「賢治の道」と「日高見の道」

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最近の記事

#176 多神教?無宗教?【宮沢賢治とシャーマンと山 その49】

(続き) ここまで、個人的な興味に任せ、とりとめもなく様々なテーマを取り上げてきた。元々は、宮沢賢治と日蓮主義等の関係から始まった興味だったが、思いがけずテーマが拡がり、自分があまりにも日本人の信仰に対して無知であったことに気付かされるきっかけともなった。以前にも書いたが、ここで書いてきたことが、賢治と関係するのか、しないのか、それすらよくわからない。ただ、自分自身にとっては、日本人の信仰や思想を考えるきっかけとなった。 「日本人は無宗教か?多神教か?」というトピックスが

    • #175 明治期岩手の鉱山人脈【宮沢賢治とシャーマンと山 その48】

      (続き) 宮沢賢治の祖先は江戸時代に京都から来た藤井家で、近江商人の流れを汲むと聞いた記憶があるが、京都出身で、明治期に岩手にゆかりの人物に古河市兵衛がいる。古河はその名の通り、古河財閥の創始者であり、足尾銅山などの鉱山開発を通して、一代で財を成した。 古河は、京都で生まれた後、盛岡へとわたり、京都小野組の番頭の養子となり、近江商人の流れを汲む小野組で地位を高める。近江商人は、現在の花巻市石鳥谷地域などで酒造業なども営み、旧盛岡藩内でネットワークを築いていたようだ。 小

      • #174 石っこ賢さんと鉱山開発 【宮沢賢治とシャーマンと山 その47】

        (続き) 産業革命期の釜石の製鉄に伝わる話は、遠野物語にでも登場しそうな不思議な話だ。 橋野の近くの栗林にある工場跡の中の神社には、祠のすぐ脇に、「初湯銑」と呼ばれる鉄が、御神体にように鎮座している。「初湯銑」とは、初めて出来上がってきた鉄の塊だろうか。 明治に繰り広げられたこのような伝承や、製鉄の身近にある信仰を目の当たりにすると、日本人にとっての鉄作りは、単なる物の製造とは意味合いが異なるのではないかと思わされる。 さらに時代を遡れば、それは神事に近いような行為で

        • #173 近代製鉄と夢の老人のお告げ【宮沢賢治とシャーマンと山 その46】

          (続き) 失敗続きだった岩手県の釜石での近代製鉄だが、遂に成功の日を迎える。成功したのは、49回目の挑戦の時だったと伝えられている。 外国人を招き多額の投資をしながら、官営での製鉄業が失敗に終わった後、設備を引き取って製鉄に挑んだのが、静岡出身の田中や横山だった。しかし、やはり失敗は続き、48回の失敗の後、成功の見通しが立たず、従業員を解雇することとなった。すると、現場の責任者だった高橋亦助の夢に、不思議な老人が現れた。 その老人曰く「これまで良い鉱石として使用していた

        #176 多神教?無宗教?【宮沢賢治とシャーマンと山 その49】

          #172 失敗続きの釜石製鉄と反撃の静岡県人【宮沢賢治とシャーマンと山 その45】

          (続き) 明治日本の産業革命における製鉄で興味深いのは、岩手の釜石で製鉄が成功していく過程である。 多くの新技術導入の際には様々な苦難が伴うのが一般的かと思うが、そういった事例と同様に、釜石での製鉄も当初は失敗続きだった。明治維新後の新政府が官営での製鉄を目指し、外国人を招いて大規模投資を行なったものの失敗し、事業自体が中断に追い込まれる。事業中断後、引き受け手のない設備を引き取ったのは、静岡生まれの実業家、田中長兵衞という人物だった。田中の下で、釜石の現場で指揮を取った

          #172 失敗続きの釜石製鉄と反撃の静岡県人【宮沢賢治とシャーマンと山 その45】

          #171 世界遺産で「ニセがね」作り?【宮沢賢治とシャーマンと山 その44】

          (続き) 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産の一つである、岩手県釜石市の「橋野鉄鉱山」の雰囲気を言葉で伝えるのは難しいが、古代信仰の霊場的なイメージが一番当てはまるとおもわれる。 現在では、高炉跡の石積みの巨石がいくつか残され、その近くには川、わずかに開けた工場跡地は、山の上に向かってなだらかに登りながら狭まっている。傾斜の頂上に、神々を迎えた磐座があったとしても不思議ではなく、実際に、高炉脇の小高い場所には、信仰のための「山神社」が鎮座し、

