見出し画像

読書感想#58 【フランク・ロイド・ライト〈エドガー・カウフマン編〉】「ライトの建築論」(谷川正己・谷川陸子 共訳)

出典元:ライトの建築論 エドガー・カウフマン編 彰国社 出版日1970/11/10

ライトの建築観

建築論と一口にいっても、その建築家の生きた時代や立場によって、建築の捉え方は大きく異なります。それが建築論の面白いところでもあり、難しいところでもあります。では、ライトにとっての建築とは何だったのでしょうか?これを最初に明らかにしておくことが、親切であると思われるので、少し長い引用から始めます。

建築とは生命であることを、わたしは知っている。少なくとも生命それ自体が形式をとったものであることを、したがって昨日それが世界に存在したように、そして今日存在し、また永遠に存在し続けるであろうように、生命の最も真実な記録であることを、わたしは知っている。したがってわたしの知っている建築とは、偉大な精神である。それは、人間によってこの地上に建てられた建物から成るある物では決してありえないーそれらのほとんどは、今では駄作の堆積であるか、あるいは間もなくそうなるものである。建築とは、世代から世代へと、また時代から時代へと、人間の自然に従って、また彼の環境の変化に従って進行し、持続し、創造する、偉大な創造力豊かな生きた精神である。これが、本当の建築というものである。

p.12

これが後に「有機的建築」と名付けられる、大まかな概要といってもよいでしょう。ライトいわく、建築とはただの建物という箱ではなく、何より人間の精神であり、人間精神の表現なのです。

単なる建物は、精神を全然持ち合わせていない。

p.14

ゆえに、ただの建物と建築は区別されるべきでしょう。

有機的建築

では、建築と呼ぶに相応しい精神とは、一体どのようなものなのでしょうか?それは「完全なる秩序」、換言すると、「自然の完全性」を備えたものです。誤解をおそれずにいうと、「環境と密接に結び付いついた建物」です。そのような建物は、生命にしっかりと結び付いています。その建物においての機能は、常に自然の感情を表現しています。これこそ建築と呼ぶに相応しい精神を備えた建物なのです。

部分と全体

それは例えば、”部分”と”全体”の連なりに見られます。単に「全体から一部分を切り取っただけ」の”部分”、あるいは「部分の寄せ集め」としての”全体”ではなくして、一繋ぎに連なっている、ここに「完全なる秩序」が見られるからです。

道ばたを通りすぎる際に、ちょっと普通と違った色をした花や形の美しさが、われわれを魅了する。そして、その完全な美しさを、われわれは喜んで受け入れる。しかし、その口では言えない魅力の秘密は一体何であろうかと探し求めるとき、われわれは、最初にわれわれの心をとらえた自然の意図である、よりあざやかに目に映る花が、その下にある葉の形やテクスチュアに密接な関係を持っていることを発見する。われわれは、この花の形とその下の葉が出ている茎のシステムとの間に、特別の共鳴を発見する。このことから、われわれは成長の特性的な習性を観察し、構造の結果であるパターンを発見するようにと導かれるのである。

p.17

ここで私たちが発見するのは、時間(成長)です。成長する事物に、私たちは自然の秩序を見、そこに美を感じます。それゆえ、この秩序を取り入れることは、自ずと建物に建築の精神を宿すことになります。

したがって、有機的自然の中に見られる線や、色や、形による原因と結果の知識は、われわれにあるはっきりとした指導方向を与えてくれるということができよう。そして、芸術家はその指導方向に沿って、材料を高揚し、モチーフを試し、目的を管理して、かれらの作品のアイディアや理想を豊かなものにするための、少なくとも合理的な基礎をほぼ確立するのである。

p.19

私たちはただ、成長に身を任せるだけでよいのです。

もとより、成長するや否にせよ、全てのものは変じ行くことに違いありません。

有機的な変化の法則は、情深いもの、あるいは実際のものとして、人類が知ることのできる唯一のものであることを、わが国の大学をして実現させ、教えさせよう。あらゆる物は絶え間なく転化する。われわれはただ、その流れの途上でのある状態を知っているにすぎない。

p.33

この絶え間ない変化を素直に受け入れることは、自然を受け入れることであり、それゆえ建築精神が宿るというも、当然の帰結といえるでしょう。

外観と内観

ここから先は

4,064字

¥ 100

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?