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バガヴァッド・ギーターを正しく読み解く

「バガヴァッド・ギーター」という聖典があります。
インドでは長年広く愛されて、その根底にある精神を下支えするものです。

それだけではなく、人が悟る道について語られています。
神に至る道について語られています。

優れた聖典であることは間違いないです。

翻訳された数が桁違いにあって、サンスクリット語を勉強したら、まずはこのギータ―を翻訳したくなると言われるほどです。
シンプルかつ名文にあふれ、神聖な言葉がそこにあります。

ただ、翻訳された数が多すぎるので。
どの翻訳者の本を読んだらいいのか?と聞かれることがあります。

誤訳されていたり、難しく読みづらいものは手に取りたくないですよね。
その真髄が伝わってくるものが読みたいわけです。

一番ギータ―の精神を体現している日本語訳があります。

「神の詩―バガヴァッド・ギーター」
田中 嫺玉(たなか かんぎょく)訳

田中 嫺玉さんの訳が一番オススメですね。

文章がシンプルでわかりやすく、名文に訳されているというだけではありません。
クリシュナが伝えたかったことをダイレクトに響かせてくる力強さがあります。

他の翻訳は学者たちが片手間でサンスクリット語の勉強のために訳しておいたものが多いです。
それではギータ―の魂は伝わってこないです。

田中嫺玉さんが訳したギータ―は、まったく違うものです。
その精神を伝えるために訳した、というのが伝わってきます。


ここから、さらにお伝えしたいことがあります。

ほぼ、すべてのギータ―の翻訳本で誤訳されているポイントがあるのです。
田中嫺玉さんの本でも例外ではないですね。


英語でも、ヒンドゥー語でも。
すべての本で、ほぼ誤訳されている部分があります。

実は、バガヴァッド・ギーターはヨガ行者のための本でもあります。

とてもシンプルな文章の中に、さらっと書かれているヨガの技法があります。
ほとんどの人は流し読みして、そのポイントが理解できません。

ヨガ行者が読むと、これは「こういうこと」だとわかり、なおかつ誤訳されているポイントに一瞬で気づくことができます。

それらのポイントを挙げておきます。
誤読すると、優れた聖典であっても霊的な成長を阻害するものとなりますので、その障害となる岩を取り除いておきたい。


私は聖典などに解釈を加えることなどを好みませんが、聞かれることがよくあります。
これは生徒のために書いてます(かつ、誠実な求道者のために)

田中 嫺玉訳から誤訳ポイントを解説していきます。

誠に名文で優れていますが、その中でも修正すべきポイントがあります。
ほぼ、すべての本で誤訳されているので、この訳に限ったことではないです。

バガヴァッド・ギーターの第六章の(一一)~(一二)の節にあるページから、心の置き所から具体的なヨガの座り方まで書いています。
座る場所に布をかぶせてなど、ここまで具体的に書くか、というぐらいです。


