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カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

このところカズオ・イシグロにはまっている。

『日の名残り』、『夜想曲集』、『クララとお日さま』、『遠い山なみの光』を続けて読んだ。
これらのうち『夜想曲集』と『遠い山なみの光』は、それぞれ区内の別の図書館の文庫の棚に置かれていたものを、たまたま手に取ってそのまま借りてきたものだ。
ここでは『遠い山なみの光』について書いてみたい。

前回の記事で取り上げた『クララとお日さま』(2021)はイシグロのノーベル賞受賞第一作で長編最新作、一方『遠い山なみの光』(1982)は作家にとっての長編デビュー作にあたる。
これら新旧の二作はまったく趣が異なる作品で、一読した限り、テーマも、登場人物も、描かれる時代や場所等の状況設定も、なにひとつ重なる部分がないように思える。

それにもかかわらず、私は、二つの作品にある共通点を感じた。
それは、余白の多さとでも言ったらよいだろうか、結局最後まで真相が語られぬまま、読者にとっては想像するしかない部分が多く残されることだ。

『遠い山なみの光』は、日本人女性の悦子を語り手として一人称で語られる。

舞台は終戦後の長崎(過去)と、英国のとある農村部(現在)とを行き来する。

過去の悦子は、長崎市の中心からややはずれた地区で新婚生活を営み、最初の子どもを妊娠している。現在の悦子は二人目の夫に先立たれ、田舎家で一人暮らしをしており、ロンドンに住む二人目の娘(ニキ)が里帰りしているところだ。

最初の夫(二郎)との間の子である長女(景子)はすでに亡くなっている。読み進めていくうちに、景子は、両親の家を出て一人で暮らしていたマンチェスターの自室で首を吊ったことが分かる。

だが、物語の多くはむしろ長崎時代の回想に割かれていて、その中でも、とくに近所に住む母子家庭の母娘(佐知子と万里子)と親しく交流した数週間の記憶に重点が置かれる。

不明なまま残る「余白」が多いと言ったのは、例えば次のような点だ。

語り手である悦子は、二郎と結婚するまでの経緯について、多くを明かさない。悦子と義父の緒方との会話から、悦子がまだ少女の頃、緒方の家にひきとられたことがうかがわれる程度である。おそらく、悦子は長崎の被爆で家族を失ったのだろうと想像できるのだが、詳細は伏せられる。

また、悦子の最初の結婚が破綻した経緯、二人目の英国人の夫と知り合い、渡英した経緯についてもなにひとつ説明されない。景子が精神を病んだ原因も同様だ。

さらに、長崎時代に親しかった母娘のその後の運命――母の佐知子は不誠実なボーイフレンドの米兵に何度も裏切られながら、彼とともにアメリカで暮らすことに望みをかけていた――についても、読者はただ想像をめぐらすほかはない。

しかし、そのような肝腎な点がなかなか語られないことを、読者は、じれったいような想いを感じつつも、ただ受け容れるしかない。
一人称の語り手である悦子の意識の表層に浮かび上がる過去が断片的に綴られていく、そのような形式を小説がとっている以上、われわれが知りうることがその範囲内にとどまるということは、むしろ自然なことであるからだ。
むしろ、読者は、「知りたい」という好奇心を刺激され、真相がどこまで明かされるのだろうかという期待を抱くことで、物語に強く引き込まれていく。

すでに処女長編から、イシグロの「語りの巧みさ」が遺憾なく発揮されている。

主人公の悦子の意識の在りようも、事実関係の欠落と呼応するように、ぼんやりとした曖昧なものである。
悦子は、追憶を丹念に語るが、その語り口はあくまで淡々とした、静かなものであり、描写の対象である人物や事件や情景に対する自分自身のあからさまな心のうちをさらけだすことはない。

そのように、イシグロは、この作品において(この作品において、というべきかもしれないが)あえて読者に対して大きな裁量の余地を与えている。
事実関係の真相も、主人公の意識の深層も、いずれも薄闇の向こうに閉ざされている。読者は、その薄闇を透かし見るように、自ら事の真相に想いを馳せ、読者自身にとっての真実を感じとらねばならない。
そして、読者一人ひとりが、この作品から読みとりうる真実は、きっと多彩で、豊かなものであるに違いない。

