。直接経験の事実ではない。直接経験の事実は、ただ、言語にいい現すことのできない赤の経験のみである。赤の外に「知る」とか「意識」とかいうことは不用である。赤の赤たることが即ち意識である。意識というものがあって、それが赤となったり緑となったりするというが、しかし直接経験にはそういう抽象的な意識はない。意識というものがあって、これが赤から緑に変ずるのではない。赤が緑に変ずるのがそれよりも根本的である。

p.180

要するに、<我思う>の<我>にはすでに疑いの余地があり、<思う>ということも何らかの判断を含んでいる、誤解を恐れずにいえば、思惟自体が二次的なのです。ではもっとも直接的なものは何か、それが今回の標題でもある『純粋経験』です。

独我論との対決

デカルトの<我思う故に我あり>には不徹底な所があったにしても、その根本の考え方自体に不備があったわけではありません。むしろ確実な出発点という意味では、誰もが承認し得る出発点を確立することに成功しました。疑うことによって疑うことを疑う、これによって、疑うに疑い様のない直接の真理から出発することが可能となったのです。しかしこの真理には大きな懸念材料が残されていました。西田が次に言う通りです。

唯すべての人の恐れるのはこれより来る結論である。かくの如き出立点からして遂にSolipsismus<独我論>を脱することができないばかりでなく、厳密にいえば瞬間的感覚というの外何事もいえない極端なる懐疑論に陥るの外ないではあるまいか。

p.181

一方で、西田はこうも言います。

併し独我論というのは始めから個人というものを仮定しているのである。

p.182

これは先ほどの、<我>に疑いの余地があるという話と通じます。たとえば、私たちは一つの肉体に対して一つの意識というものを考えがちです。肉体aに対しては意識a、肉体bに対しては意識bであり、aとbは全くの別物である、これが常識的な考え方です。しかしそうであるならば、昨日の意識と今日の意識というのもまた別物になってしまわないでしょうか。今の自分と十年後の自分では、身体の細胞ががらりと入れ替わっています。この時、意識も入れ替わっているのでしょうか。この答えが出せない以上、少なくとも現段階では、肉体と意識は単に個人というくくりでは統一できません。昨日と今日、自己と他者、ここの部分が曖昧のまま個人というものを仮定してしまうと、独我論に陥ることになるのです。

昨日の意識と今日の意識の連結を許すならば、之と同一の意義に於て自他の意識の連結も許さねばならぬと思う。

p.183

この提言はただの極論のようにも聞こえますが、本質的です。何を持って自己となすのか、ここをもう少し徹底するべきでしょう。

純粋経験とは何か

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