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ゾンビ薬・他人薬・毒薬

 あなたがもし「ああ、自殺したいなあ」と思ったなら、その動機に応じてどういう意味で・・・・・・・死にたいのかをよくよく考えておく必要がある。一般に死は一種類しか存在しないと思われているが、〈自殺〉の種類に応じて死のほうもいくつかに分けられるからである。

 例えば、ここに青い錠剤、赤い錠剤、白い錠剤がある。青いやつから順に、ゾンビ薬、他人薬、そして毒薬である。一般的には、自殺を望む人間はこの白い錠剤ーーー毒薬を服用する場合が多いのであるが、本来それはやり過ぎであって、この錠剤を必要とするはずの人物は意外にも限られているのである。


毒薬ー私なる人物を殺害したい場合に

 まずは、単なる毒薬を使用するのが相応しい場合の例を挙げよう。それは、ある人物を殺害する必要があるのだが、その人が他ならぬ「私」であるという場合である。こう書けば分かると思うが、そういった事態というのは実際のところあまりないのである。
 例えば、自分自身に激しい憎悪を抱いた場合がそれに当たる。私は、〈毒薬〉の薬剤師に「こいつを殺すことができる薬をください!」とのたまうと、言ったその口で錠剤を飲み込み、「ざまあみろ!」と絶叫して息絶える。
 もうちょっと現実的な例なら、ある人物に受けたひどい仕打ちを反省させるために、私は〈毒薬〉を口にする。私が死んだのを知ったら、奴でもさすがに罪悪感に苛まれるに違いない。ちょっと博打ではあるが、やる価値がないこともない。
 また、こういう場合もある。どういうわけか多くの人間の命を奪うであろうテロ計画を企てている首謀者が自分自身であることを知ってしまった私は、やむをえず〈毒薬〉を口にし、自分自身を殺害することで大勢の命を救うことに成功する。


ゾンビ薬

 次にゾンビ薬とは、飲んだ人間のいわゆる「クオリア」、たとえば夕陽のあの赤さとか、トマトのあの酸っぱさとか、金木犀のあの香りとかーーーそういった直接経験に伴う「あの」感覚質を取り去る薬である。
 この薬を飲んでも、見かけ上、私の行動には全く変化が起こらない。ただ、飲まなかった場合と同じように笑ったり、泣いたり、食べておいしがったり、転んで痛がったり、眠ったりもするのだが、そこに伴っているべき苦痛や味や感情や、そういった内的な体験の質が悉く脱け落ちるだけである。
 この薬を飲むべき人は、まずは自分の〈人生〉を生きたくない人であろう。自分であるこのような人が生きていること自体にさしたる問題はないが、しかしそいつの人生がじかに感じられるということが苦痛であり、また自殺すると周囲の人間を悲しませるとか、会社の人間に迷惑をかけるとかの「影響」についての心配事もあるから、ともあれ〈これ〉を感じるということがなくなればそれでよい、という場合にはこの薬が最適であろう。
 またこの薬は、他人に呑ませることに意味がある・・・・・。たとえば、憎いあいつをできれば殺してやりたいのだが、さすがにそれは気が引けるというときには、この薬を飲ませれば、そいつは「以前と全く同じ生活」を送りながら、しかしまったく何も感じることがないという滑稽な状態になる。私はその意味にほくそ笑む・・・・・・・・・・ことができるのである。


他人薬

 しかし、自分の人生を生きたくないというだけであるなら、わざわざこの人間・・・・の感覚質を奪い去る必要はないのではないか。そう思うなら、〈他人薬〉が相応しいだろう。他人とは、見たり聞いたり味わったり、…ともあれそういった「感覚質」を持っているには持っているのだが、まさに他人であるというその理由によって「私」にはじかにそれが感じられない人々のことである。あなたがそんなに道徳的でない人なら、あなたではない誰かが苦しんで生きていても、自分ではないのだから構わないと考えても不自然ではない。
 さて、ここに赤い錠剤、〈他人薬〉がある。私、私であるところのAがこの錠剤を飲むとする。すると、AはAのまま、つまりAである人の持つどんな性質もまったく損なわないままに、端的に「単なるA」になる。すなわち、ゾンビと違って見たり聞いたり嗅いだり…事実としてしてはいるのだが、私ではないというそれだけの理由によって実際には「私には感じられない」ようなあり方をした、あの他人・・と呼ばれる存在のようになるのである。(思うに、これが最も純化された意味での〈死〉であるべきだ。)
 しかし、あなたがもし十分に道徳的で、しかも極端に不幸な人なら、この〈他人薬〉ではなく〈ゾンビ薬〉を服用することを考えるかもしれない。「他人薬」を飲んだ私(かつて私であったA)は、私ではないとはいっても、Aとして存在している何者かではやはりあるからである。
 いずれにせよ、こういうことが起こるだろう。不幸なAである私は「他人薬」を飲み、そして実際に他人になるのだが、飲み終えるや否やこう言い始める。
「なんだ、この薬は。まったく効果がないじゃないか!」(※)

 ※〈ゾンビ薬〉を飲んだ場合の私が言うことも同様である。言うことは同様であっても、〈ゾンビ薬〉を飲んだ私はもはや何も感じていない(=本当は効果が出ている)のだが。


他人薬を他人に飲ませるとはどういうことか

 先ほど私は「ゾンビ薬を他人に飲ませることには意味がある」と言った。それは、哲学的なゾンビが持たないとされる「クオリア」すなわち感覚質は、曲がりなりにもこの世界に実在する位置を持つ概念だからである。
 だがしかし、「他人薬」を他人に飲ませるとはどういうことだろうか。他人薬とは私を他人にする薬であって、もともと他人である他人に飲ませてもなんの変化も起こらないはずである。
 しかし視点を移して、こんどは私が他人薬を飲まされる側に回ってみよう。私がそこそこ幸福な人間で、あるいは幸福ではないにしろ自分の人生に愛着を持っている人間であるなら、「他人薬を飲め!」と言われたら拒否するはずである。しかし、この状況の視点だけを取り換えてもういちど飲ませようとする側に立ってみて、他人であるそいつに「他人薬を飲め!」と錠剤を口に持っていくと、そいつが「嫌だ!」と猛烈に拒否することの意味は、やっぱりよく分からないのではないか。なぜなら、他人は端的に「その人」でしかないのだから。
 そして、ついに強引に飲ませてしまうわけだが、飲まされたそいつが言うのはやっぱり「なんだ、この薬は。まったく効果がないじゃないか!」なのである。

 さてしかし、そうだろうか。私は、私が〈他人薬〉を飲むということの意味しか理解できない、そのはずである。しかし、親しい人物、たとえば自分の家族が〈他人薬〉を飲んだと知った場合はどうだろうか。私はそのことの意味が理解できず、何も思わないのであろうか。何かを思うとすれば、いったい何を思えばよいのだろうか。

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