第六章の(十三)~(十四)の節に入ると、このように書かれていますね。

『体と頸(くび)と頭を一直線に立てて』
『鼻の先端を凝視せよ』

「神の詩―バガヴァッド・ギーター」 田中 嫺玉 訳

体を一直線に立てるのは、まさにヨガの正しい姿勢です。
クンダリーニが上昇していくためには背骨を一本にしておく必要があります。

次の『鼻の先端を凝視せよ』が誤訳ポイントとなってます。

鼻の先端を凝視しても、悟りを得ることはできません。
そこには霊的な悟りをもたらすチャクラは存在しません。

正しくは、「鼻上を凝視せよ」と訳すべきですね。

鼻上(眉間)に集中する技法が、古来からの伝統的なヨガに本当に存在しています。
シャンバビムドラと呼ばれる技法がまさにそれです。

そのチャクラのポイントに集中すると人の意識は上昇していき、やがて悟りを得ます。
しかし、鼻先に集中しても何も起きません。

この誤訳はヨガナンダの師であるスリ・ユクテスワ(ヨガの体現者、叡智の権化)も指摘しています。

かくいう私の先生も、教えてくれたことです。
私は他のポイントだと思っていたのですが、「違うよ。眉間だよ」と言われたのです。

優れた師に恵まれると、ぱっと間違いを指摘してもらえます。
ヨガ行者が読むと、ここが誤訳されたポイントだとすぐに読み解くことができます。

しかし、師に恵まれてない人は「鼻の先端」に集中して生涯を終えてしまいます。
その場合は、悟りとかありえないんですよね。

行が進んだヨガ行者したら、こんなシンプルな本はないと思います。
読む必要もないぐらいの簡単な内容ですね。

しかし、インド人にとっては重要な本です。
文字があまり読めない人でも、歌うようにして覚えられるのです。
この詩だけは知っている、というのがあるのです。

とても文章がシンプルかつ簡単で、誰でも理解でき、なおかつ真髄の一端を知ることができる。
ただし、インド人でも「鼻の先端を凝視する」と本気で思っている方たちがいて、ヒンドゥー語でも誤訳されているポイントなのです。

日本人だけではなく、インド人も誤解しているということですね。
正しいヨガの師に恵まれると、こういう独学の誤りを避けることができますね。


ここからさらに。
ギータ―で誤解しないでもらいたいポイントをQ&A形式で書いていきます。

Q ギーターでは高潔な魂は有徳の者や貴族や王家の生まれになると書かれていますが、本当ですか?

A いいえ。そんなことはありません。

王家に高潔な魂の持ち主しか生まれないなら、高潔な王様しかおらず、王政はずっと続いていました。
しかし、ほとんどの王家は圧政を続けることで打倒されたか、その権限を奪われて単なる象徴となっています。
つまり、悪徳の持ち主も貴族や王家に生まれていたということです。

インドにおいて、カースト制度を維持させてしまう根本的な原因の一つです。
つまり、ここもかなりの誤読ポイントとなっています。

※ ただし、親子で似た者同士の魂がひきつけ合うということもあります(波動の法則ですね。一方で親子でまったく違う人間になることもあります)

Q 神に帰依すれば、人を殺してもカルマにならないのか?

A いいえ。そんなことはありません。

ギータ―を読んでいる人は知っていると思いますが、冒頭は戦争のシーンから始まります。

アルジュナという王子がいて、戦場のど真ん中で「戦いたくない」というのです。
戦って人を殺したら、カルマとなるから、という主張です。


それに対して、クリシュナは「武人階級(クシャトリヤ)の義務を成せ」と説く。
私(クリシュナ)に帰依して行えば、神が行ったことになるからカルマとならないと説く。

神に帰依して何かを行うというのは、確かに尊いです。

しかし、この場面で誤読してはいけないのは、この話の舞台なのです。
現実の戦場の話ではなく、これは神界においてマインドの敵と面した物語だということです。

自分の内面と戦う話なのです。

つまり、たとえ話であって、実際のこの世の戦場で人を殺めたらカルマとなります。
本当にこのインドの聖典を信じて、戦場で人を殺める方がいたら、来世でそのカルマのツケを支払うことになることでしょう。

さらに深く考察・洞察すべきは、神に帰依したものが人を殺めるのかということです。

私は神の究極の命の働きである聖霊の存在を知っております。
それはすべての命を生かそうとする働きであって、殺そうとなどしておりません。
聖人にも犯罪者にも平等に命を吹き込んでいます。

ただ時期がきたら、命を引き上げるだけです。


人間に誰かを殺める権利などありません。
聖霊が命を与えたのだから、聖霊だけがその命を引き上げる権利があります。

神に帰依してようと同じことです。

むしろ、神に帰依してるからこそ、命を最大限尊重するようになります。

ここが一番誤読してはいけないポイントですね。
この聖典を鵜呑みにして本当に人を殺めたら、悪いカルマとなるので気を付けていただきたいですね。


Q ギーターに書かれている通り、クリシュナは唯一創造神の権化なのですか?

