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せん

(第一回『幻想と怪奇』ショート・ショートコンテスト二次選考通過作品を改稿)


 盆真っ只中、砂利だらけの浜辺の早朝はそれでも暑い。山側から顔を出してきた朝日に照らされて伸びた自分の影を眺めてひと息つくと、宮田は腰を屈め、延々と広がる砂利浜から再び石を拾い始めた。
 波打ち際には妻の頼子と息子の悠人。昨日、妻の実家がある糸魚川市に里帰りして1時間で田舎の退屈さに飽きた息子が、持ってくるのを忘れたゲーム機の代わりに目をつけたのが石拾いだった。「おとうさん、これやりたい」荷をほどきながら見た夕方の新潟ローカルニュース。【いま、石拾いがアツい!】ああ、このへんの海では、運が良ければ翡翠ひすいが拾えるんだよ。明日、暑くなる前に行っておいで。それが終わったら近くの温泉にでも行こうかね。
 デレデレしっぱなしの義父の優しい声が、来年小学校にあがる孫にかけられる。ゴツゴツとした手のひらが悠人を掴むと、海の男らしい力強さで抱き抱え、肩車に担ぎ上げると海の見える縁側へと義父は歩き出した。夕陽が沈んでいく。宮田のそのあとの記憶は朧げだ。地酒と海の幸でもてなされた妻の実家への帰省初日は、前後不覚になるほど飲まされた記憶しか残っていない。豪快に飲み食いする義父にやや辟易しながらも、頼子の手前、断ることもできない宮田は、強くもない酒に呑まれて早々にダウンしてしまっていた。
 そこへ、息子に朝五時半に叩き起こされた今朝である。
 二日酔いで上手く回らない頭を振り、それでも愛する息子の為、懸命に翡翠を探す。緑色の石は無いかと目先をくるくる回しながら、開始十分で石拾いに飽きた息子が波打ち際でたてるはしゃぎ声を聞き、彼はこれでもない、あれでもないと、石を拾っては捨て、捨てては拾いを繰り返す。太陽はだんだんと暴力性を増してくる。濃い青空が次第に薄められていく。痛む腰、灼かれる背中。きゃはは、あらダメよ悠人、そっちは危ないから。ざぶん。いやー。あ、かにさんいた。ホントね。おかーさん、ぬれちゃったー。あはは。
 やりきれなくなって、心の中でうおお、と吠えた宮田は、両手でガシガシと砂利をかき分け、意味もなく小石を撒き散らす。ひとしきり暴れるといくぶん心がスッキリしたのか、ぜえぜえと息を荒げて天を仰ぎ、
「頼子ー。悠人ー。見つからないからそろそろ帰ろうかー」と遠くの二人に声をかけ、その場に仰向けに寝転んだ。
 じゃりじゃりと二人の足音が近寄ってくるのを聴き、顔を起こした宮田は、息子が自分の掘った小さな窪みを覗き込んでいるのを見る。目を丸くして見つめるその窪みの底には、ひとつの石が。
「あなた、やったじゃない。これ、きっと翡翠よ」
 喜色を滲ませた声を上げる頼子は、石を指差しながら宮田の側にしゃがみ込み、スマホで写真を撮り始めた。
「おとうさん、とれなーい」
 窪みに手を突っ込んだ悠人がその石を取ろうと苦戦している。大きさは子どもの掌の半分くらいなのに、力いっぱい持ち上げようとする悠人の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「へえ、変だな。そんなに重いのかい?」宮田もその石に触れ、引っ張ってみるがびくともしない。きれいなのにい、と次第に涙目になってぐずり始める悠人。あなた、どうにかならないの、と怪訝な顔の頼子。宮田は何回か渾身の力で石を持ち上げようと頑張るが、石は微動だにしない。頼子の深いため息、泣き声を上げる悠人。
 仕方ないだろ、きっと大きな石の一部が上に出てるだけなんだよ。取れないものは仕方ない、と愚痴り、石を掴みながら二人の方を向き体を捻った宮田の手に、微かな手応えが生まれた。あれ、こいつ、回すと動くぞ・・・・・・
 宮田は、ぎゅむぎゅむとその石を捻って回し、回しては引っ張ると、きゅぽん、というコルクが抜けるような音と共に石が掌の中に滑り込んだ。勢い余って転げる宮田の視界の端には、石の下に埋まっているパイプのような穴が……
 がつん。
 おとうさん!あなた!
 宮田は転げた勢いで後頭部を大きな岩に強打した。遠ざかる意識の中、掌からこぼれ落ちた石の色を視認する。これ、綺麗な石なのか?
 刹那の瞬間思い出したのは、幼い頃、持っていた絵の具を興味本位で全色混ぜ合わせてみたときの色。あれは、ドブみたいな汚い色だったか……そしてゆっくりと目を閉じる。暗転。

