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はじめて親子丼つくった

 あぁ、この書店には信頼できる書店員さんがいる。そう思ったお店の一つが、八重洲にある「八重洲ブックセンター」だった。

 八重洲での用事を終えて手持ち無沙汰になったとき、同居人のちえちゃんと一緒に「八重洲ブックセンター」に立ち寄って、料理本のある6Fに向かった。

 同棲を始めてみると、日々のごはんをどうしよう、という問題が立ち上がってくる。もちろん、一人暮らしをしている時にも、今日はごはん何を食べよう、という問題は生じていたのだけど、そういうものとは違った、ごはんを媒介としたコミュニケーション的な側面が問題として立ち上がってくる。僕は自炊をするという習慣も技術もこれまでの人生で身につけて来なかったから、自炊をする場合、どうしてもちえちゃんの方に重心が偏ってしまう。そういった不均衡が理由になって、僕も料理を作らなければ、という気持ちになり、クックパッドとか、飲料メーカーの公式HPにある料理のレシピを見つけては、とりあえず作れるくらいにはなった。

 クックパッドとかのレシピで料理を作ってみて、美味しいと思えることもある。けど、今自分が見ているレシピが何故こういったレシピになっているのか、レシピを作った人は、どんな味が好みだからこういったレシピにしたのか。そういった説明がなかったり、あったとしても初心者には読み取れないことがほとんどで、料理を作っても自分の血肉にならないように感じた。理由のわからないレシピで料理を作っても「自分は料理ができる」という感覚は、一向に得られないのではないかと思った。

 八重洲ブックセンターを訪れたのは、そんな歯がゆさを抱えていた時だった。だから、レシピの背景がなるべく見える料理本を探していた。料理本のコーナーを眺めていると、一つのプレートが目に飛び込んできた。 

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最高だな、と思った。「ネットのレシピ」とか「ネットで人気の料理家」ではなく「ネットのごはん」。「ごはん」という圧倒的に物理的なものに、「ネットの」という圧倒的に概念的な言葉を添える。八重洲ブックセンターには、身体的にインターネット好きな書店員さんがいるに違いない。信頼できる。と思えるプレートだった。

「この人おすすめだよ」

そんなプレートが設置された棚に平積みされていた本を手にとって、ちえちゃんが教えてくれたのが、作家の樋口直哉さんの「最高のおにぎりの作り方」という本だった。その場でパラパラとめくってみると、一つのレシピに対して2~5pほど、なぜこのレシピなのか、なぜその作り方をするのか、コラムのような文章が書かれている作りになっていて、自分が抱えている問題に応えてくれそうな本だと思った。本の中で扱われているレシピもいわゆる“家庭料理”で、近所のスーパーで簡単に材料を買い揃えることができるものばかりで、初心者の自分向きだとも思った。樋口直哉さんの「最高のおにぎりの作り方」と「定番の“当たり前"を見直す 新しい料理の教科書」の2冊を購入することにした。

 後日、さっそく「定番の“当たり前"を見直す 新しい料理の教科書」の方に載っている、親子丼を作ってみた。親子丼を作るのは、初めてだ。


まずは丼出汁をつくる。

醤油...50ml
みりん...50ml
砂糖...おおさじ2
水100ml
だし昆布...5cm角一枚

 軽量カップに、醤油を50ml注いだ。注いでみて、50mlの醤油ってこんなに多いのか、と少しだけギョッとした。2人前なので1人25mlだと考えても、けっこう多い。子どもの頃、刺身に醤油をたくさんつけて食べていたら「あんた、そんなにたくさん醤油つけてたら病気になるよ」と、母親に怒られたことを思い出した。でも、あのころ刺し身につけていた醤油の量なんて比にならないくらい、50mlの醤油というのは視覚的なインパクトがあった。刺し身につけてた醤油なんて、大量につけても一食でせいぜい大さじ一杯くらい。料理をしていた母親はもちろん、50mlくらいの量の醤油が使われる料理があることを知っていたはずだけど、どうして刺し身に醤油を多くつけたくらいで怒ってきたのだろう。と、心の中で小さな子供に戻って、すこし親を糾弾したい気持ちに襲われた。

