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神とは何か(筆舌に尽くしがたい合一体験を言語化する)

神とは一体何なのでしょうか。

その答えとして、筆舌に尽くしがたい体験をしました。
本来なら言葉にできない内容を言葉にするので、その過程で表現し切れずに抜け落ちてしまう部分があることをご理解ください。

最後は自分で体験するものです。
その前段階として、真実の極致がどうなっているのかを垣間見せましょう。


神について、古今東西、聖書や聖典を通して語られています。
しかし、本当のところはわかっていないのではないでしょうか。

ほとんど誰も見たこともなければ、会ったこともなく、まして本当のところを知っている人はなかなかいません。
どうやったら、知れるのかわかりようもないと思う人も多いでしょう。
そもそも考えないようにしている人も多いのではないでしょうか。

ところが、私は神に会ったんですよね。

会ったといっても、物理的に会ったわけではありません。
瞑想を通して、目撃したというべきでしょう。

神と一口に言っても、日本では八百万の神といって、日本神話などを通して神々の存在が語り継がれています。
インド神話でも神々の存在が語られています。

それも神様と言えば神様なのですが、それは究極の神そのものというわけではないのです。
そもそも、日本の「神」という言葉は多義的で、身分の高い人をお上(おかみ)というように、何でもかんでも神様と呼ぶ文化があります。

宇宙を創造した究極の神と、そういった神話の神々は分けて考えた方がいいかもしれません。
正確には究極の神が枝分かれした存在として、神々や人間がいると考えるべきなのでしょう。

しかし、それはあくまでも言葉の定義上の話であって、本当の神とは何なのかを味わったゆえの理解ではないのです。

究極の神は宇宙を創造したすべての起源です。
すべての第一原因でありながら、誰もその存在を本当の意味で知らないというのは不可思議な話です。

神学者に聞いても、彼らは聖典を引用するだけで、本当のところは何も知りません。
つまり、体験的に神を味わっているわけではないのです。
頭の中で言葉の定義上の神を想像しているに過ぎません。

なぜ、神はわからないのでしょうか。

この話を聞くと、それがわかってくるかもしれません。
私がありありと体験したことを明かします。

それらの神の前提を語った上で、もう一度改めて言いましょう。
私は究極の神と会いました。

滅多やたらに語るべきことではないですが、会ったのだから会ったとしか言えません。
私はそれを語るために存在しているようなものなので、その稀有な話を明かしましょう。

私はまず、こう考えたわけです。
この宇宙が存在する以上は、その起源があるはずだと。
そのすべての第一原因である起源こそ、神なのではないか。

次にどうしたら知れるのかを調べ上げました。
科学の分野を探っても、まだまだ宇宙の表層的な知識しか得られないとわかりました。
次に古の叡智を探り、あらゆる聖典や霊的知識を巡る本を読み通し、神の境地に達したという師の言葉を探りました。

少なくとも、人間的な想像上の神ではなく、究極の真実としての神を探していました。

神と一体化している人の話が参考になると思ったわけです。
そして、答えに行き当たりました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
(ヨハネによる福音書 14:6)

これは聖書の言葉です。
この言葉を解き明かせれば、辿り着けるかもしれないと思いました。

そして、このときに語った「わたし」とは何なのかを探りました。

調べ尽くすと、神の原初の意識であるとわかりました。
それは「キリスト意識」とも呼ばれ、アベルとも呼ばれ、サーンキヤ哲学ではプルシャと呼ばれるものでした。
キリストは神の原初の意識と一体化しているために自分とそれを分けて話さず、「わたし」を通らなければ、父(神)の元に行けないと語ったわけです。

それはそうですよね。
つまり、神意識の光を通らなければいけないというわけです。
神の意識を通らなければ、神の元に還れないという話に近いです。

至極当然の話です。
神に目覚めた師は、その道になっているということでもあります。

問題は、どうやったら神の原初の意識(キリスト意識)に繋がれるのかということでした。
それがどうしてもわかりませんでした。
それなくして、神と一体化できず、神を直接体験することができないという結論に達していました。

あらゆる困難と苦しみを経験したのちに、私は七日七晩ぶっ通しで神意識(キリスト意識)が降臨するように祈り続けました。
一日24時間起きているときだけではなく、夢の中でも祈り続けました。

すべてを賭けて「それ」を求めるという状態でした。
やってくるまで祈り続けるつもりでした。

渾身の祈りに応えて、神の凄まじい光が来て、キリスト意識に目覚めました。
黄金の三角形が上向きと下向きに現れて、それが重なり合い、額に六芒星が完成しました。

六芒星は霊的な文脈において、ゲートの役割がありました。
つまり、額に黄金の六芒星ができることで「道」が開いて、神の原初の意識(キリスト意識)がやってきました。

正直にありのまま明かしましょう。
神意識(キリスト意識)は完全な光に見えました。
どこからどこまでという境界線がない無限の光に見えました。

この光と遭遇したのは、2014年11月末のことでした。

それから、この神の光を自分に根付かせ、また同時に本当にこの光が来たのだという確信を得るために神に祈りました。
この光と繋がれる具体的な方法を確立し、人々が繋がれるようにするためでもありました。

