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聖霊の霊的進化論「愚か者が賢者になる」

立て続けに記事を書いておりますが、どんどんと閃きが下りてきてます。

今日は霊的進化と聖霊の関係を話したいと思います。

巡礼者の数だけ神に至る道があります。
その一つとして、聖霊の道は最高のものであるとお伝えします。

師から聖霊の話を聞かせてもらったのは、数年前にさかのぼります。
そのときは、ただ祈り方と聖霊の音を教えてもらったのです。
その上で聞かせてもらったことは単純でした。

「聖霊にお願いしてみなさい。どんなことでも叶えてもらえる」

その日はそれ以上の言葉はなく、ただ自分で行じてわかるようにとのことでした。
別の日にはこんな言葉を聞かせてもらいました。

「聖霊に癒せないものはないよ。この世界の全ての『形』を作っているから」

先生は言葉少なに伝えてくれました。
それ以上のことは語らず、聖霊とは一体何なのかを自分でつかむように促したのです。

当時、聖書にも書かれている聖霊(ホーリースピリット)のことだろうかと思っていました。
聖書やマスターの話には、驚異的な霊的成長の話が書かれていました。

・ペンテコステ(聖霊降臨日)=最高の霊的成長

これは聖霊が最高の霊的成長をもたらした話です。
キリストが復活して、それから昇天した後の事です。

信徒たちは120人ほどで集まって祈っていたのです。
すると、神から聖霊がくだって、信徒たちの頭に聖なる火が灯ったのです。
それから信徒たちは聖霊に満たされて、別人のように変わってしまったということです。

異国の言葉を話せるようになったり、奇跡を起こせるようになったものもいました。
中には漁師や村人が哲学者のように賢くなり、見識が開けたり、人を癒せるようになったものもいたのです。

つまり、聖霊がやってきたら、驚異的な霊的成長が起きたのです。

ダスカロスというマスターは、それに付け加えて語っています。
光が来たのは、その日だけのことではなかったということです。
数年近くかけて、弟子たちは光を受け取っており、その日がより完全に目覚めるキッカケの日になったとのことでした。

私が一番興味深いと思ったのは、聖霊降臨でただの村人が聖人のように高められたことでした。

これほどのことが起きていいのか。
いや、神ならそれができるのです。

私の人生の中心は、霊的成長にありました。
そのため、聖霊について祈り、瞑想していくことは大切なテーマとなりました。


・聖霊に祈ったこと「一瞬で悟らせてください」

数年前、私はまだまだ道の途上であり、最高の霊的成長を求めていました。
ペンテコステの出来事から、聖霊は一瞬で自分を悟らせることができると思っていました。
神にはそれができると確信していました。

私は、ただこのように祈っていました。

「聖霊よ。どうか、私を悟らせてください。神であるあなたなら、すべて実現することができます。今、この瞬間に私を悟らせることも可能です。なら、今この瞬間に悟らせてください」

すべての修行を飛ばして、神の恩寵で今この瞬間に悟りたいと願ったのです。
瞑想中にビジョンが見えて、天上の光が見えてきました。

突然、その光が中性的な声で語ったのです。

光の声「それでは道がなくなってしまう。鍛錬と修行を通して悟りなさい」

私はその言葉の意味がすべてわかりました。
自分の人生の目的を思い出したのです。

確かに神なら私を一瞬で悟らせることは可能でした。
しかし、そうしない理由がありました。

私が生まれてきた理由に繋がるものでした。
平凡な家庭に生まれて、ただの人として生き、霊的才能もない人間が鍛錬と修行を通して悟っていく。
そういう人生を演じることで、誰もが具体的に悟る道が開けるということです。

私が色んなことを試みて、こんな行法や瞑想をして、ヨガの修行を積んで、集中力を身に着けて悟っていったという経験を積み重ねることで、人にも教えられるようになるのです。
何の苦労もなく一瞬で悟ったら、誰にも教えることができません。

ただ、なんか奇跡で悟ったとしか言えないですよね。
再現性がないということです。

そうではなく、地道に鍛錬と修行を積み重ね、それらの経験を通して悟ることで、具体的な技法や方法論が確立されていきます。

つまり、私の人生は霊的な道を開くことが目的でした。

平凡な人が自分なりの努力を積み重ねながら、神と師の協力を得て悟っていく過程にこそ、意味があったのです。
苦労した分だけ、人がつまづくポイントがわかって、こうすればいいと教えられるようになるわけです。