A そうともいえるし、そうともいえないです。
  正しくは人間の友というべきです。

これは難しい話なのですが、神界に行ったら本当に青い肌の神様がいっぱいいます。
私は見たことがあるんですよね。
そこにおいて、神々は私の友達であって、崇めるべき対象ではありませんでした。

神々を超えた、究極の神が存在しています。
それは形を超えた神です。


すべての神々に意識を吹き込んでいる存在です。
それはアベルともキリスト意識とも呼ばれる存在です。

それこそが、真実の意味であらゆるものを超えた究極の神(原初の意識)です。

神々は人間の兄弟姉妹であって、形あるものです。
神々と人間は、究極の神から現れた一筋の光です。

もっと突き詰めると、人間も神々なのです。

神界の神々は霊的進歩の素晴らしい協力者ではあります。
しかし、究極の神は神々でありながら、それらを超えたものであり、そこをはき違えないでいただきたいです。

カーリー女神も自分が宇宙の創造神だという主張を行っていました。
トタプリ(トーター・プリー)という覚者がいまして、彼はラーマ・クリシュナの師であり、友でした。

トタプリがカーリー女神を否定すると病気にかかるのですが、それはカーリー女神が呪いをかけたんですよね。
その後にトタプリが宇宙の創造神だと認めると、病気が治りました。

カーリー女神は覚者に呪いをかけていました。
自分を認めさせるために、です。

しかし、実際には違ったのです。

私の先生にもカーリー女神は呪いをかけたのですが、他の覚者とは違って、大天使の生まれ変わりであり、その権威と力を持っていました。

大天使は邪神を滅ぼす力を持ってます。

私の先生はカーリー女神を捕まえて、最も低く暗い地獄に送りました。

他の覚者たちも呪いの被害を受けていたのですが、対処する力がなかった。
それでカーリー女神は今までやりたい放題できていました。
しかし、最後の最後に「権威ある大天使」と出会ってしまい、カーリー女神の命運が尽きたのです。

神々といえども、あまりにも真実からかけ離れた主張を行い、呪いをかけるなどの悪行を積み重ねると、葬られるのです。
カーリー女神のような違反者はレアケースであり、他の神々のことを貶めることはしません。

しかし、これだけは覚えておいていただきたいです。

クリシュナといえども、私たちの友に過ぎません。
霊的進歩の協力者です。
途中までの道を行くのに力となります。

究極は、この宇宙すら超えた唯一無二の創造者に心を合わせるべきです。

形を超えた神を拝むのが難しい人が、形あるものを拝んで繋がりやすくするということがあります。
しかし、最後は形を超えていかなければなりません。

ギータ―を読んでも、そのことを誤読されませんように。

神々は私の友ですが、あまりにも真実とかけ離れたことを言っているならば、私の友ではなくなります。
そういう神様は私とは関係がありません。

私は寛容の精神を尊ぶので、彼らがどうしてようとも気にしません。
尊重します。
好きなように主張し、好きなようにしていたらいいと思います。

しかし、誰かに呪いをかけたり、誤った主張を繰り返す。
人々を邪道に導くなら、一番高い所の至高の神に祈って、大天使を遣わしてもらい、封じてもらうことでしょう。


あなたが心を合わせるべきは、自分自身の本性である究極の神です。

究極の道は、すべての神々を超えた先にあります。


それがまだまだできない人のために、神界の神々は協力者(アシスト役)としていると思ってください。

それと同じように霊的に成長したら、いかなる聖典も必要ではなくなります。
自分で次元の壁を超えて確かめればいいだけなので。

それまでは聖典も瞑想と合わせて読むと、助けになるかもしれませんね。
頭を柔らかくしてください。何もかも鵜呑みにしてはいけません。

本の知識だけで凝り固まってはいけませんね。
頭でっかちにならないことです。

心を水のように変幻自在に保ち、瞑想を実践すること。

やがて、神のうちに入れますように。
そうすれば、最後には自由になります。