どうか、この神の光(キリスト意識)に相応しい師を連れてきてくださいと祈りました。

それでシャノン先生は突如として、キリスト意識に目覚めたわけです。
それは2014年12月はじめのことでした。
そのときの霊的体験は私と似ていました。

シャノン先生に神の凄まじい光が入ってきて一瞬気絶してしまい、床に後頭部を打ちつけてしまったと言います。

それから縁があり、私とシャノン先生は出会って、キリスト意識に目覚めた経緯を聞かせてもらいました。
その体験の酷似性と、ヨガの師としての卓越した霊的能力や理解に触れて、私の祈った通りの師だと確信し、シャノン先生に習い始めるのです。

改めて、キリスト意識と繋がる瞑想法を授かりました。
それが自分に必要だったかどうかは重要ではなく、シャノン先生が明かすことで誰でも繋がれるようになりました。

再度、シャノン先生から教わったキリスト意識の瞑想法を実践すると、神の光が自分の中に安定して根付くようになってきました。
神の原初の意識の光をよりはっきりと体験できるようになってきたのです。

その具体的な瞑想方法は「マスターAGN 悟りの自伝――雷龍が目覚める」に書かれています。
その本の311ページに書かれている「アベル意識のセルフ・イニシエーション」を行うことです。

アベル意識とキリスト意識は同じ意味です。
この本の瞑想法を実践すると、自分の中に神の光が確立してきます。

これらの瞑想は私が実践してみて、確信を持って言えます。
先生が明かしたキリスト意識の瞑想を実践すればするほどに、神の光がやってくるようになりました。
常日頃、光が内面を照らすようになりました。

様々な変容が起きてきたのですが、それはまた別の記事で書いております。


ここからが本筋の話です。
では、神とは何か。

聖書の言葉には、わたしを通らなければ父(神)のもとに行くことができないとあります。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
(ヨハネによる福音書 14:6)

その「わたし」とは何かというと、「神の原初の意識(キリスト意識)」のことでした。
イエス・キリスト個人(人の子、ナザレのイエス)のことを言っていたわけではないのです。

より砕いて言えば、キリスト意識とは神意識のことです。
最初にあった光であり、宇宙全てにあまねく意識そのものです。
その光が吹き込むことで、一人一人が個別の意識を持つことができるわけです。
人間の意識の原点ともいうべきものがキリスト意識です。

そして、私にはキリスト意識は神の無限の光に見えました。
だからこそ、私はそれを光明意識と呼んでいます。
神意識は、全存在に意識の光を吹き込んでいます。

さぁ、究極の神とは何なのでしょうか。
この光なのでしょうか。

いいえ、ここで終わりではないのです。
確かに原初の光は神の純粋な現れです。
しかし、この原初の光を通って、神の御許に還っていくのです。
つまり、光自体も道なのです。

キリスト意識の十字のシンボルも道となっているのですが、神の光そのものも道になっています。

私は師(シャノン先生)と出会い、何年もかけてキリスト意識の瞑想を続けました。
何年も神の光の中に浸っていました。
神の至福が流れ込んできて、すべてが真っ白に洗い流されていくようなのです。

しかし、ここを超えていかないと、神の究極の実体を拝めないことも知っておりました。
古今東西の神に目覚めた師たちが言及している不生不滅の絶対性を悟るために。
この「光」さえも超えないといけなかったわけです。

すべての神々、すべての大天使、すべての師を超えること。
それどころ、最初の光さえも超えていかなければ、神ご自身を拝むことはできませんでした。

私はある日、瞑想中に決意を固めて、この神の光を超えていくことを決めました。
キリスト意識の黄金の十字を通っていくと、神に目覚めた師たちに出会いました。

その中にイエス・キリストもいました。
神に目覚めた師を超えて、神の無限の光に突入しました。

神の無限の光の中で、私という境界線(自我)を捨てていきました。
光そのものとなって、宇宙すべてを照らす光となっていました。

神の至福に酔いしれながら、最後の決意を振り絞りました。
ここを超えなければなりません。

神と直接会うために必要な事でした。
ただ純粋な祈りを捧げました。

「神ご自身を見せてください」

光さえ超えた神の本当の姿。
姿すらない実体としての存在性を明かしてもらおうとしたのです。

どれだけ瞑想したか。どれだけ祈ったかもわかりません。
本当に純粋な愛がなければ、神はご自身を明かしてはくれません。
物質宇宙、霊的宇宙、原初の光。
すべての神の衣服を脱いだ先にある本当の姿を見せてもらうわけです。

祈りに祈って、集中がある臨界点を超えると、驚くべき現象が起きました。
神の無限の光の中に宇宙がすべて消え失せていきました。
次に神の無限の光が一点にまとまるとだけになりました。

