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桶屋が儲かるファイナル

〜承前〜 

「で、これが新作ってわけなのね、心労くん」
 編集の佐々木さんは今日も綺麗だ。ぼくの提出した原稿をトントンとまとめる細くて白い指。眼鏡の奥の切れ長の目に長いまつ毛、艶やかな髪はサラサラとしていて、思わずコンディショナーなに使ってるんですかと聞きたくなってしまう。ああ、佐々木さん。ぼくの女神、ぼくの憧れ、ぼくにとっての鬼軍曹……
「ちょっと聞いてるの心労くん。これで担当するのも最後なんだからって、『ぼくの全てを注ぎ込んだ新作、読んでください!』って呼び出したのは貴方なのよ?自覚あるの?」
 ああ、そうなのだ。来週から編集の佐々木さんは、海外で展開する新雑誌の編集長に任命されて、ぼくのところから離れて行ってしまう。なんて悲しいんだ。まるでこの世の終わりだ。叶わぬ恋と知ってはいても、こんなにも二人が離れてしまうなんて。
 ふーっ、と佐々木さんはため息を吐いて、目を瞑る。掻き上げた髪の間から覗く左手の薬指にはきらきらした指輪が。そうなんだ。分かっているんだ。これは実らぬ恋。そっと陰から想う恋。いいんだ、ぼくは佐々木さんの幸せと成功のためなら潔く身をひk
「好きよ、心労くん。」
 ですよね。ごめんなさいね佐々木さん。身の程知らずの恋でした。ぼくは佐々木さんと向かい合って座るコメダ珈琲店のソファをいやらしくなで回す。ああ、コメダのソファだけがぼくに優しい。すべすべ滑らかな布地がぼくの傷ついた心を癒してえっ佐々木さんいま何ておっしゃいました????
「だから、好き、って言ったのよ。」
 ぼくの心臓の回転数が一瞬で最高値に達する。
 視界が狭まって息ができなくなる。
 目の前のシロノワールが溶けていくのも構わずに、ぼくはこの瞬間、この刻よ永遠に続け、と神に願っt
「なに固まってるの。好きよ、こういう展開。悪く無いわね。これなら安心して後任の編集さんに引き継ぎできそうだわ。ん?どしたの心労くん」
 ですよね。ぼくはライター。佐々木さんは編集者。どこまで行ってもその関係は崩れない。ましてや佐々木さんは人の妻。一瞬でも夢を見た僕を……
「許してください。これで最後ですから、ひとつだけ、ぼくの願いを聞いてくれませんか」
 ぼくはガバッ、と身を乗り出して真面目な表情で佐々木さんを見つめた。
「……気づいてるわよ。だいぶ前から。ずっと我慢してたんでしょ。私に言いたいこと、知ってるわ」
 ぼくは息を呑んだ。佐々木さんの綺麗な瞳がぼくを見据える。沈黙が流れる。シロノワールに乗っかったソフトクリームはもう溶けて無くなってしまった。儚い甘さ、束の間の夢。佐々木さんの唇が、止まった刻を再び動かした。

「雑誌ライターの仕事辞めて、小説一本でやっていきたいんでしょ。良いわよ。私からも次の担当に推薦してあげる。それでいい?」


 ぼくは即答した。「オッケーやで🙆🏻‍♂️」
 佐々木さんがズッコケる。「もぉっ……軽っ!」

桶屋で儲かる。

          〜(完)〜

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