 次に、醤油の入った計量カップにみりんを50ml注いだ。レシピに「みりん」が登場すると、少し身構えてしまう自分がいる。みりんは、本当に色々な料理に登場する。今まで、僕もたくさんのみりんを摂取してきただろうと思う。でも、これまでの人生を振り返ってみると、自分と「みりん」が直接的に相対したしたことは無に等しいことに気づかされる。僕は今までキッチンに姿を現さなかったし、みりんは卓上に姿を現さなかった。よく卓上に顔を出してきた醤油や塩や砂糖とは、わけが違う。子どもの頃からひとつ屋根の下ずっと近くに居続けたはずなのに、すれ違い続けてきた、みりん。ただ遠くにいるよりも、近くにいるのにすれ違い続けてきた方が、ずっと遠くに感じる。みりんと自分とのそうした関係の歴史性が「みりん」への疎遠の感情を覚えさせた。

 みりんを加えた醤油というのはどんな味がするのだろうと思い、スプーンで掬って舐めてみた。醤油に甘みと、少しの品が加わったような味がした。砂糖醤油につけた餅を口の中に入れた瞬間のような、味だった。

 次に、砂糖を大さじ2杯加えた。またスプーンで掬って舐めてみた。液体にジャリジャリとした食感と、ジャンキーな甘みが加わった。砂糖の甘味だけではなく、ジャリジャリとした砂糖の食感そのものが、よりいっそう砂糖の甘さを感じさせているようだった。

 今度は、醤油とみりんと砂糖を混ぜたものに水を100ml注いで、鍋で昆布と一緒に煮る。

 弱めの火加減で昆布を煮ますが、それは昆布のグルタミン酸が抽出される温度が60度だから。
 出汁に鰹節は使いません。鰹節の旨味成分は鶏肉と同じイノシン酸なので、味が重なってしまい、鶏肉の味が弱くなってしまうからです。(p70)

どのくらいの火で温めたら出汁が60℃になるのかと思い、温度計で測りながら煮はじめた。自分が想像してたよりももっと弱火でも、思ったより速く、鍋の底から少し気泡が浮き上がってきたくらいで温度計が60℃を指した。今度も、スプーンで掬って舐めてみた。確かに、昆布の味がした。飲みこんだ後もしばらく両下顎に、昆布の味の余韻が残り続けた。

 出汁から昆布を取り出して、今度は小さく切った鶏肉を入れる。

丼物はかき込んで食べるので、食材の硬さや大きさが揃っているのが原則。(p70)
丼物もいろいろありますが、一番難しいのが親子丼です。というのも鶏肉は煮込みすぎると硬くなり、米粒の食感と離れてしまうから。(p70)

強火過ぎると中まで火が通らないし、弱火で時間を掛けすぎてもパサパサになってしまう。鶏肉を煮るのは、緊張感があった。昆布出汁を取った時よりも少しだけ火を大きくし、鶏肉がいい感じに煮えたところでアクを取った。鶏肉から出た脂が、出汁の中で煌めきながら漂っていた。またスプーンで舐めてみた。美味しい、と思った。鶏肉の脂が舌に膜を張るように纏わりついて、口の中に甘い味が広がった。醤油のトゲトゲとした感じがあるから、より一層、鶏の脂の甘みが引き立っていた。それまでは、醤油とか、砂糖とか、昆布とか、それぞれが個性的な味を口の中で戦わせていたけど、鶏肉を煮たら、それぞれの個性が少しだけ柔和された。ここまでくると、一気に親子丼に近づいた。

沸いているところに卵を加える。このとき黄身を少しだけ残しておく。蓋をして、一呼吸置いたら火を止め、3分間蒸らす。(p73)