私は聖霊に安直に祈るのをやめました。

・それからの霊的修行と心の姿勢の大切さ

師(シャノン先生)に習いながら、様々なヨガに打ち込むことになりました。
先生に習った初期の頃は神様から下りてくるままに伝えられていました。
そのため、先生が伝えたヨガの種類は数知れず。

ガネーシャ・ヨガを中心として、シヴァ・ヨガやアナガーマ・ヨガ、不動明王ヨガ、さらには多くの神々のヨガを習っていました。
毎週、めまぐるしく変わっていくから、ついていくのがやっとでした。

しかし、その一瞬一瞬で自分なりに集中してやり込んでいくと、最初は何も感じなかったのにどんどんと神様のエネルギーを感じるようになっていきました。

今思えば、先生が自由自在に伝えてくれることにも意味があったと思います。
瞬間」の学びでした。
その一瞬にかけて集中しないと、つかみ取れないものがあったということです。

他の生徒と話すことがあまりなかったので、どう感じていたのかはわかりません。
ただついていけない生徒もいたかもしれません。
というよりも、先生の伝えることはやり込まないとわからないから、何もわかってない生徒もいたと思います。

私は神々のヨガを教わり、やり込んで、エネルギーを感じて、自分の気持ちや精神状態の変化をつかんでいきました。
説明がない分だけ、それが感性を限界まで磨いてくれたのです。

自分でキャッチしないといけない。
それが霊的感覚を開いていきました。

つまるところ、自分でわかるようになったということです。
行をやり込んで、感じる。
自分の感覚を大切にしました。

しかし、先生が指摘したら、すぐに改めるという素直さも役に立ちました。

・結果、何が起きたか(霊的変化)

3、4年と続けたある日、体の中のエネルギーの流れをはっきりと感じました。
経絡(ナディ)一本一本が脈動して、確かに先生が伝えたことがわかるようになってきました。

ガネーシャ天のエネルギーが流れ出すと、甘い味わいと共に酔いしれるようになりました。
これがガネーシャ天のエネルギーかと。

ハチミツのような濃厚な甘さと共にすごい満足感に満たされるのです。

どんどんとチャクラが開かれて、エネルギーの通り道ができて、神様のエネルギーを感じ取れるようになってきたのです。

自己浄化もどんどんと進んでいきました。
ガネーシャ天のエネルギーが流れてくると浄化され、自分の中の暗いエネルギーが浮かび上がり、精神的なデトックスが起きていくのです。

たとえば、小学校の頃にいじめられた記憶などが暗いエネルギーと共に自分の第三チャクラに入っていました。
そこに先生から神様のエネルギーが流れ込んでくると、暗いエネルギーが押し潰されて出てきました。
自分の中の暗いエネルギーが出ていって、手放されていったのです。

そうすると、驚くべきことに過去の嫌な記憶が薄れて気にならなくなったのです。
トラウマ的な囚われがなくなると、対人恐怖症などもなくなっていきました。
鬱に近いような精神も治ってしまいました。

次第に霊的な眼が開かれ、神々の姿がより見えるようになりました。
霊的な音が聞こえるようになり、神様の声も聞こえてくることがありました。

なぜ、霊的感性が開かれたのか。
それは単なるヨガの姿勢だけではありません。

師を通して、神様のエネルギーが流れてきて、チャクラが開いてきたのです。
チャクラには様々な霊的能力が備わっています。

第三の目のチャクラが開いたら、心の目が開きます。
右耳の裏のチャクラが開いたら、霊的な声が聞こえるようになります。

チャクラは神エネルギーが流れれば流れるほどに開きます。
つまり、毎日誠実に神々のヨガを行じることで、神エネルギーをふんだんに受け取り、チャクラが回転し始めて、霊的能力が開かれていきました。

現代のヨガ。特に神様を廃したポーズ偏重のヨガをしても、こんなことは起きません。

神様を大切にするヨガ。それを中心に据えたヨガを行うと、神エネルギーが流れてきて、霊的感性が開かれていくのです。

また、聖音(マントラ)を唱えることが大切でした。
神様の名であるマントラを唱えると、神様のエネルギーが流れてきて、その状態でポーズを取ると、経絡が通り、チャクラが加速度的に開かれていくのです。

私の成長は師による導きと神様のおかげでした。

肉体と精神は健康になり、過去のトラウマから解放され、霊的感性が開かれ、より神々のことがわかるようになっていきました。
それらは通常3、4年で達成できるようなものではなく、クリヤヨガを超えるほどの速度で成長していきました。

