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(1)チェーホフとドストエフスキー

 退職して自由な時間ができたので、30年以上も前に買った古い『チェーホフ全集』を少しずつ読んでいる。
 昭和30年代の半ばに発行された中央公論社の16巻全集で、たしか神保町の古本屋で安く手に入れたものだったと思う。
 退職したら、あちらこちらへ気ままに旅行しようなどと漠然と考えていたのだが、折からのコロナ禍で、4月に緊急事態宣言が発令された。ステイホームが唱えられ、「巣籠もり」が日常となり、遠出がままならなくなったが、その代わり、じっくりと読書するにはうってつけの環境が整った。

 チェーホフと言えば、『かもめ』や『桜の園』などの戯曲が愛されている。私は、学生の頃から、中期以降の小説作品が好きで、大学の卒業論文でも中編小説『決闘』(1891)をとり上げた。『犬を連れた奥さん』や『可愛い女』など、まさに珠玉と言える後期の短編群は特に愛着が深い。そんなわけで、『チェーホフ全集』では、中期の小説作品を収めた第8巻以降を読み進めている。

 19世紀ロシア文学を代表する作家と言えば、誰でもドストエフスキーとトルストイを思い浮かべるだろう。これらの巨星たちの質量ともに圧倒的な作品と比較して、やや遅れて登場したチェーホフは、もっぱら日常の些細なできごとを題材とし、どちらかと言えばつつましやかな作家という印象がある。
 チェーホフはトルストイとは交流があり、この大先輩はチェーホフのいくつかの作品を高く評価していたし、チェーホフ自身も『アンナ・カレーニナ』を愛読していたことが知られている。
 一方で、チェーホフがまさにユーモア作家として文学活動を始めた時期に生涯を閉じたドストエフスキーについて、チェーホフは多くを語っていないように思われる。そのため、チェーホフがドストエフスキーの偉大な作品群をどのように受容していたのか、私にはよくわからない。
 しかし、今回あらためてチェーホフの作品群を読みながら感じたことは、意外にもドストエフスキーとの近縁性であった。

 例えば、『ともしび』(1888)という中期の名作がある。この作品の中心となるエピソードは、中年の技師が物語る若き日の過ち、すなわち行きずりの人妻との不倫であるが、彼はこの経験から素晴らしい教訓を得たと回顧する。その教訓とは、要するに「罪を犯した者は、その罪がもたらす苦悩によって自ずと罰せられる」というものであり、ドストエフスキーの『罪と罰』のテーマを想起させる。

 同じく中期の代表作『退屈な話』(1889)の主人公である老教授の絶望も、またドストエフスキー的である。
 「いかなる調和も、いかなる思想も、いかなる愛や赦しも、要するに、古代から現代に至るまで賢人たちが考えついたもののうち、個々の人間の運命の無意味さや愚かしさを弁明できるものは何一つとしてない」という確信、これは、ラスコーリニコフが陥った地獄の正体について、著名な亡命ロシア人評論家のシェストフが語った言葉である(レフ・シェストフ『悲劇の哲学』近田友一訳、現代思潮社、1968)。
 この確信は、まさに『退屈な話』の老教授が、死を目前にしてようやく悟った自らの運命と重なるものである。

 『かけ』という小品(1889)は『地下室の手記』とつながっている。「かけ」に勝つ目的で自ら牢獄に閉じ込められた主人公は、地下室から出ていかない男と同様に、あらゆる思想や理念や、生そのものが無意味だという「真理」に到達する。これは自分の殻に引きこもり、生きた生活や現実との接点を失ってしまった人間に対する痛烈な皮肉である。

 そして、『決闘』の中でも、以前は見過ごしていたかもしれない「ドストエフスキー的」な要素にあらためて気づかされた。
 『決闘』の主人公であるラエーフスキーという若者は、帝政ロシアの典型的な「余計者」インテリゲンチャ、すなわち、高い教育を受け、より良い生活に対する強い渇望を持ちながら、日常に流されて惰性的に日々を過ごし、社会的に価値ある活動になんら従事できない男である。この主人公の敵役として、ダーウィニズムを信奉するドイツ系の動物学者フォン・コーレンが配置される。
 興味深いのは、このフォン・コーレンとその友人である若い補祭(ロシア正教会において主教・司祭を補佐する聖職者)との間で交わされる会話である。(補祭は脇役であるが、作品中で語り手の「視点」となる役割を担う人物のひとりでもある。)

 補祭がフォン・コーレンに対して何気なく発する問いは、『罪と罰』に深く関わっている。その問いとは「道徳律は哲学者が考え出したものか、それとも、神が肉体といっしょに人間に与えたものか?」というものである。
 これに対してフォン・コーレンは「道徳律は有機的に人間と結合しているものではないか」と答える。
 補祭がさらに「では、道徳律が利己心という人間の天性としばしば相反する問題について、哲学を用いずにどう解決すべきか?」と畳みかける。道徳律が有機的に肉体と結合しているというなら、利己心だって肉体と一体ではないか、という問題提起である。
 これに対するフォン・コーレンの答えは驚くべきものである。その趣旨はこのようなものだ。「強者の利己心が悪を駆逐するのであれば、それは人類に対する愛であり、道徳律に反するものではない」。すなわち、強者が弱者を征服するのが愛だ、というのである。
 このフォン・コーレンの議論は、「選ばれた非凡人(=強者)は法の枠をふみ越える権利を有する」というラスコーリニコフの思想を意識したものであり、それを揶揄している、と考えられないだろうか?

 フォン・コーレンは、主人公とは対照的に、常に自信に満ち、勤勉に研究に打ち込み、そして、堕落したラエーフスキーを忌み嫌い、糾弾する。この両者の葛藤は次第に緊迫し、ついに「決闘」へと至る。
 決闘で、ラエーフスキーは天を撃つ。しかし、フォン・コーレンは真剣に相手を狙い(悪を駆逐することこそが愛だ!)、弾はわずかにそれる。
 決闘から生還したラエーフスキーは、自分が置かれた現実に真摯に向き合い、自らに勤労と節制を課し、更生の道を歩き始める。こうして、筋立てとしては、フォン・コーレンのラエーフスキーに対する評価は間違っていたという結末となる。

 このように、フォン・コーレンは、優生思想に凝り固まった社会進化論者であって、弱いもの、劣ったものが「悪」として滅びることを必然とみなす、相当にグロテスクな人物である。
 ところで、チェーホフは、この敵役を残忍非情な悪人として描いているかと言えば、そうでもない。フォン・コーレンは、周囲の人物と生き生きと交流するし、作品の結末で、ラエーフスキーと気まずい和解を果たす場面では、この人物も十分魅力的である。
 このあたりが、チェーホフの人物造形の興味深いところである。主人公に対して特別に肩入れせず、一方、敵役に対しても公正であろうとするのだ。

 ともあれ、この小論のテーマは、チェーホフとドストエフスキーの近縁性である。この「近縁性」が意味するものは、これらの、一見まったく異質と思われるふたりの作家が、実は共通の重要な問題を見据えており、その問題は、おそらく人間存在の根源的な意義にかかわるものである、ということだと思われる。

 ただし、そのような問題に向き合う姿勢において、両者は根本的に異なっている。生身の人間が現実に罪を背負う苦しさは、『ともしび』においては、神の存在不在と直接関係づけられていない。また、『退屈な話』の老教授には、ラスコーリニコフが見出した一片の救いの可能性すら、残されることはないのだ。





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