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赤い明星



 ざっ、ざっざ、ざざっと、規則的だったはずの地面を踏み締める音が次第に乱れていくのが分かる。人間の娘には無理もない。三日三晩、月が明るくとも荒野を歩くのは、うら若き乙女の細い足では限界だろう。俺は乾き切った唇をざらりと舐めると、娘の青白く照らされた顔に振り向いた。「疲れたか。お前さえ良ければもうここでしまいにすることも出来るのだぞ」
 娘は弱々しく微笑んで首を横に振ると、放逐されたときのままの衣服をぱたぱたと叩いて、まとわりついた砂埃を払った。もう良いと言うのに。俺だけが、陽の光に焼かれてお前の払った塵芥になるべきなのに。下僕としての契約を結んですらいない娘を、俺は己の眷属に招き入れていない。半永遠の命を生きてきた俺は、もはやこの娘が引き摺り歩く棺桶無しでは生きながらえぬ身体となって初めて、数百年に渡る人間との主従の関係を捨てようとしていた。
 娘の白く細い腕が引く綱の先、地を這いずるもやわれた棺桶は、娘が村人たちに額を砂に擦り付けてまで懇願して許可されたふたつの荷物のうちの一つだ。残りは、腰に下げた皮袋に入ったわずかな水。もうじき夜が明ける。また灼熱の荒野の一日が始まろうとしている。俺は、明けの明星が空に輝きはじめるのを感じると、聖鎖で縛られた両手を娘の肩に置いた。
「止まれ。今日はここまでだ。明日があるならもう休め。どのみち俺はもう進めぬ」
 娘がこくん、と頷く。まだ先の見えぬ前途を想ってか、娘は軽い皮袋を振ると哀しそうな顔をして遠くを見つめた。まだ薄明りとも呼べぬ払暁が忍び寄って来る。俺は両の牙をひと撫ですると、娘の見つめる先を眺めようと目を凝らした。かつては見えた暗闇の先が、今はもう見えない。果てしなく続く荒野。力を奪われ血に飢えた吸血鬼と、力も持たず渇きに飢えた哀れな人間。俺たちは明日、死ぬ。

 棺桶の中、身を横たえる俺の傍らで娘の呼吸が聞こえる。陽の光に耐えられないのは今や娘も同じだ。村を放逐されてから、日中はこうして荒野に置かれた棺桶の中、二人で暗闇を纏いながら過ごすのが普通になってしまった。密着する温かな娘の体温を感じながら、俺が冷たい身体で良かったと、不覚にも苦笑いを浮かべる。
 娘が唸り、寝返りをうつ。向こうを向いた娘の首筋が、おそらく俺の目の前にある。俺は欲望を感じる。いま、この暗闇の中で目の前にある首筋に牙を突き立てれば、俺の乾きは癒される。それは同時に、娘にも半永遠の命を、解けぬ呪いをくれてやることにもなる。俺は必死で、剥き出されていく牙を仕舞った。
 娘が言葉になっていない寝言を漏らす。娘は口がきけぬ。村での虐げられていた生活は如何ほどだったのだろうか。俺が、淫売、淫売と石で打たれている此奴こやつを憐れみ助けなければ、あと幾年、この娘は生きながらえていたのだろうか。いや、それよりも、正体を暴かれた俺を庇った時点で此奴の命は尽きていたのだろうか。いずれにしても、俺は探していた死に場所を此処に求めるべきでは無かった。耐えられないほどの渇きが俺を襲う。飢えた人間は、これから肉を食べるために屠殺する目の前の豚を、果たして愛せるのだろうか。数百年のうちに理解できなくなったその感情に縋り付くかのように、俺は娘を背後から恐る恐る抱きしめた。

 日が沈んでも俺は歩き出せなかった。あまりの渇きに吠え苦しみ、地面をのたうち回る俺をどうすることもできず、娘はおろおろするばかりだった。わずかに残った皮袋の水を差し出すが、牙を剥き出し暴れる俺は皮袋を払い除け、中身を全てぶち撒けた。堪らず娘は襟元をはだけ、首筋を曝け出すと涙を流して俺に歩み寄る。来るな淫売、行け、豚は行ってしまえ、俺は正に鬼の形相で娘に吠えた。お前に死ねない・・・・覚悟はあるのか。人間への隷属から解き放たれたお前は、懲りもせず夜に隷属しようというのか。ましてやこの卑しい俺、おれの、永遠の餌に、成り果てようとするのか。俺はそんな言葉を絞り出すが、娘は俺に近づくのを一向に止めなかった。乾き切ったその体のいったいどこに水を蓄えていたのかと訝しむほどの涙を流して、娘は何かを決意するような顔をした。
 いけない。俺は地べたを這いずり娘を止めようとしたが間に合いはしなかった。娘は己の舌を噛み切ると、俺の頭を抱え上げ、叫び吠える口を血の流れる口で塞いだ。俺の口内に娘の温かな血が満ちていく。奪うのではなく、施される血。俺は恍惚と後悔で身動きできぬまま娘の血を喉の奥へ奥へと導く。
 幾刻が過ぎただろうか。娘の体温が次第に俺と同じくらいになった頃、渇きの癒えた俺は聖鎖を引きちぎり、娘をそっと地面に横たえた。俺の口の端にまだ血が残っている。俺は舌でそれを舐めとってしまうと、どこか懐かしいその味を記憶の底から呼び起こしていた。そうだ、この味は、十数年前に襲った村で吸い尽くしたあの女の血と同じ味だ。胸に赤子を抱えた、やもめの女。あの時も空腹に耐えかねた俺は、血を吸い尽くして骸となった女に縋る、声も出さずに泣く赤子・・・・・・・・・・を見て、もう血は吸わぬと決意したはずだったのに。

 俺は震える手で娘を棺に納めると、蓋を閉めその上に腰掛ける。昨夜と同じ、明けの明星が空に輝き出す。はかないその輝きが次第に消えていくまで、薄明りとも呼べぬ払暁が暗闇を追い払ってしまうまで、俺は東の空を見つめて棺の上で静かに座っている。

                  (終)

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