クリヤヨガだと40年~50年ぐらい行じると、クンダリーニが動き出します。
しかし、先生(シャノン先生)のガネーシャヨガだと、3,4年でクンダリーニが動き出し始めました。

あまりにも早い成長スピードでした。

数転生かけて達成するような成長を3,4年で超えていきました。
さらに5年~7年と続ければ続けるほどに、大いなる変化が起きてきました。

・部屋の天井に黄金の光がほとばしり、頭の中に入る

当時は流行病などが世界的に広まっておらず、先生はヨガの合宿とかを主宰していました。
年に2,3回ほど大型連休がある時に生徒たちで集まるのです。

私は合宿に参加して、毎日8時間ぐらい神々のヨガとキリスト意識の瞑想に励んでいました。
寝食などの最低限のこと以外は、ヨガをしていました。
非常に濃密にヨガに打ち込む時間でした。

合宿3日目、眠る前に瞑想しようと個室で一人座っていました。
座っていると、部屋の天井に黄金の光がほとばしるのが見えました。

本当にぶわぁーーと光が息吹いているのが見えました。
なんだあれは、と思いながら見つめていると、自分の頭の中に黄金の光が熱さと共に入ってきました。

黄金の炎のようにも感じました。
その瞬間に頭の中が開けて、目の前が明るくなるように感じました。

それで急に宇宙のことがわかるようになりました。
今までいくら読んでもわからなかった神秘書や哲学書や科学書など、ほとんど読んだ瞬間にわかるようになっていたのです。

正直言って、以前の私は真面目なだけの人間でした。
宇宙の何もわかっていなかったのです。
しかし、それが全部変わってしまいました。

一人、ペンテコステのようなことが起きたのです。

今まで光を受け入れてきたというのもあります。
ちょっとずつ受け入れてきて、ある瞬間に扉が一気に開いた感じでした。

先生と出会う前にも、実はすさまじい光がやってきた光明体験がありました。
先生と出会ってからも光が来て、さらに深みに入っていくことができました。

この体験は、一度だけのことではなかったのです。

そして、この後も何度も何度もこのブレイクスルーのようなことが起きてきます。
そのたびに飛躍的な向上が起きました。

感覚としては頭の中に光が入って、周りを照らすような感じです。
その光が照らしているおかげで、世界の裏側に神を感じ取ることができるようになっていきました。
木を見ても、人を見ても、その中に神の光が見えるのです。

・聖霊と再会したときに告げられる

8年目と行を進めていって、どんどんと自分の霊的感覚が研ぎ澄まされていくのがわかりました。
ガネーシャ・ヨガもしていましたが、神意識(キリスト意識=アベル意識)の瞑想もしていました。
聖霊の祈り瞑想も並行して行っていました。

特にキリスト意識の瞑想は徹底的にやり込みました。
聖音を唱えるたびに神の光が来て、どんどんと頭の中が広がって、至福感に満ち満ちて、宇宙的な真理がわかるようになっていきました。

ある日、聖霊の瞑想を4時間ぐらいしていました。
体中が聖霊力に満ち満ちていました。
すると、ビジョンが見えました。

聖霊が白い鳥の姿で現れたのです。

聖霊が語りかけてきました。

「あなたの名を刻んで、共同創造主となりなさい」

それがどんな意味を持つのかは正直に言うとわかりませんでした。
しかし、心から聖霊を信頼しているために、言われた通りに自分の本当の名を聖霊に刻みました。

すっと、聖霊の光の中に自分の名が溶けていきました。

その瞬間に聖霊力がさらに勢いよく流れ出したのです。
聖霊力に圧倒されながら、白い鳥の御姿の向こう側に無限の光を見ました。そうして、神の無限の光の中に入っていたのです。

聖霊と一つになって、その本当の意味がわかりました。
何年も鍛錬と修行を積み重ねることで、悟るべきタイミングがやってきたのです。

・聖霊とは何か(そこに名を刻む意味など)

聖霊とは一体何なのかというと、決して精霊とは違うとだけ言っておきます。
精霊は、森の精霊など自然霊です。
川や花などにも存在する自然のスピリットです。

それも自然を働かせている存在で尊い意味があります。
しかし、人を癒す力はありません。
あくまでも自然現象を司っているのが精霊です。

それに対して、聖霊はすべてに命という光を吹き込んでいます。
全存在に働いています。
神の愛そのものです。
私たちの心臓が動くのも聖霊のおかげです。

ハートの中心を意識していると、聖霊の御姿を見ることがあります。
実際的に、心臓に生命力を吹き込んでいるのです。

つまり、すべての生きとし生けるものを生かしている命の根源。
神の生命であり、愛です。
聖霊とは神そのものにして神です。

聖霊を通って、神に還ることもできます。

聖霊に名を刻むと、どういった意味があるのか。
それは聖霊と同じように命の働きを担当し、あらゆる創造活動に携わる力を得るということです。
聖霊に名を刻むということは、命の書に名を刻むということでもあります。

