見出し画像

人間をニ説から分析してみる

開いてくれてありがとうございます。

マイナス思考をプラス思考に変換していく、あけぼの博士です♪

ぜひ好奇心や学びの姿勢を生かせるコンテンツをこれからも随時配信していくのでこれからも見に来てくださいね✨


そもそもこのテーマを考えるにあたって、

きっかけはこの記事を見たときでした。

信と疑、そして自身が性善説寄りだからこそ、そこにブレーキをかけている模様。

ここで私の心で長らく眠っていた、

人間は性善説か性悪説どちらかを書きたいという思いが起きました😂

ということでタイトルにある2説とは「性善説と性悪説」この2つの観点から分析して、

果たして人間はどちらなのかを検証しようと思います♪

SectionⅠ


性善説と性悪説の定義


久しぶりにSection節の登場ですが、

まずは定義づけから、といっても私が勝手に定義づけることは偏りが生じてしまうので、

参考の情報を持ってきました♪

それが東洋経済オンラインの「「性善説」を誤解して日本人が受容してしまった訳」という記事で、

以下のように性善説が定義されていました。

性善説は、古代中国の思想家である孟子(前372?~前289?)によって説かれた。

「性」とは「生まれつき」という意味であり、「善」とは「倫理的」という意味である。

つまり、「人間は生まれつき倫理的である」というのが性善説の意味になる。

出典:東洋経済オンラインより

性悪説の定義は載っていなかったのですが、

善を逆に考えればよいので、

「悪」とは「論理性の欠如」とすると、

性悪説とは「人間は生まれつき論理性が欠如している」と言えますね。

これからの定義は、

性善説は「人間は生まれつき倫理的である」

性悪説とは「人間は生まれつき論理性が欠如している」とします。

つまり論点は生まれながら論理的であるか否か。


SectionⅡ

それぞれの説から見てみる


いきなりこっちではないかとなると、

またもや偏りが生じるので、

あくまで2つの説、両面を見てから判断していきます。

ーーーーー

性善説から見ると

では人間は生まれながら、善であると考えるのはある程度納得がいきます。

例えば赤ちゃんの笑顔は明らかに善だといえますし、

ハイハイしている姿、笑っている姿を見るだけでも、

見ている側は癒され、赤ちゃん側からしても、

多くの赤ちゃんがそうしてきたからこそ、それが素、

つまり善であるように感じます。

まだここでは結論は出さず、性悪説で考えてみましょう。

ーーーーー

性悪説から見ると

うーん🤔

見当たらない…。

ってことは性悪説じゃなくて、性善説??

結構、性悪説側にとって生まれながらの赤ちゃんが「悪」と考えるのは難しそうです。

ーーーーー

少し深掘る

はい、これで性善説の勝ち!

と締めくくるのは時期聡明かと。

そもそも、生まれながらにして自分自身を把握、理解できてないのではないか。

そんな問いを考えてみます。

つまりは赤ちゃんのしぐさはただ善、悪ではなく、ただの自然の動きととらえる方が賢明と言えそうです。

そして次に考えるべきは、私たち人間が持つ本能は「性善説」、「性悪説」どちらかということ。

さきほど赤ちゃんのしぐさからの方向では、善悪捉えられなかったので、

次は本能で考えてみましょう。

しぐさ以外に生まれながらもつものは本能。

えっ、本能?

「寝て、食べて、子孫を作る」

どこに善悪語れる材料あるの?

と思ったでしょうか?

実は人間の三大要求の前に、大きな1つの本能があります。

それは「自己防衛機能」、自己至上といってもよいでしょう。

この自己都合的、自己防衛は生きる上で大切ですが、

利他的ではなく、自己中心的ですよね。

今迄をまとめてみると、

本能の優先順位

自己防衛があって、三大要求があり、

三大要求があり、利他行動がある。

つまりは本能の土台は自己防衛。

SectionⅢ


紐解ける結論


今迄の流れをつかめば、きっと結論は一つ。

人間は性悪説ではないかと。

いわゆる本能の優先順位で確認した通り、自己防衛が生きる上で、

優先順位ナンバーワン!

自分が生きる残ることこそが、皮肉にも生きる続けるための条件というわけです。

自己防衛→三大要求→自己犠牲と、

この優先順位であれば、人間が善か悪かは明確。

もちろん自分が生きたい、自分を守りたいという話を除けば性善説が正しいかもしれません。

しかしそれはきれいごと。

自分が生きることが何よりも大切、

きっとこれは誰もが思うことなのではないでしょうか。

ーーーーー

よってあけぼの博士の下す決断は、

人間は性悪説寄り、ただ人間はコミュニティに属し、

コミュニティで活動することより、倫理性の欠如は痛手、

そこで出てきたのがルールや法など。

こう見ると矛盾しているように見えますが、

きっと矛盾こそが人間の生きざまなのかもしれませんね。

性善説とは、コミュニティに自分が属するからこそ、

着飾らなければいけないものであり、必需品。

内なる性悪説は、コミュニティに属することが必須という環境下のために、性善説という服を着ている。

そんな風に全貌が見えて来たわけです。

[本記事のまとめ]

人間は性悪説寄りであり、

人間はコミュニティに依存するからこそ、

性善説を纏い、法・ルールが必要になった。

人間の生き様とは矛盾の連続の中に見出される。

これがまとめ!

結構難しく考えてみましたが、

簡単に考えるなら具体例を挙げて、多数に当てはまるか考えてみると分かりやすいです👍

世で「聖人」と称される人がいますが、果たして聖人は多数派でしょうか?

ここに人間は性善説か性悪説かを考えるヒントが眠っています。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

ぜひ、いいなと思った方は👍とフォロー、Xにて拡散をしていただけるとうれしいです。

それでは👋



▼コメントを相互でしたいという方の募集

▼私の自己紹介はこちらから

▼そしてXもやっているので、良ければフォローお願いします

あけぼの博士のXのアカウント

この記事が参加している募集

私のコレクション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?