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祈りのかたち

先日、ふらっと神社に行く機会があった。別に祭りがあるわけでもない。特に大事な試験があるわけでもない。

その神社は、中規模なもので、境内は割と広く、なんでもない日ながら参拝客はまばらにいた。よく晴れた日だった。寄り道する気になったのは天気のせいだったかもしれない。

うちの家は代々浄土真宗だし、中学と高校はイエズス会系のカトリックだったので、神社での作法などあまりよく分かっていないが、通り一遍の所作で賽銭を入れ、二礼二拍手一礼。

そのあと、境内を散歩でもして帰ろうと思ったが、たまにはなんでもない日に絵馬でも書こうかなと思い立ち、700円だったが800円だったかを納めて杉で作った絵馬を1枚もらった。

僕は家族が嫌いだから、祈るなら友人たちのために祈ろうと思い、「自分と良き友人達がこれからも健康でありますように」などと書こうとペンを執った。しかし気がついてしまった。自分もほぼエンドレスに精神科通いのエンドレス病人だし、友人たちにも完全に健康なひとなんていない。そんなひとに軽率に「健康」なんて願うのも失礼じゃないか?

数分考えて、こう書いた。

いささかキリスト教の祈り文句のようだが、これならば、今現在も苦しみにあるひと、これから苦しみに出遭うかもしれないひとにとっても、よい祈りになるだろう。ふう。

言葉をひねり出して一安心したが、よくよく思い返すと、絵馬を納める瞬間よりも、絵馬に書く言葉をひねり出そうとしていた瞬間こそが、一番祈りの時間だったんじゃないか。

友人たちを思い浮かべ、自分として彼らにどうあってほしいかを簡潔な言葉として結晶化できるまで具体的に想像できないとひねり出せるものではない。言葉を探すのに没頭していた時間こそ、最も彼ら/彼女らのために祈っていたのか。

僕はもう20代も後半になってしまったが、それでも今、祈りたいと思える友人に恵まれたこと、ふらっと立ち寄った神社で彼らのために祈りたいという心を持ち合わせたこと、祈りを形にする自分なりの言葉を見つけられたこと、に感謝したい。

しばらくそんなことを考えてぼおっとしていたが、われに返り、遅い昼飯を求めて境内を後にした。


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