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#172 失敗続きの釜石製鉄と反撃の静岡県人【宮沢賢治とシャーマンと山 その45】

(続き)

明治日本の産業革命における製鉄で興味深いのは、岩手の釜石で製鉄が成功していく過程である。

多くの新技術導入の際には様々な苦難が伴うのが一般的かと思うが、そういった事例と同様に、釜石での製鉄も当初は失敗続きだった。明治維新後の新政府が官営での製鉄を目指し、外国人を招いて大規模投資を行なったものの失敗し、事業自体が中断に追い込まれる。事業中断後、引き受け手のない設備を引き取ったのは、静岡生まれの実業家、田中長兵衞という人物だった。田中の下で、釜石の現場で指揮を取ったのも、同じく静岡出身の横山久太郎という人物だ。

なぜ、静岡から出た人物達が、遠く離れた岩手の釜石での日本初の製鉄業に関わったのか詳しくはわからないが、静岡と製鉄には興味深い関係性もある。

静岡は、かつて富士山や伊豆が修験道の聖地となっており、熊野や日光と同様、修験者達の痕跡が色濃く残る場所でもある。修験道の開祖と言われる役行者が、伊豆に流されたとの伝承も残る。また、これまでしばしば登場する源氏の棟梁である源頼朝もまた伊豆に流され、伊豆から天下を取った。

これまで、修験の地と、鉱山、そして弁慶や義経など源氏との関係がしばしば登場していることもあり、奥州の岩手の製鉄業に静岡の人物が関係したのが偶然なのか、必然なのか、気になるが、真相はわからない。

横山久太郎とともに、現場の責任者として製鉄に取り組んだのが、釜石出身の高橋亦助という人物だが、横山・高橋らの奮闘にも関わらず、製鉄は容易には成功しなかったようだ。

失敗に失敗を重ねた釜石での製鉄だが、ついには成功を迎える日が来る。しかし、その成功にあたっても、近代とは思えないような、摩訶不思議なエピソードが残されている。

【写真は、岩手県釜石市「栗原分工場跡」解説板】

(続く)

2024(令和6)年4月4日(木)


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