出汁が沸騰したところに卵を流す。「一呼吸」ってどのくらいだろう。不安なので、卵を注いでから、鍋の中の様子を見ながら、5秒くらいかけて深呼吸をした。料理素人にとって、レシピというものは絶対であり不変なものなので、自分の呼吸の方を改竄することにした。卵が凝固して、汁がなくなってゆく。3分待ったところで蓋を開けて、少し残しておいた黄身を流す。親子丼だ。いや、親子丼の「親子」の部分だ。さっきまでは液体の出汁だったのに、卵を入れただけで容貌が完全に変わってしまった。大学デビューをして変貌してしまった高校の同級生に会った時の、驚愕にも似た気持ちになった。出汁を吸いこんだ卵をスプーンで掬って食べてみた。鶏の脂の甘みとはまた違った、卵の甘みが加わって、鶏と卵の二層の甘みが別々に口の中に広がった。食べ物になった、と思った。こんなにも醤油を摂取して大丈夫なのかな?という当初の不安は、思考としては変わらず頭の片隅に残り続けていたけれど、味覚的に満足したことでどうでもよくなった。

 作り終えただけで、おおかた満足した。親子丼は、想像の何倍も手軽に作れる料理だった。その工程は、変化、変化、変化の繰り返しだった。一つの工程ごとに、変化があった。変化のあるごとに味見をして、自分の中の変化欲のようなものが満たされた。それはいくらか、食欲を減退させた。というより、今までは食欲だと思っていた、実は食欲でなくてもよかった部分が満たされて、食欲が相対的に少なくなったような感じになった。もし自分が作ってなかったら2人前くらい平気で食べれたと思うけど、そんなに量はいらないな、と思った。「親子丼つくったけど食べる?」と同居人のちえちゃんにLINEをして、自分の分は半分よりちょっと少ないくらいをよそった。

 冷蔵庫に常備している本麒麟を2本取り出して、ちえちゃんと一緒に親子丼を食べた。僕もちえちゃんも、正面同士でご飯を食べるのが得意ではないので、ダイニングテーブルで横並びに座りながら食べた。

「おいしいじゃん」

ちえちゃんが、口を尖がらせた少し不服そうな顔をしながら、感想を言ってくれた。僕が作ったものが美味しい時に必ず不服そうにするわけではないけど、不服そうにする時は必ず美味しい時であるので、よかった、と思った。自分で食べてみても、確かに美味しかった。

丼物はかき込んで食べるので、食材の硬さや大きさが揃っていることが原則。(p70)
通常は一口大の削ぎ切りにしますが、鶏肉をかなり小さく切り、米の粒子に近づけます。(p70)

樋口直哉さんの親子丼のレシピは、鶏肉を小さく切るところに特徴があった。確かに鶏肉は小さい方が、親子丼をリズムよくかき込んで食べることができて、僕も鶏肉が小さい方が好きだと思った。ちゃんと理由が書かれているので、自分の好みの感情をしっかり縁取ることができた。

しばらく親子丼をかき込んでから本麒麟を流し込むと、想像以上にマッチした。親子丼をかき込んだ後の、舌に纏わりついた鶏の脂の味とか、喉に刺さった醤油の味とか、下顎に残った出汁の味が、本麒麟の炭酸と強い苦味で気持ちよくリセットされた。そのリセットも、美味しかった。親子丼を単調なリズムでかき込んで、本麒麟でリセットして、また親子丼をかき込む。親子丼をかき込むリズムを本麒麟で崩しながらも、その2つが調和して、親子丼と本麒麟のグルーヴが口の中で発生した。

「この親子丼、すごい本麒麟に合う」

ちえちゃんにそう伝えると、ちえちゃんも本麒麟を口にして「ほんとだ!」と驚くように言った。ちえちゃんの口の中でも、グルーヴが発生しているようだった。

「も〜、お腹空いちゃったじゃん」

親子丼を食べ終わると、ちえちゃんがキッチンで何かを作り始めた。まだレシピ通りの分量で作るのが精一杯で、ちえちゃんのお腹を満たすくらいの量を作ることもできなかったし、追加で手軽に何かを作ることもできなかった。でも、とりあえず美味しい親子丼が作れてよかった。料理を振る舞うのは二人の距離を縮める感じがした。一方で、調理の過程で生じた変化を自分だけ味わい尽くしたという小さな秘密が、二人の距離を遠ざけもした。


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