 宮田は気がつくと座敷で横になっていた。ずきずきと痛む後頭部に手を当てると、大きなたんこぶができているのが分かる。いてて、と声を上げて身を起こすと、額の濡れてぬぐいがハラリと落ちて胸に掛かった。おーい、頼子ー。悠人ー。お義父さーん、起きましたよー。二日酔いに加えて、打った頭の割れるような痛みに耐えながら、宮田は這うようにして居間へと続く廊下を進む。次第に近づいてくるきゃはは、という悠人の声。朝のニュース番組の音が漏れてくる居間の障子を開けると、そこには卓を囲んで団欒している三人がいた。
「あら起きたの。大変だったのよ。お父さんがあなたをここまで担いで戻ってきてくれたんだから」
「おう、大丈夫かね。災難だったなぁははは」
「みてみて! おとうさん、この石きれいだよー」
 畳み掛けるようなテンションの家族の声を受け流した宮田は、卓の上に置かれた石を眺める。うん、やっぱり汚いドブみたいな色の石だ……とも言えず、彼はひきつった笑顔で、綺麗だね、大切にするんだよ、と悠人の頭を撫でた。
「こりゃ翡翠かな」「あら、もっと良い宝石の原石かもしれないわ」「きらきらしてるー。これ、たからものにするね!」
 いよいよ二日酔いと打った頭でダメになったかな、と宮田は乾いた笑いを漏らしながら、もう少し横になってきます、と、ふらつく足取りで座敷へと戻ろうと廊下へ出る。顔を上げる。突き当たりの座敷の襖が消失点に消えている。
 え。と目を擦った宮田はもう一度目を開くが、同じだ。いま出てきた座敷の襖が、何百メートルも先の彼方にあるように見える……というか、廊下が引き延ばされている・・・・・・・・・・・・。身震いをした宮田は、恐る恐る一歩めを踏み出す、と、凄まじいスピードで周りの光景が後ろに流れ、壁や戸が一瞬で溶けるように移動した。どこかで見たこの感覚、そうだ、グーグルマップのストリートビューで見た、位置を移動するときのあの画面の移り変わりにそっくりだ。宮田は、後頭部をさすりながら、きっと、これは僕の頭が一時的に見せている脳のエラーなんだ、と無理矢理自分を納得させ、二歩目、三歩目と歩を進める。進むごとに周囲の視界がぼやけ、高速で瞬間移動するような歩行に戸惑いながらも、彼は座敷へ辿り着いた。
 荒い息を抑えつつ、襖の向こうにある畳の上のタオルケットと枕を見つめる宮田。さっきと同じだ、畳も、タオルケットも、枕も、どこかの方向に引き伸ばされているように見える。しかし、彼が座敷に入り手を伸ばすと、何メートルも遠くにあるように見えていたそれらも、実際に掴めるし触れる。寝よう。寝て酒を抜いて、しばらく休もう。盆前の激務で疲れてるのもあるんだ。宮田は恐る恐る横になると、奇妙に歪んだ座敷の天井を見上げたあと目を瞑った。

