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『大尉の娘』と「翻訳」について

ロシア近代文学の創始者と呼ばれるアレクサンドル・プーシキンの代表作『大尉の娘』(1836)を40年ぶりに読み返してみた。

昔読んだ本は家に残っていなかったので、いちばん入手しやすかった光文社の古典新訳文庫(坂庭淳史訳)を購入した。
丁寧な注釈がついた読みやすい文章で、魅力的な登場人物たちが繰り広げる波乱に満ちた物語を久しぶりに堪能した。

『大尉の娘』は、歴史上名高い18世紀ロシアの民衆暴動である「プガチョーフの乱」に題材をとった歴史小説であり、青春小説でもある。

主人公のピョートル・グリニョーフは、地方の地主貴族の家に生まれ、何不自由のない少年時代を過ごした後に、父から軍務に就くことを命じられる。彼は、南ロシアの小さな要塞に着任し、将校として守備隊の一員となる。そして、ほどなく要塞司令官ミローノフ大尉の娘マリヤ・イワーノヴナ(マーシャ)と恋に落ちる。

折しも、コサック出身のプガチョーフを首謀者とする暴動が南ウラル一帯を席捲せっけんし、ピョートルが勤務する要塞も暴徒らの襲撃に会う。ピョートルたちの抵抗むなしく、要塞は陥落し、司令官夫妻は即座に処刑されるが、ピョートルはプガチョーフに助命される。実は、ピョートルは要塞着任前に見知らぬ旅人と出会い、ちょっとした恩を施していたのだが、その旅人こそがプガチョーフだったのだ。

エカテリーナ女帝への忠誠を貫くピョートルは、プガチョーフとは、あくまで敵どうしでありながら、互いに友情めいた感情も芽生えていく。

ピョートルは、神父夫妻に保護されたマーシャと別れ、一時要塞を離れる。ピョートルの同僚将校で反乱軍側に寝返ったシヴァーブリンは、プガチョーフから新たな要塞司令官に任じられたのをよいことに、マーシャを監禁し、結婚を迫る。これを知ったピョートルは、プガチョーフの力を借りてマーシャを救い出す。ピョートルは、マーシャを実家の両親に預け、再び反乱鎮圧部隊に参加する。

やがて、反乱軍は撃破され、プガチョーフは捕えられる。
これで家に帰れると思ったのも束の間、ピョートルはプガチョーフ一味と通じた疑いで検挙される。彼に恨みを抱いたシヴァーブリンが密告したのだ。ピョートルは、審理の結果シベリアへの終身流刑を命じられる。
しかし、単身ペテルブルクに乗りこんだマーシャの嘆願状がエカテリーナ女帝を動かし、ピョートルは釈放され、二人はめでたく結婚する。

……とまあ、こういった筋書きだ。

私の手元には『世界文学』という表題が記された古い大学ノートが残っていて、そこには学生時代に読んだ文学作品の拙い感想が鉛筆で記されている。英米仏独の作品も含まれているが、最も多いのはロシア文学だ。『大尉の娘』の読書記録もある。

ほんの気まぐれだが、この場<note>で紹介してみたくなった。

『大尉の娘』の記録の日付は昭和55(1980)年11月20日である。訳者や出版社の記録はない。以下に一部を抜粋する。

 プーシキンは、ロシア文学において写実主義を確立したとか、ロシア・リアリズムの祖であるとか言われている。それは、どうやら、プーシキン晩年の作である、この『大尉の娘』を代表とする散文小説を指して言っているらしい。
 だが、僕が読んだ感じでは、これは物語、冒険物語である。リアリズムよりもロマン主義の傾向が強く感じられるのである。<中略> いずれにせよ、フローベル、モーパッサンなどの写実主義から見れば、この小説はとても写実主義などと呼べるものではないだろう。

なるほど、作品の印象というものは、年をとってもあまり変わらないものかもしれない。今回も、再読しながら、私は「長いおとぎ話」を読んでいるような気がしていた。

 物語の展開が竜頭蛇尾に終わっているのも気になる。ラスト近くの、マリヤ・イワーノヴナが女帝と出会う場面など、事件の展開にまるっきり必然性がなく御都合主義的で興ざめであった。ハッピーエンドの描き方もまるっきり不徹底であると思う。

文章が下手くそなことは別として、我ながら、なかなか鋭い指摘だと思う。この当時と比べて、現在の読解力がさほど進歩したとは思えない。私はほとんど成長していないということだろうか?
ともあれ、当時の私はこの作品をけなしてばかりいたわけではない。

 しかし、全体的にみると、かなり面白い小説であった。その軽妙なユーモアは、「イワン・デニーヴィチ」に至るまで伝統を保ち続けているようなロシア人の国民性をうかがわせるし、ところどころ、成程真理だと思わせるような洞察力がきらりと光るのも見事だ。

引用を続けよう。特に紹介したかったのは次の部分だ。

 登場人物が皆、自分の生命よりも大切なものをしっかりと持っていて、そのものの前では、いささかも生に執着せず、不幸の中にあってもペシミズムにおちいることなく生き生きと行動する様子がすばらしい。プガチョーフが主人公ピョートル・アンドレエイチに聞かせるからすわしのおとぎばなしは、程度の差はあれ、作中人物たちの人生観(特にプガチョーフや主人公)を象徴しているものとして非常に面白い。鷲曰く、「三百年も腐った肉を食うよりは、一度でも生き血をどっさり吸った方がましだ。あとは野となれ山となれさ!」 それは「現在の一瞬における幸福は、生命とか未来とかに対する執着を断ち切ることを代償として得られるものではないだろうか」という僕自身の最近の気分とぴったり一致するのでうれしくなってしまった。