たとえば、私が感じとった「真実」の一端は次のようなものだ。

最終章、ニキとの会話の中で、悦子は不意に思いがけない言葉を口にする。
「でもね、ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せにはなれないと思っていたの。それでも、私は連れてくる決心をしたのよ」
それに対してニキは「バカなこと言わないでよ」と反論する。「……お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんかいないわよ」

悦子は強い女性である。

敗戦で多くのことが様変わりしてしまったとはいえ、未だ家父長制の空気が色濃く残る時代の日本で、最初の夫と別れ、幼い子どもを連れて、新たな夫とともに遠い異国の地に渡るという決心は、並大抵のものではなかっただろう。
現在の悦子の生活は、そのような思いきった決断の上に成り立っているものだ。悦子はその決断に誇りを持ち、決して後悔はしていないし、自身の運命に満足もしているだろう。ただ、それはあくまで「自分自身に関する限り」ということだ。

一方で、悦子は、景子に対しては、どこか「後ろめたい気持ち」「自分を責める気持ち」をどうしても拭い去れないのではないか? 自分の気持ちを優先して「幸せにはなれない」とわかっていながら景子を「連れてくる決心」をしてしまった。その結果として、景子を自分の幸せの犠牲にしてしまった。そんな想いを振りはらうことができないのではないか?

だからこそ、悦子は、執拗に佐知子と万里子の母娘のことを思い出すのだ。アメリカでの生活をむなしく夢見て、現実から逃れようとする佐知子と、そんな母の気まぐれに振り回され、唯一の慰めである可愛がっていた子猫まで渡米の邪魔だからと「処分」されてしまう万里子。その母娘の姿が、自身と(当時はお腹にいた)景子とに、どうしても重なってしまうのだ。

悦子がニキにふと漏らした言葉に、自らの人生を偽らずに生きようとする人間にとって逃れようのない、エゴイズムの哀しみ、痛みといった想いがにじみ出ているように感じた。

本書の文庫版では小野寺健の訳者あとがきと池澤夏樹の解説が、ともにたいへん示唆に富むものだ。

特に、池澤夏樹による次の指摘は、非常に興味深いものであるので、少し長くなるが引用したい。

 作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。J・G・バラードはエゴセントリックで脇人物にはそれ以上の待遇を与えないし、ゼイディー・スミスは全体プランに合わせて工学的に細部を作ってゆく。会話はパーツの一つであり、それを加工する手の動きが読者にも見える(ぼく自身もこれに近い)。
 カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。

カズオ・イシグロ 小野寺健訳『遠い山なみの光』ハヤカワepi文庫 pp.272-273.
(池澤夏樹による解説、強調は引用者)

上の引用の、特に第二段落は、これまでイシグロの作品を何作か読んできた私の感じ方とぴたりと重なるものだ。
気になったのは、引用部分の最後の一文の「自信」とは、イシグロのどのような自信を指すのだろうか、ということだ。池澤はそれについて何も説明していない。

逆に考えてみよう。
作中で自分を消せない作家はなぜ消すことができないのか?
それは作家自身の意図をなるべく正確に、誤解のないように読者に伝えたいと思うからではないか? だから作家は読者から自分がしっかりと見えるように、あえて作中に姿を現す。
とすれば、逆に自分の存在を消そうとする作家は、たとえ自分を消しても、作家本人の意図を作品の中に実現することができるという自信を持っているということだ。
おそらく、そのように池澤は言おうとしたのであろう。

一方で、「作家が自分自身を消す」ということは、上にも書いたように、作品の解釈において、それだけ「読者に対して大きな裁量を与える」ということでもある。

読者に大きな裁量を与えながら、つまり読者が自ら真実を感じとる余白を残しながら、なおかつ作家の意図をあやまたず、確実に作中に実現しようとする。
そんな綱渡りのような、難しい芸当に、イシグロは、すでに長編デビュー作において果敢に挑み、しかも見事に成し遂げている。
そのような意味でも、この作品は、カズオ・イシグロの作家としての在り方を占うような記念碑的な作品であった、と言えるのではないだろうか?

この作品については、ほかにも書きたいことがある。
例えば、悦子と義父の緒方との会話の中に見られるような、イシグロの卓越したユーモアについて。
また、義父の世代からニキの世代へと三世代にわたる時代の移り変わりが、悦子の視点から実に効果的に描かれていることについて。

だが、もうかなり長くなってしまったので、このあたりにしておこう。



※タイトル画像はハヤカワepi文庫のカバー装画(渡邊伸綱氏)より






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