「じゃあね、じいじ。ばいばーい!」
 窓側の席に座った悠人が名残惜しそうに手を振る。義父に地元のおもちゃ屋で買ってもらったゲームソフトの箱をひらつかせるその姿を見つめながら、宮田は三列シートの真ん中の新幹線の座席に身を沈め、凄まじい勢いで遠ざかりはじめたホームで義父が手を振るのを窓越しにとらえた。もはや新幹線の後部は遥か彼方の消失点へ消え去り、何両編成かも分からなくなった車両が溶けるようなスピードで前?に進んでいく。
 宮田の視界は結局治っていなかった。まあ、東京に帰って良い医者にかかればすぐ良くなるだろう。そう楽観した宮田は、出発点の方向に引き伸ばされた新幹線の車内を見るのに耐えかねて目を閉じる。あ、石もってくるのわすれちゃったー。仕方ないわねぇ、またこんど行ったとき持ってきなさい。ご乗車ありがとうございます。この電車は、終点、東京駅まで約二年で到着いたします。あら、意外と早いのね。お盆運行の新幹線だからかしら。ねぇおかあさん、すまほで動画見るー。もう、仕方ないわねぇ。あなた、起きてスマホ出してよ。
 二年? いま二年ってアナウンスしたか? 宮田はガバリと起き上がり、胸ポケットに入ったスマホを取り出しスリープ機能を解除した。
 ストップウォッチのような勢いでデジタル表示の分が、時間が進んでいる。慌てて見た腕時計の短針も、目にも止まらぬ速さで回り始めている。悠人が手の中のスマホをひったくり、お気に入りのユーチューブ動画を見始めた。『一年でどこまでできる? マイクラRTA! 』動画サイトの音声が車内に響いた。慌てて音量を下げる宮田。
「なあ、頼子、いまアナウンスで二年って」
「どうしたの青い顔して。二年よ。早い方じゃない? 私が若い頃は乗り換え含めて四年掛かったものよ。」
「ととと東京まで、な……何キロあるんだっけ、実家って」
「? おかしな事聞くのね……そうね、だいたい400万kmくらいかしら。どうしたの?」
 いや、なんでもないよ。少し寝るね。と呟いて、宮田は再び座席に身を沈めた。微睡む瞬間、彼に微かな考えが浮かんでくる。
 しばらくののち、新幹線は東京駅のホームに到着した。体感時間で約二時間、なのに掛かった時間は二年と三日。出発した時に見た駅の広告は2023年。いま見ているポスターは2025年。おとうさん、いくよー。悠人の声が聞こえる。駅の構内が広大すぎて、声のした方向の遥か彼方で妻と息子が手招きしている。彼は歩き出すと、またあの凄まじいスピードで周囲の景色が溶けて流れる。その様子を、構内の利用客は誰も不思議に思ったりしていない。間違いない。
 世界は僕の知らない間に書き換えられ、どこかに引っ張られて引き伸ばされている。

 盆明け出社した測量事務所で、彼は更に絶望感に襲われた。これまでやってきた測量の仕事が、全く理解できないものに変わっている。まるで異次元の土地を測量しているかのように、自分の距離への認識と同僚の距離への認識が変質してしまっているのだ。
「どうしたんすか宮田先輩、今日、調子悪いんすか」
 昼休憩中に心配した後輩が声をかけてくる。特定の方向に引き伸ばされ、全ての景色が一点透視図法に見える解像度の低い3Dゲームの中に居るような感覚に気持ちが悪くなり、移動車両の中でうずくまる宮田だったが、後輩の開いていたタブレット端末をひったくると、思いついた考えを実行に移した。この景色の消失点、どこが中心点なんだ。どこに世界が引っ張られているんだ。怪訝な顔で宮田を見る後輩を無視して、彼は測量用の衛星画像配信アプリを立ち上げる。衛星からのCG処理された画像が飛び出してくる。この地球、間違いない。地球が巨大な林檎のてっぺんのように、日本のある土地の一点を目掛けて落ち込み引き伸ばされている。中心部から離れるほど距離の引き伸ばしは緩やかで、中心部に行くほど、巨大な穴に流れ込む海面のように急激な歪曲が起こっている。
 宮田は、また自分の幼い頃を思い出した。図工の時間、絵の具のパレットを洗おうと流し台に立ったとき、水を張った流し台に絵の具を垂らして排水口の栓を抜き、そこに流れ込む絵の具が次第に渦を巻いて延ばされていったときの光景を。あれと同じだ。世界は、どこか栓の抜けた排水口に向かって延々と吸い込まれていっている。
 画像を二本指でピンチアウトし拡大する。座標の表示は、日本、北陸、海沿い、ここはあのとき、あのドブみたいな色をした石を拾った……
「頼子の実家があるあの浜辺だ……」
 せんぱい?と気味悪そうに話しかけてきた後輩にタブレットを押し付けて返すと、宮田は車を降りて叫んだ。
「すまん、用事思い出したんで早退する!」
「会社には何て言っとけば良いンスか?」
 奥行きのある困り顔で車から身を乗り出した後輩に向かって、走り出した宮田は言った。
「栓、締め忘れたから塞いでくるって言っといてくれ!」

