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中国人が南京で行った悪事について書かれた公文書

南カリフォルニア大学が公開しているアメリカの公文書より。
中国軍が行った悪事について記載されている文書から反論用画像を作成しました。

📝 出典元
Asiatic Fleet. Weekly Intelligence Summaries. 1938, January-April (30ページ)
https://digitallibrary.usc.edu/asset-management/2A3BF1O3U2RK9

ところで、この公文書、兼ねてから問題が指摘されていました。
その問題とはこの部分です。


Upon entry into the city by the Japanese, troops were apparently turned loose and billeted in houses throughout the city.
Individual soldiers or small groups of them were allowed to roam at will fully armed.
They apparently looted and killed indiscriminately.
A news reporter stated that bodies were piled high around the city.

🔲 日本語訳
日本人が市内に侵入するに際し、部隊は解放され、市内の家屋に寝泊まりしたようである。
個々の兵士やその小集団は、完全武装で自由に歩き回ることを許された。
どうやら彼らは無差別に略奪や殺人を行ったようだ。
ある新聞記者は、街のあちこちに死体がうずたかく積まれていると言っている。


この部分を最初に読んだ時は『ん?🤨』って感じでした。
これについてはジャスティスさんからご指摘もありましたし、いつもの🐴🦌系ではない、少し頭がいい五毛さんからも指摘がありました。

ですが、今読み返してみると、この公文書を書いた人は『新聞記者から遺体が積みがってる場所がある』ということを聞いたのであって、そこから『apparently (どうやら〇〇のようだ)』と 『推察』 していたのでした。

実際、フィッチは南京で大量の遺体を見ています。
しかしそれは中国軍の特戦隊による同士討ちやパニック死や焼死によるものでした。

ですので、恐らく『誰も嘘は言っていない』のでしょう。
ただ、『この公文書を書いた人の  <<< 推察 >>>  が間違っていた』と言うだけです。


一応、日本語版も作成しました。


Asiatic Fleet. Weekly Intelligence Summaries. 1938, January-April
ending 16 January, 1938.

1.Operations.
This vessel proceeded to Hohsien, Sunday, 9 January to take over valuable material recovered from the Panay by the Saucy.
While there a small amount of fuel oil cargo was found on the Standard-Vacuum Oil Company's motor barges and was taken on board supply of gasoline and kerosene was found on one of the motor barges and was brought back to Nanking the next day when the Oahu returned; the motor barge caning down under its own power.
A considerable quantity of this gasoline and kerosene was then stowed on board a Standard-Vacuum Oil Company's junk and held at the Nanking anchorage for future use.

On Wednesday, 12 January the Sauoy having completed selvage operations proceeded to Nanking towing the recovered Standard Vacuum Oil Company's small units; and departed for Shanghai the following day.
She arrived Shanghai 15 January.

Nanking remains quiet with little apparent activity.
The British Embassy staff was permitted to land on 10 January as was the Germen representative.
These officials were brought to Nanking from Shanghai in H.M.S. Cricket.
However Wing Commander J. S. Walser, British Air attache was not permitted to land in Nanking until 12 January.
The Japanese explanation was that no foreign military representatives were being allowed ashore at the time.

2.Military.
The accounts of the capture of Nanking are far from lettering to either side.
The Chinese defending general is said to have fled the city without even informing his staff.
The Chinese soldiers left on their own, looted and destroyed some of the city property and according to one account shot down many civilians and donned their clothing in order to escape.

The handful of foreigners remaining organized the International Relief Committee and formed a so-called neutral zone in the heart of the city.
This zone was recognized in fact by the Japanese but was never acknowledged as such officially.

Upon entry into the city by the Japanese, troops were apparently turned loose and billeted in houses throughout the city.
Individual soldiers or small groups of them were allowed to roam at will fully armed.
They apparently looted and killed indiscriminately.
A news reporter stated that bodies were piled high around the city.


1938年1月16日終了分

1.作戦
この船は、SaucyによってPanayから回収された貴重な材料を引き継ぐために、1月9日日曜日にHohsienに進行した。
その間にStandard-Vacuum Oil Companyのモーターバージから少量の燃料油が見つかり、船内に持ち込まれた。
モーターバージの一つからガソリンと灯油が見つかり、翌日Oahuが戻ってくるとモーターバージは自力で下船して南京に持ち込まれた。
このガソリンと灯油の相当量は、スタンダード・バキューム・オイル・カンパニーのジャンクに積み込まれ、将来の使用のために南京の停泊所に保管された。

1月12日(水)、「サウイ号」は引き揚げ作業を終え、回収されたスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーの小型船を牽引して南京に向かい、翌日上海に向けて出航した。
1月15日、上海に到着。

南京は依然として静かで、ほとんど動きが見られない。
英国大使館員は1月10日に上陸を許可され、ドイツ代表も上陸を許可された。
これらの関係者は、上海からH.M.S.クリケットで南京に運ばれてきた。
しかし、イギリス航空局のJ.S.ワルサー中佐は、1月12日まで南京への上陸を許可されなかった。
日本側の説明では、当時は外国軍の代表者の上陸は許可されていなかったという。

2.軍隊
南京攻略の記録は、どちらの側にもレッテルを貼るには程遠いものである。
中国の守備側の将軍は、参謀にさえ知らせずに市から逃亡したと言われている。
中国兵は自力で出発し、街の財産を略奪・破壊し、ある記述によると多くの民間人を撃ち殺し、その服を着て逃走した。

残った一握りの外国人は国際救援委員会を組織し、市の中心部にいわゆる中立地帯を形成した。
日本側にはこの中立地帯は事実上認められていたが、公式には認められていなかった。

日本人が市内に侵入するに際し、部隊は解放され、市内の家屋に寝泊まりしたようである。
個々の兵士やその小集団は、完全武装で自由に歩き回ることを許された。
どうやら彼らは無差別に略奪や殺人を行ったようだ。
ある新聞記者は、街のあちこちに死体がうずたかく積まれていると言っている。


📓 南京大虐殺・731部隊・上海事変の捏造情報

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