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#185 宮沢賢治と天台宗・最澄【宮沢賢治とシャーマンと山 その58】

(続き)

宮沢賢治と政次郎の父子旅について、二人は多くを語っていないものの、比叡山への旅の目的については、幾つかが挙げられている。

まず、政次郎が、賢治の宗教に対する態度を、より柔軟なものに導きたいと考えたことだ。伊勢や比叡山への旅自体が、このような政次郎の意図によって計画されたようだ。

また、二人が比叡山を訪れた時、伝教大師、すなわち比叡山に天台宗を開いた最澄の生誕千百年大法要祭があった、と言われている。
最澄は、平安時代に天台宗を開き、その後の日本仏教の展開にとっての最重要人物の一人である。しかし、賢治と政次郎の宗教的な対立は、日蓮宗と浄土真宗の対立であったことから、最澄に直接的な関係はなく、そう考えると、なぜ比叡山が目的地として選ばれたのかわからなくなる。

比叡山の重要な施設の1つが根本中堂だが、その根本中堂のすぐ脇に、賢治の詩碑が立っている。その碑には、「政次郎が賢治に対して、賢治が好きな伝教大師へ参ろうとして誘った」という趣旨の内容が書かれている。

私自身は賢治と最澄の関係についての知識がないのだが、この碑を読むと、賢治も政次郎も、天台宗の開祖である最澄について学んでおり、特に賢治は、最澄に対する信仰心を抱いていたようだ。

賢治は、比叡山について詠んだ歌の中で、「大師のみ旨 成らしたまへ」と記している。その意味は「大師(最澄)の教えにみそなわして下さい」ということで、比叡山に建つ碑の中では、「それまで一つの宗派に強く拘っていた賢治が、法華教の原点に立ち返り、「みんなの幸福」へと変化した大きなきっかけが、比叡山での経験にあった」と記されている。

【写真は、比叡山の宮沢賢治の詩碑】

(続く)

2024(令和6)年5月8日(水)


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