なんとも青臭い、思わず赤面しそうな議論で、お恥ずかしい限りだ。
ところで、上の引用で注目してほしいのは、太字で強調した鷲の言葉である。
プガチョーフがピョートルに語った鴉と鷲のおとぎばなしとはどういうものだったのか、今回読んだ坂庭淳史訳で本文から引用してみよう。

「おまえにおとぎ話を聞かせてやろう。ガキのころに、カルムイク人のばあさんが話してくれたんだ。ある日、ワシがカラスにこうたずねた。『教えてくれよ、カラスさん、あんたはどうしてこの世に三百年も生きてんだ? 俺はたったの三十三年だ』『それはね、ワシさん』ワタリガラスが答えた。『お前さんが生き血を飲んでいるからさ。わしは死んだのを食っておるからな』ワシはこう考えた。『同じものを食ってみることにしようや』『よかろう』ワシとカラスは飛んでいった。死んだ馬が見えてきたから、おりていってとまった。カラスはついばんではうまいうまいと言い始めた。ワシは一口、もう一口、それから翼を振ってカラスに言ったとさ。『だめだカラスさん。死体を食って三百年生きるよりは、一度でも生き血をたっぷり飲む方がましだ。あとは神さまの御心次第さ!』どうだい、カルムイクのおとぎ話は?」

強調した部分を大学ノートからの引用と比べてみてほしい。特に後半は、それぞれの訳文でかなり異なっているのが分かるだろう。
大学ノートに引用された文章の訳者は誰だったのか?
近所の図書館で調べたら神西じんざいきよしの訳であることが分かった。どうやら私が学生時代に読んだのは神西清訳の岩波文庫であったようだ。

「あとは野となれ山となれさ!」(神西訳)と「あとは神さまの御心次第さ!」(坂庭訳)との違い。

ロシア語原文を参照すると、該当する部分には「ボーク」という言葉が用いられており、直訳すると「神さまがどうなさるか」というような意味になる。
手元の辞書を引くと、これらの語句は成句となっていて「うまくいきますように」という訳が当てられていた。
おそらく「神さまがどうなさるか(見てみよう)」という意味から転じて「うまくいきますように」という祈りのニュアンスを表すようになったのではないだろうか。
(言語学的な根拠のない、ただの推測に過ぎない。)

いずれにしても、原文に忠実なのは坂庭訳の方であって、神西訳は大胆な意訳であったようだ。
学生時代の私は、この神西訳を読んで大きな感銘を受けた。
特に、このプガチョーフの「あとは野となれ山となれ!」という言葉は今に至るまで忘れることができず、プーシキンの『大尉の娘』と言えば条件反射的にこの言葉を思い出すほどだ。

神西清は、このカルムイクのおとぎ話を訳すときに、相当に訳語を吟味したのではないだろうか。問題の箇所は、原文に忠実に訳そうとすれば、坂庭訳のように「あとは神さまの御心のままに」などとなる。
だが、そうした訳によって、プガチョーフの心情が日本人にうまく伝わるだろうか? とりわけ、宗教的な由来をもった成句は、異なった宗教観や精神構造を背景とした日本語に置き換えることが難しい。かなり大胆な「換骨奪胎」が必要ではないか。
神西は、そんな風に考えたのではないだろうか?
そして、熟考のあげく選択された言葉が「あとは野となれ山となれ!」だった。

プガチョーフは、明らかに、おとぎ話のワシを自分の身の上と重ねている。その上でこの「言葉」を発している。その言葉が、本来ロシア人の宗教観に裏打ちされているものであったことは間違いない。しかし、プガチョーフにとっては、決してすべてを神に委ねるという「受け身」の言葉ではないし、ましてや、単に「祈り」の言葉ではなかっただろう。
むしろ、善か悪かはともかく、自分が信じる生き方を真っ直ぐに貫き、その上で正々堂々と神さまに向き合って、その裁きを引き受けようという潔い決意が感じられる。

少なくとも、私はそのように解釈したし、そして、そのような読解を促してくれたものが神西訳だったのだ。

もちろん、二種類の訳のどちらが良くてどちらが悪いという話ではない。
繰り返しになるが、原文により忠実という意味では、坂庭訳の方が正確であると言える。

それでも、あえて正確さを犠牲にして「あとは野となれ山となれ!」という言葉を選び取った神西の思い切った訳業は、原典に対する深い理解、自身の仕事への情熱とプライド、そしてたゆまぬ創意工夫を示す好例なのではないだろうか。

翻訳というものが、異文化の土壌の上に生み出された作品の真実に「日本語で」迫ろうとするものであるとすれば、それは決して単なる「置き換え」の作業ではない。
むしろ、翻訳作品は、それ自体が、それぞれの訳者の粘り強い文学的営みを通じて結実する独立した作品と言うべきだろう。

そうしてみると、翻訳という作業はいかに奥深く、困難なものであることか!
あらためてそのような思いを強くした読書体験となった。

※画像は、ロシアの画家フョードル・ロコトフの「エカテリーナⅡ世の肖像(部分)」(1780)

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