          #171 世界遺産で「ニセがね」作り?【宮沢賢治とシャーマンと山 その44】

          #170 産業遺産は古代信仰の聖地?【宮沢賢治とシャーマンと山 その43】

          (続き) 宮沢賢治の「経埋ムベキ山」や「庚申」の話から熊野について触れているうちに脱線してしまったが、これまで書いてきたような、熊野などの信仰の聖地や修験道と鉱物についての話で言えば、賢治が暮らした花巻の早池峰のすぐ近くにも、鉱物の一大産地がある。 岩手県には、世界遺産が三つあり、最も有名なのが平泉で、もう一つが岩手県釜石市の「橋野鉄鉱山」だ。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産の一つとなっている。 ちなみに、もう一つは「北海道・北東北の縄文

          #170 産業遺産は古代信仰の聖地?【宮沢賢治とシャーマンと山 その43】

          #169 壇之浦の水軍と平泉【宮沢賢治とシャーマンと山 その42】

          (続き) 解説板の中の、 「源平の戦いは、一ノ谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向が、その勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野の水軍の統率者である熊野別当 湛増に対する、源平双方の働きかけは激しさをきわめた。」 という説明書きを読むと、源平合戦において、源氏も平家も熊野水軍の海軍力を欲しがったと思われる。 平家は、瀬戸内海を拠点に持つことから、海上戦に強いイメージがある。逆に、源氏は陸戦に強いイメージを漠然と持っていた。しかし、最終決戦の壇之浦

          #169 壇之浦の水軍と平泉【宮沢賢治とシャーマンと山 その42】

          #168 弁慶は海軍司令官の御曹司?【宮沢賢治とシャーマンと山 その41】

          (続き) 熊野の入り口でもある和歌山県田辺市の「鬪雞神社」には、弁慶とその父 湛増の像が立ち、神社近くには、武蔵坊弁慶の生誕の地もある。弁慶の父 湛増は、熊野三山の統括者的な役割を果たす「熊野別当」を務めていた。 鬪雞神社に興味深い解説が掲げられていた。少し長くなるが、以下に抜粋する。 「源平の戦いは、一ノ谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向が、その勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野の水軍の統率者である熊野別当 湛増に対する、源平双方の働きかけ

          #168 弁慶は海軍司令官の御曹司?【宮沢賢治とシャーマンと山 その41】

          #167 熊野と奥州平泉・秀衡と弁慶【宮沢賢治とシャーマンと山 その40】

          (続き) 熊野には、他にも興味深い足跡が残されている。前に触れたが、奥州平泉の盟主・藤原秀衡に由来する名所で、「秀衡の乳のみ石」や「秀衡桜」の名が残る。 また、熊野三宮のうち、熊野速玉神社には、現在の岩手県の久慈市から熊野を訪れた老婆に由来する塔が経つなど、熊野と奥州の強い結びつきが推察される。また、前にも触れた通り、平泉で義経とともに命を落とした武蔵坊弁慶は、熊野の田辺の生まれとの伝承も残る。 そして、出羽や日光の周辺と同様に、熊野もまた、かつては様々な鉱物資源を算出

          #167 熊野と奥州平泉・秀衡と弁慶【宮沢賢治とシャーマンと山 その40】

          #166 賢治メモ「庚申」【宮沢賢治とシャーマンと山 その39】

          (続き) 熊野では、賢治と関係する、もう1つの気になるものを、よく目にした。それは「庚申塚」だ。 「庚申」は民間信仰の一種で、晩年の賢治は、「庚申」をメモに残している。 現代では、庚申信仰は失われ、日常で意識することはほとんどない。ところが熊野では、依然として庚申塚が道標として使われており、庚申信仰が盛んだったことが推察される。 賢治が暮らした花巻やその周辺でも庚申塚が残っているケースがあり、道端の石碑に目を凝らすと庚申の文字が刻まれていることがある。 では、庚申と