宇宙の原初の音(原初の振動)

その原初の振動さえも静まってくると、何も見えなくなったのです。
光も見えないし、音も聞こえませんでした。

このような意志だけを感じました。

「これを知ったら、あなたは元のあなたではなくなる」

ここから先に踏み込んで、神の実体を拝んだら、どうなるのかわかりませんでした。
それでもいいのかという問いに対して、「絶対的に良い」と思いました。

「元より、宇宙も人生もすべて幻だと知った今、あなたご自身を知らずにいられない」

私がそう答えると、もう何も聞こえませんでした。
光も音もなく、何も見えない境地で、ただ存在していました。

神とは何か。

この究極の問いに対する答えを得るために、宇宙さえも消し去ってしまったのです。
魂も自己も、もはやない。
すべて消え失せてしまった中で、ただその認識が沸き立つのを待っていました。

対象の喪失が起きていました。

何もない。
神はどこなのか。何も見えない。
どこにいるのかもわからない。
これは何か。自分は何なのか。

すべてを捨てる覚悟がなければ、誰もこの境地に到達することはできない

今まで見てきたすべては何だったのか。
発狂しそうになるほどの無感覚。
しかし、狂うという感覚もない。

宇宙の最初の音と光さえも超えたら、そこには何も感じられませんでした。
いわば、すべてを写す鏡がない状態であり、何も投影されることがありませんでした。

絶対無(絶対有)

相反するものが同時に存在している状態であり、すべてがあってすべてがないという状態でした。
その何もない場所で、あるはずのない大いなる流れのようなものを感じました。
流れというのも正しくはなく、存在というのも正しくはないです。

ただ、ある。

なんと言えばいいのか。それが何なのか。
もう、何も定義することができません。
時間もなく、空間もなく、形状もなく、まして人間の姿をしているわけではないのです。

大いなる無限の「何か」

その「何か」を定義できるものもなく、またこうだと言えるものもありませんでした。
その「何か」を感じた瞬間に、絶叫しそうになるほどの喜びと静まり返るような平安が完全調和した形でやってきました。

自分はずっと一人ではなかった。

そういう感覚みたいなものが近い。
でも、正確に表わしているというわけでもない。
本格的な答えが聞こえました。

「神とはあなた」

ああ、自分は神そのものだったのだという。
妙な納得と共に、虚空の宇宙が丸ごと自分の中に映し出されている感覚を感じました。

神の超認識の中で、何もないはずの場所に至福の意志で振動を起こしました。
その振動は喜びそのものでした。
振動は宇宙の原初の音となって、無限の光があふれ出していきました。

光の中で霊的宇宙が火花のように誕生して広がると、それを下敷きに物質宇宙が生まれていくのです。

すべての宇宙は、神の想像上のもの。
こんな宇宙はないかと想像した瞬間に生まれてしまったわけです。
神と私は同一であり、それはつまるところ宇宙は自分の想像上のものでもあるとわかりました。

すべて忘れていました。
神としての自分が宇宙を創ったことも忘れていて、何もかもから孤立していると思って生きてきました。

しかし、違いました。

真の意味で「すべて私だった」ということを思い出しました。
筆舌に尽くしがたい完全なる一体感でした。

この感覚を味わった以上、もう何も探す必要もなく、失うこともありません。
宇宙丸ごと、すべて自分なわけなので、全部持っている状態です。

もはや、あらゆる宗教は自分には必要ありませんでした。
神を直接見て、味わって、それが自分だとわかったら、誰も崇める必要がないからです。
補助となる杖(聖典)も必要なく、歩き、飛び立てます。

改めて、繰り返しましょう。

神とは自分自身だと断言できます。
あなた自身の本質だと言えます。

それは借りてきた言葉ではありません。
本当にそうだと体験したから言えるのです。

宇宙の創造活動を見届けた後、私は無限に拡大した意識状態にありました。

改めて、神の光(キリスト意識の光)に浸っていました。
無限の光の中を流れていると、すべての意識を感じました。
人々の顔が浮かび上がり、意識の流れを感じるのです。

すべての聖人だけではなく、そこら中の平凡な人にも吹き込む意識の光になっていました。
その光はすべての人に吹き込んでいました。
何もかも宇宙ごと自分の光の内にあって、創造されていました。

人間という小さな輪郭を捨てて、無限の光になっていました。
この状態にあって、意識的な限界はどこにもありません。
何にでもなれるし、何でもできるのです。

光の中で、どこからともなく声が聞こえました。

誰かが、私の名前を呼んでいました。
振り返ると、愛する人がいて、そっと抱きしめました。

もう一度、戻ろうと思いました。
師が地上で生きていこうと思うのは、このためだとわかりました。
すでに私は生きる意味もなく、人間に生まれる必要もありません。

それでも私が地上にやってくるのは、愛のためです。
愛のために何度でも戻ってきて、愛する人々の心の目を晴らしましょう。

自分のことをすべて思い出しても、それでもこの世界を生きていく。