命の書はこの記事でも書いています。

端的に言えば、聖霊力を流して、自分や人を癒せるようになったりするんですね。
そして、聖霊の領域に自由自在に入って、神の境地に達することができるようになります。
それほどのことを聖霊から直接教わることになりました。

これをどのように人に生かすのか。
生徒の名も聖霊に刻んでみることにしました。


・生徒の名を聖霊に刻んだときに起きた現象

ある日、私が受け持っているヨガクラスで指導していました。
そうして、生徒たちに聖霊について一通り説明してから、このように語りかけました。

「聖霊に名を刻んでほしい方はいますか」

生徒たちが次々とオンライン会議の挙手ボタンを押しました。
一人一人の名前を聖霊に刻んでいきました。

次の週に生徒たちに聖霊の瞑想をした時の体験を聞きました。
生徒になってから、数週間ぐらいしか経ってない初心者の方がいました。
今まであまりエネルギーを感じられなかったというのに、聖霊に名を刻んでもらってからエネルギーを感じるようになったのです。

その生徒は言いました。

「実は左腕をケガしていまして、治りが非常に悪かったのです。聖霊に名を刻んでもらったその日から見る見るうちに治っていき、びっくりするぐらいにわかりやすくて、もはや面白いぐらいでした」

その生徒は、まだまだ瞑想を始めてそこまで時間も経っていない初心者も初心者でした。
それが自分を癒す力を身に着けていました。

なぜ、このようなことが起きたのか。

それは聖霊に名を刻むと、いわゆる名前自体がパスになるのです。
聖霊の領域に入れるようになって、その力を引き出せるようになります。

通常の人は聖霊の命の領域に勝手に入ることを許されておらず、また悪魔なども入ることはできません。
命の働きを悪用できないようにしているのか。
それとも波動が高すぎて到達することができないのかもしれません。
しかし、聖霊に名を刻むと、自由に入れるようになるわけですね。

結果として、癒しの力が突然に芽生えるのです。

素人のような人でも、そのようなことが起きます。
他にも聖霊のエネルギーを感じにくかった人が感じやすくなったり、いつもなら集中してから聖霊を感じるのに時間がかかるのに数倍の速さで感じるようになる人もいました。
生徒それぞれに明らかな変化が起きており、聖霊が語ったことがどれだけ尊い事かわかりました。

神から直接教わった瞑想法は、とてつもなく強力です。
最も純粋なやり方だからです。

神に至る道が、また一つ開けました。
巡礼者の数だけ道があります。
この道も、また最高のものです。

これからも希望する人の名前を聖霊に刻んでいくことでしょう。
その人は神に目覚める機会を得ます。

私は生徒たちに告げました。

「皆さんは周りの人たちに助けになれるだけの力があります。大きなことをしなくていいので、家族や周りの人に困っている人がいたら聖霊に祈ってみてください。そうすれば、助けになれることでしょう」

・霊的進化とはいかにして起きるのか

すべてまとめてお話すると、神の光が来たら霊的進化が起きるということです。

光が流れ出したら、自己浄化が自然と起き、心が研ぎ澄まされ、霊的感性が開かれ、宇宙と神のことがわかるようになります。
そうして、人間は変容を遂げて悟りを得て、神人へと進化していきます。
その人は肉体的かつ精神的な束縛から解放され、あらゆる自由を得ます。

神々のヨガであるガネーシャ・ヨガにしても、キリスト意識の瞑想にしても、聖霊の祈りにしても、光を得ていく具体的な方法です。
それらのヨガや瞑想を通して、神の光を得て、どんどんと行者は進化していくのです。


・師の役割は何か

それは神の光を運び込むことに他なりません。
師が神と繋がって、その光を運び込むと弟子たちはそれを受けて、霊的に開かれていきます。
キリストの弟子も、ババジの弟子も、同じ現象が起きています。
それは今後も同じことが起きていくことでしょう。

私は生きている限り、神の光をこの世界に運び続けます。
この言葉にも神の光がこもりますように。