 東京駅から仕事着のまま北陸新幹線に飛び乗り、聞いたアナウンスは「途中駅の糸魚川までは五分で到着致します」。無茶苦茶だ。世界から流れ落ちる方が、流れに逆らって進む方より速いのか。妙な納得をした宮田は、腕時計を確認した。今度は、秒針すら動いていない。俺が開けた栓は、たぶん世界の栓だったんだ。どうにかして浜辺にあったあのパイプに栓をすれば、この世界が排水口に吸い込まれるのは止まる。きっと、拾ったあのドブ石がその栓だったんだ。宮田はそんなあても無い確信を抱きながら、遥か彼方に見える、全ての色を混ぜ合わせたような色をした消失点へと進み出した新幹線の座席に身を委ねた。

 頼子の実家は台風が近づいていた。荒れ狂う雨風が次第に強くなる中、時計の上では五分間、体感時間で二時間を列車内で過ごした宮田は、新幹線を飛び降りると駅前ロータリーのタクシーへ転がり込み、実家の住所を告げる。円形のロータリーは海側へ向かって鋭い針のような細さで歪み、乗ったタクシーは同じ方向に車体をどこまでも伸ばしている。「お客さん、地元の人?」振り返った運転手も、同じ方向に顔が延々と吸い込まれるような長さで歪んだ顔に笑顔を浮かべていた。
「いや、僕は……たぶんこの世界の人間じゃ無いんです。」
 その意味が分からず、顔に笑顔を貼り付けたままの運転手は無言でタクシーを走らせた。宮田は、どこにも引っ張られていない自分の掌をただ見つめながら、0.01秒で着きますよ、と言われた実家への道のりを、じっと待っている。

「お義父さん、申し訳ありません。助かります」
 不思議そうな顔で宮田を見つめていた義父は、亡くなった妻の仏壇に置いていた例の石を彼に手渡すと、
「まあ、悠人くんが残念がってるなら仕方ないけどな、この翡翠、郵送とかで送る方法もあったんじゃないか……」と、困惑したような声で言った。
「いえ、貴重なものだったので、直接、受け取り、たかったんです」
 息も絶え絶えな宮田の目の前には、完璧な遠近法で延々と引き伸ばされて線となった義父の姿が。その線にぺこりと頭を下げると、宮田は消失点の方角へと駆け出した。おい、いま台風が来てるから気をつけなよ、と、訳もわからず海辺に走り出す宮田に声をかけ、一本の線は首をかしげながら家の中へと入っていった。

