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死ぬとは、即ち生きること

人間自身は決して時間を止めることができない。
だからこそ、時間を止めるものであり、時間を超えて生き続けるものでもある彫刻・絵画などの芸術作品に、人間は強く惹きつけられるのではないか。

そんな趣旨のことを前回の投稿で書いた。

それ以来、「時間」というものについて考えをめぐらしている。
人間にとって「時間」とは何だろう?

『日本経済新聞』朝刊の最終面に月替わりで毎日連載される「私の履歴書」。
今年最後を飾るのは女優の倍賞千恵子さんだ。

その初回(12月1日)に、こんなことが書かれていた。
周囲の大切な人たちが次々と亡くなり、寂しい思いを抱えた倍賞さんは、「死ぬって何だろう?」と考える。その答えが知りたくて、知り合いの住職に質問した。
すると住職は「死ぬとは、即ち生きることです」と言ったそうだ。

最初にこれを読んだ時は、ただなんとなく読み流してしまったのだが、どこか心に引っかかっていたのだろう、数日たってふと思い出した。
「死ぬとは、即ち生きること」、最近読んだこの言葉はどこに書いてあったのだっけ?
スマホで新聞のバックナンバーを確認してみたら、果たして倍賞さんの連載一回目の記事だった。

あらためて記事を読み返すと、倍賞さんは、この言葉を聞いてハッとした、と書いている。

(そうか。死ぬとは、死ぬまで生きることなんだ。死があるからこそ生がある。生と死は密接につながっている……)
「ならば最期まで精いっぱい生きればいいじゃない」。
そう考えたら肩の力がスッと抜け、何だか穏やかな気持ちになった。

達観だと思う。

「川の流れのように」という美空ひばりの有名な歌がある。
秋元康によるその歌詞は、人生を川の流れにたとえている。

たしかに、人生とは、「死」という大海に至る一本の川のようなものかもしれない。
一人ひとりの人間は源流に生まれたひとしずくの水である。
そして、その水滴がついに大海に至るまでの絶え間ない流れが「時間」なのだろう。

そうしてみると、時間とは、この世に生まれた人間がその死の瞬間までに与えられた「猶予」のことを言うのではないか。
人間は誰ひとり例外なく、生まれた時から死刑を宣告されている。
その刑の執行を猶予されている期間、それこそが人間にとっての「時間」なのだ。

死とは果てしのない闇と静寂の大海であり、人間は、誰もがひとりのこらず、いずれそこに還っていく。
生とは、その悠久の大海の底から束の間ひょっこりと浮かび上がった、たよりない小舟のようなもの。
そんなたとえ方もできるかもしれない。

気の遠くなるような偶然のめぐりあわせから、まばゆい光の世界に、奇跡的に浮かび上がることができた小舟。
一人ひとりの生がそのようなものだとしたら、人間がなすべきことはただひとつしかない。世界の美しさをたたえ、ことほぐことのみである。


倍賞さんの言葉のとおり、死ぬとは、まさにその瞬間まで、一日を、一時間を、一分一秒を生きぬくことなのだろう。
その大切な一日を、一時間を、一分一秒を、戦争というゲームによって奪いとられてよい人間など、この世界にひとりも存在しない。
ただでさえ、人間に与えられた猶予は有限なのだから。







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