見出し画像

ちょっと気になる言葉。

「客観的」って言葉。

客観的:特定の個人的主観の考えや評価から独立して、普遍性をもっていること。(広辞苑)

この言葉は、しばしば同じような意図で使われることが多い気がします。この言葉の意味自体は理解できるし、こうして辞書で意味を調べてみても納得はできます。こんな風に使われることが多いですよね、「物事を客観的に考えろ!」だったり、「客観的に見ると、僕はこう思う。」といった感じで。けれども、私は、人間が「客観的」に物事を考えたり見たりすることは不可能なのではないか?と考えます。

私がそう考える理由は、「客観的」視点に立てるのは、神のみだからです。

……ここだけ切り取ると、え?ってなりますよね。私は何かの宗教を信仰しているわけでもないし、宗教の勧誘をしたいわけでもありません。少し誇張気味の表現ではありますが、結論はそういうことじゃないかと思います。

なぜこのような結論に至ったのか。それを説明するために、まずは客観的の反意語「主観的」の意味に注目してみます。

主観的:①主観による価値を第一に重んずるさま。主観に基づくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。(広辞苑)

つまりは、「主観=自分の視点」ってことです。ならば、「客観=自分じゃない視点」ということになるわけですが、私たち人間ってそんな視点を持てるんですか?自分じゃない視点で物事見たり考えたりできるんですか?そうなってくるんですよ。

自分は自分である限り、自分以外の視点を持つことはできないはずです。「相手の立場になって考えてみなよ」という台詞は耳タコですが、そんなこと人間にはできないのです。(だからと言って、「考えても分かるわけないでしょ!」という自分勝手な考えから、他人のことを考えないような迷惑行為をする、そのようなことを正当化するつもりは毛頭ありません。もちろん。)

ということは、客観的視点を持てるのは、人間ではなく、神の領域に達したもののみなのではないか。なぜなら、客観的視点というのは人間の視点から独立した視点であり、いわゆる神様と呼ばれるもの(=人間ではないもの)は、上(天)から見下ろす視点をもつ唯一の存在と言われているから。いやまあ、この考えに至るってのはあまりに極端ですよね。いきなりそんな考えになる?と思われても無理はないかもしれません。ただ、私のちっぽけな頭では、今のところこの考えが限界です。

では、「客観的」という言葉を使わずして、客観的な物事をどのように表現するのでしょうか。私は、「対象化」という言葉を使いたいと思っています。これはあくまで、使いたいと自分の心中で思っているだけで、使いたいという願望にすぎません。

対象化:客観的な視点に立って問題として取り上げ、観察・分析などの対象とすること。(新明解国語辞典)
対象化:① あるものを認識するために、一定の意味を持った対象としてはっきり措定すること。 ② 自己の主観内にあるものを客観的な対象へと具体化し、外にあるものとして取り扱うこと。 反省。(コトバンクから引用)

この言葉の意味は少し複雑で、使いこなすのも難しいものであるかもしれません。「対象化」は、過去の自分について考えたりする際に、しばしば使われる場合が多いように思われます。というのも、自分自身を省みることは、過去の自分を分析することなのです。要は、過去の自分を対象化することは、過去の自分を、「現在の自分の考える対象とする」ことなのです。「対象」は「客体」や「客観」とほぼ同義とも言われるほどの言葉ですから、「対象化」は「客観的」の言い換えにもなりうる言葉だと考えられます。

でも、「対象化」って言葉、日常生活‪で使います?私は使いません。これだけ語っておいて何ですが、この言葉はやはり使いづらいのです。意味的には自分の表したいことを十二分に表してくれていますが、この言葉で表現しても相手に理解してもらえる自信がない。(これは、相手のもつ知識量に対して難癖をつけているのではなく、自分の伝えたいまんまで伝えられるかが不安ということ。)

だから、結局のところ、言葉の意味と自分が表したいニュアンス(?)との間に違いがあることを感じながらも、用いるのは「客観的」という言葉に落ち着くわけです。「客観的」という言葉を用いる表現は、一般的によく使われる表現であり、相手にも伝わりやすい表現なんですよね。

「客観」=「神の視点」とする私の考え、わかってもらえたら嬉しいです。

でも、この考えは完璧ではない、不完全なものだと私は思っています。だから異論は認めます。何なら、この考えを見て、あなたはどう考えたか、そんなことも聞きたいくらいです。まあ、くだらないと思われてもいいし、別に意見しようがしまいがどちらでもいいんですけどね。

余談ですが、私は哲学が割と好きで(いつかnoteで語ってみようかしら、と今ふと思った)、高校の倫理でも多くの哲学思想を学ぶ度に、興味深いなあと感じていました。その中で、西田幾多郎の純粋経験の説明で使われる「主客未分」について学んだ時、ほえ〜なるほど〜となった記憶があります。主観と客観が一体となる時。字面だけでは何のことやらサッパリだと思ってしまいますが、実際に経験したことはある気がします。何かに夢中な時、没頭している時ってこんな感じですもんね。

とまあ、そんなことはさておき。こんな感じで、普段も、気になった言葉についてじっくり考えてみたりすることが多いです。基本的にはナマケモノですが、考え出すとトコトン考える。私はそんな奴なんだなと思ってもらえれば幸いです。


今日のところは、こんなもので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?