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歴史は続いている(『文学新聞』から)

錆びついたロシア語力を鍛えなおしている。

目標はロシア語能力検定試験2級合格。
昨年秋から某ロシア語学校の通信講座を受講しているが、それだけでは目標達成に向けた学習量に十分ではなさそうだ。

そこで、ロシア語の勉強も兼ねて、ロシアの新聞等のウェブサイトからコンパクトで読みやすい(=身の丈にあった)、内容的にも興味深い記事を拾い出して、その試訳あるいは要約を note で紹介するという試みを思いついた。

私のような貧弱なロシア語力では、そんな都合の良い記事を見つけ出すのがなかなかひと苦労なのだが、まあ、できる範囲でやってみよう。
(誤訳も多いと思うが、お許し願いたい。)

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初回は “Литературная Газета”(『文学新聞』)の記事から。

歴史は続いている―ソ連創設から百年―
 
今日、しばしば次のような言説を聞くことができる。ソ連の創設者たちには「先見の明」がなかった、あるいは、国家の基礎として置かれた原則自体が結果としてソ連の崩壊を導いた、などである。
これは議論の余地があるテーマであり、歴史を真剣に検討しようとすれば、論争は不可避であろう。
 
一方で、1980年代末にこの国家の解体に着手した者たちの「先見の明のなさ」は明白である。イデオロギー・システムの急激な破壊、諸々の神話の「脱構築」は、いっときは社会を意気阻喪させ、その成果を収めることができたが、しかし、まことに速やかに、人びとは、言うならば「我に返り」、自分たちの行いを怖れたのだった。
 
脱共産化(decommunization)は逆効果となった。それが長い間機能していないことは明らかであり、そのことは、社会学者たちも毎年のように繰り返してきた。
その間、ロシアでは、ソビエト連邦の信奉者たちがますます増えていった。「ソ連的なるもの」の絶滅の度合いに応じて、旧ソ連の魅力は色あせるだろうという見解に反して、である。
ソビエト的な愛国心は、また、ポスト・ソビエト世代にも固有なものであることが判明した。しかも、大いにそうなのだ。往年の姿は、ソ連期の映画、音楽、文学作品、デザイン、建築を通じて、若者たちに吸収されてきた。
芸術に刻印された「偉大な時代」の雰囲気は、最も優れた反ソビエト的なものに比べてすら、より強い説得力を備えていた。
 
社会学者たちが示したように、スターリンの名前は、歴史上の活動家の人気ランキングの最上位にしっかりと定着した。もっとも、ソ連期には、1980年代初めまでに、この人物は、社会意識から事実上消し去られていたのだが。
結果は現前としている。百周年を迎えた今、街路の名称の改定やレーニン廟にかけられた覆いに反して、また、多種多様な反ソ的解釈に満ちた映画、書籍、論文や教科書にもかかわらず、ソ連の崩壊によって失望したと答えるロシア人の割合は、各種の指標によれば、75パーセントから90パーセントにも及んでいる。
もはや、これは、単なる社会現象でも歴史の逆説でもない。これは、我々がどれほど「先見の明」の乏しさに無頓着であったかを示す政治的な事象なのである。

『文学新聞』2022.12.27(全文訳)

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実は、文学関連の軽い読み物を期待して『文学新聞』を物色したのだが、そのような意図にそぐわず政治的な記事を拾い出してしまった。
 
補足すると、ソビエト連邦は、1922年12月30日の第1回全連邦ソビエト大会において樹立が宣言された。従って、2022年末は、ソ連創設からちょうど百周年であった。
上に紹介した記事は、そうした歴史的な大きな節目にちなんだ記事のひとつであったようだ。
もうひとつ補足すると、ロシア語版ウィキペディアによれば、現在の『文学新聞』は、「保守的・愛国的な傾向」を帯びているとされる。
 
この記事の論調が興味深いのは、ソ連の崩壊というできごとについて、それは決して歴史的な必然であったのではなく、その当時の為政者たちに「先見の明」がなかったことに由来するもの、要するに、政治的に誤った選択の結果であったと捉えていることだ。
 
旧ソ連の解体は、わが国に例えれば、太平洋戦争への突入と同じような歴史上の愚挙であった。この記事の趣旨はそのようなものである、と考えれば分かりやすいかもしれない。
 
「75パーセントから90パーセント」の真偽はともかく、重要なことは、現代のロシアにおいて、若者を含むかなり広い層の国民が、現実に旧ソ連に対する郷愁のような想いを抱き、かつての大国ロシアの復興を願っている、ということであると思う。
 
おそらく、そのような人びとにとっては、本来ロシアと一体であり、むしろロシアの一部でさえあった(と信じて疑わない)ウクライナが、ロシアから離反していくということ、ましてやNATOに取り込まれるなどということは、なんとしても許し難いことなのだろう。
 
仮にそうであるとしても、戦争を継続してよいという理由にならないことは言うまでもない。


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