          #166 賢治メモ「庚申」【宮沢賢治とシャーマンと山 その39】

          #165 賢治の「経埋ムベキ山」【宮沢賢治とシャーマンと山 その38】

          (続き) 宮沢賢治のメモに残された出羽三山をきっかけに、修験道や神仏習合へと脱線してしまった。 他にも、賢治が残したメモで気になるものに、「経埋ムベキ山」というものがある。 賢治がピックアップした32の山々に経典を埋めるという意図で、賢治が残したメモだと思われる。仏教で埋経という習慣があるという事はなんとなく知っていたが、具体的にどのようなものかはよくわからなかったし、それ程深い興味を持っていた訳ではなかった。 そんな中、思いがけず、山に経典を埋めるための入れ物「経筒

          #165 賢治の「経埋ムベキ山」【宮沢賢治とシャーマンと山 その38】

          #164 摩多羅とは?【宮沢賢治とシャーマンと山 その37】

          (続き) 話がだいぶ脱線し、この話が宮沢賢治にどれ程関係するのかも怪しくなってきたが、出自もはっきりせず、神なのか仏なのかも曖昧な摩多羅神が命脈を保ってきたということは、それだけでも大変に興味深い。 摩多羅神が天台密教と深い関わりを持っているのは間違いない。天台宗の星辰信仰など、さらに複雑な信仰とも関わっているようだが、この辺の私の理解は不十分だ。 ただ、この星辰信仰などは、賢治の信仰とも関連してくるかもしれないので、後で再び登場するかもしれない。 なお、賢治が暮らし

          #164 摩多羅とは?【宮沢賢治とシャーマンと山 その37】

          #163 奈良の都の摩多羅神【宮沢賢治とシャーマンと山 その36】

          (続き) 全国からもほとんど失われた摩多羅神の痕跡の中で、他にわずかに残されているのが、奈良の多武峰・談山神社だ。 談山神社の御朱印には、今でも摩多羅神の顔が描かれている。談山神社は能の観阿弥が京都へ進出する以前、その庇護者となって能楽の原型のようなものを形作り、神社に伝わる摩多羅神の面は、翁の面だと言う。御朱印の摩多羅神も、翁の顔をしている。 談山神社が位置するのは、古事記や日本書紀の舞台の1つである、奈良盆地の南東部、三輪から南へ下った山中だ。三輪には、卑弥呼の墓と

          #163 奈良の都の摩多羅神【宮沢賢治とシャーマンと山 その36】

          #162 絶対聖地・日光【宮沢賢治とシャーマンと山 その35】

          (続き) 日光の信仰は、男体山を中心とした山々や、その麓の中禅寺湖、華厳の滝など、奥日光に陣取る霊験あらたかな山々の自然によって形作られていると思われる。 男体山は、中禅寺湖畔にある二荒山神社中宮祠の境内に登拝口を持つ。そこから山頂へ直線的に伸びる登山道は、日光修験の開祖である勝道上人が切り開いた道とほぼ同じだと聞いた記憶がある。頂上付近まで眺望がほとんどなく、ひたすら足元を見ながら登る道は苦しい。 山頂に近づくにつれ、赤みがかった巨石が転がり、山頂付近に達すると、突如

          #162 絶対聖地・日光【宮沢賢治とシャーマンと山 その35】

          #161 日光の摩多羅神【宮沢賢治とシャーマンと山 その34】

          (続き) 不思議な神、摩多羅神の跡を探すと、東北から南へ下った日光へ辿り着く。 日光にある輪王寺は、毛越寺と同じ天台宗系の寺で、毛越寺同様に常行堂があり、その後戸に摩多羅神が秘仏として祀られている。そう言えば、こちらの摩多羅神は、御開帳の話を聞いたことがないが、永遠に秘仏なのだろうか? 「日光の寺」と言うと、少し不思議な感じもする。 日光の東照宮には徳川家康が祀られている。仏ではなく、家康が信仰対象となった聖地だ。しかし、家康以前には天台宗系の修験道の一大聖地でもあり

          #161 日光の摩多羅神【宮沢賢治とシャーマンと山 その34】