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「絆」について。

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絆論。
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家族という呪い 、「絆」というゼロ記号。:目次

家族という呪い 、「絆」というゼロ記号。:目次

 私たちは「絆」を語りたがる社会に住んでいる。何か事件が起こると、それを「周囲の人々との絆」と結びつけて語ってしまったりする。社会問題を「絆」に結びつけて語らせようとするのが、わたしたちの住んでいる社会らしい。
 しかし、実のところ、これは近年になってから登場してきた傾向であった。他者と生きる限り「人間関係」というものについて考えざるを得ないと思われるのだが、少なくとも我々はつい最近まで、それを「

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家族という呪い、「絆」というゼロ記号。:序章 なぜ我々は「絆」を語りたがるのか

家族という呪い、「絆」というゼロ記号。:序章 なぜ我々は「絆」を語りたがるのか

「ねえ、家族というのは、一種の幻想。『呪い』のようなものだと思わない? 考えてもみてよ。『家族』という名に縛られて苦しむ子供たちのことを。愛という名目のもとに、子供に何をしても良いと勘違いしている親たちのことを。彼らが本当に愛しているのは自分自身だけだというのに、子供たちはただ家族だからという理由で、親を愛し、きょうだいを愛さなければならない。」
(『輪るピングドラム』)

(朝日新聞を対象に

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「絆」の構築と終焉。

 2013/9/13に公開した記事。同じデータを利用しつつ、絆について地震と結び付けない形で書いている。実は、この記事を公開する前に1980年代からの絆報道の内容変化を追ったレポートと、それに関連する一連のエッセイを公開していた (エッセイは未完だったが)。この記事はそこで公開していた調査を前提に書いてしまっているので、これだけ読むと内容がスカスカだったりする。でもまぁ概要はわかるので、公開してお

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東日本大震災と、「絆」の終焉。 -結論

(以下は2013/2/11に追加したコメント) 記号が戯れるには、戯れるための「身軽さ」が必要である。つまり、記号をモード (流行) にするためには、なるべくなら記号内容が少ない方がよい。あるいは、記号同士の結びつきが非常に軽いほうが。

 政治などはいけない。これはとても重く、ひとつのモードが過ぎ去るまでにはけっこうな時間がかかる。人々の間を簡単に駆け巡るような、とても軽い記号。個々がそこに物語

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東日本大震災と、「絆」の終焉。 -3章

(以下は2013/2/10に加えたコメント) 2章が報道、つまり発信の分析。それを踏まえて3章は受容の分析へと移る。ここらへんから発表用のパフォーマンスっぽくなってくる。まとめサイトからネタを拾ってこようというものだ。しかし、一見手抜きに見えるかもしれない内容だが……実は2章の倍以上時間がかかっている。なんど心折れそうになったことか。

 だが、いくら時間をかけたと述べたところで、次のような批判は

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東日本大震災と、「絆」の終焉。-2章

(2017/3/11コメント) 調査編。いまになって振り返ってみれば本田の見立てが正しかったのだろうと思える。ただ、本田の批判は、問題意識はよくわかるのだが、批判としてはあまり成立していない。受容する側について書いた文章に対して、「意図的な操作」の可能性を見ていくべきだといったところで、それほど意味はない。せいぜい、「じゃあどっちも見ていきましょうね」となるくらいだ (そして確かに、どっちもみられ

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東日本大震災と、「絆」の終焉。-序章・1章

 この記事を書いたのは2012年の5月頃。だからもう5年前のことだ。当時大学3年生で、社会学という分野の特定のゼミをたいした理由もなく選択した、その春のことであった。当然専門的な知識もあまりなく (今もないのだが)、問いを立てて何かを調べて書く方法もよくわかっていなかった (これまた未だにわからないのだが)。それでもまぁ自分なりにけっこう悩みながら書いた。色々と不備は多いけれど、ここが自分にとって

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