 浜辺は風雨で荒れ狂っていた。ついこの前見た穏やかな波打ち際には怒涛の波が打ち寄せ、吹き付ける海風は容赦なく宮田を叩いた。痛みすら感じる雨を浴びながら、宮田は広大な砂利の浜辺……世界の全てを全面に貼り付けた筒の内部に居るかのようなその景色を浜辺と呼ぶのなら……に立ち尽くした。
 どこにあの石がはまっていた穴があったか分からない。
 自身の周囲だけは平面の見かけが視認できる浜辺に這いつくばり、宮田は懸命にあの石が落ちていたポイントを探す。目印になる岩も、波消しブロックも、流木も海も、それぞれが一本の線となってマンガの集中効果のように一点に収束している。ほんの数メートルの距離が何万キロ先の消失点のように感じられ、しかしそこまで辿り着くのはほんの一瞬というデタラメな距離感に悩まされながら、彼は地面の砂利浜を少しずつ進んでいく。
 周囲が薄暗くなりつつある。目的の位置まで近づいている予感はあるが、確信が持てない。周囲を見渡そうと振り返った宮田は、今まで急いできたゆえに、ついぞ見ることのなかったその光景に絶句した。
 世界の全てが自分の背後に見渡せている。
 漆黒の宇宙に散りばめられた星々の下、近景から遠景まで、展開図のような地球の視覚情報の全てが異常な明瞭さをもって宮田の眼前に広がっていた。捻じ曲げられ、歪められてはいるが、眼前にあるのは紛れもなく自分が「いた」世界だ。自宅、東京、日本、アジアの大陸、さらに遠くにはユーラシア全土、アフリカ、北米、南米大陸などの地球の裏側に位置する地もくっきりと見える。その全ての視覚情報が雪崩打つように宮田の元へと注ぎ込まれ、いま自分がいる場所へ色とりどりの線となって落ち込んでくる。宮田は気が遠くなりそうなその光景に身震いすると、再び嵐の浜辺に向き直り、穴の在処を探し始めた。このままでは、ぜんぶが、吸い込まれてしまう。打った後頭部が再び痛み出した。宮田は飛びそうな意識の中である事を思い出す。彼は妻に電話をかけた。
「頼子、ごめん、この前撮った、あの石の写真、今すぐ僕にメールで送ってくれないか」
「は? え、いいけど、あなた今どこで何やってるの? 会社から心配して電話かかって来たのよ?」
「だいじょうぶ、いま、お義父さんの、実家のちかくに、いるから」次いで、ごめん、僕のせいでこんなことに、と言いかけようとして宮田は口をつぐむ。そうだ、僕以外の人はこの世界に順応しているんだ。今更、僕が何をやったからといって、皆はいつも通り、何も気にしない生活を送るんだよな、そうだろう?
 目の前が滲んでくる。宮田は急に、自分の居場所がこの世界のどこにも無いような錯覚にとらわれた。怪訝な声の妻との通話を切り、メールを待つ長い長い返信までの間、もうここで、世界と時が流れ落ちていくここで永遠に居ようか。そんな考えまでが頭をよぎる。膝から崩れ落ちた宮田は、咽び泣きながら叩きつける雨に凍え、砂利を握りしめると掴んでは千万キロ先の海に投げ、掴んでは一万キロ先の波に叩きつけた。
 メールの着信音が嵐の中鳴り響く。
 宮田は縋るようにスマホを握りしめ、メール画面を開いた。
『戻ってくるとき、お父さんからメギスの干物、貰ってきてね。あれ、悠人が気に入っちゃったみたい。他のおかずも美味しいもの作って待ってるから、気をつけて帰ってきてね。』
 添付された二枚の画像のひとつには、自分が頭をぶつけた大きな岩とあのドブ石、もうひとつには悠人を抱いたエプロン姿の頼子の笑顔が写っている。宮田は、ははは、としばらく吹っ切れたように笑うと、そうか、美味しいご飯作ってくれてるんなら、急いで帰らなきゃな、と呟き、目の前の大きな岩のすぐそばの砂利を素手でガシガシと掘りだした。そしてあのパイプの穴を掘り当てると、ポケットにしまった石を取り出す。
「寒いなぁ。帰ったら、みんなで温泉でも行くか。」
 そして、彼はみどり色に輝く石で栓を締めた。

「おとーさん、あつーい。もうでるー」
 湯気を掻き分けて悠人が湯から上がり、洗い場の義父のところにぺたぺたと駆け寄る。そーかそーかー。まだちっちゃい子には早いかなー。義父のデレデレ声が、2mm四方はあろうかという広い湯殿の空間に響いた。
 八月最後の週、みんなで温泉にこれてよかった。東京の自宅から400m、電車で2時間ちょっとの旅。糸魚川市の中心部から、山の中に足を伸ばした洒落た温泉宿。頼子はのんびりエステ中、僕は来週からの仕事に向けて、しばし英気を養う事にするか。何せ激務だ。これから先、どんどん土地が増えていく。一週間前には4つも県が増えた。2日前には新たに15の市町村が誕生した。測量しなきゃならない土地は山ほどある。そう、この温泉の湯が湧き出るように、いつまでも、どこまでも新しい世界は増え、古い世界は圧され、縮んでいく。
 宮田は、とろとろした熱い湯に顔を半分埋めて、ぷくぷくと息を吐くと浮かび上がる泡を眺めた。彼の知らないどこかから、こんこんと、世界が温かく湧き出ている。音もなく、絶え間なく。

                (おわり)

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