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1.深い森に還る

老子は「無為自然」を説く。

無為自然とは何か。

『無の道に従って、いっさいの作為を捨て自然のままに生きること』

では、なぜ老子は「作為を捨てよ」というのか。

「知識・学問・ 欲望・技術・道徳・法律などの作為は、社会に混乱と争いを招く」と考えたからだ。

蛇はアダムとイブに「知恵の実を食べよ」とそそのかす。

知恵の実を食べたアダムとイブは、知恵を得る。

そして、アダムとイブは知恵を得ることで自然の道から離れていくことになる。

アダムとイブを人類の祖に例えるなら、彼らが知恵を得て「有為」で生きるようになったがために、社会に混乱と争いを招くこととなった。

例えば「鉄」。

人は知恵を得ることで、鉄を加工できるようになった。

しかし「鉄」は人類を進化させたと同時に森を奪った。

鉄の加工には沢山の「火」を使う。

「火」は木で起こす。

鉄の加工には高熱が必要になるから、大量の木が必要になる。

だから森が消え、消えた森は砂漠となる。

砂漠となった土地では、鉄を加工することができないから、また新たな森を求め探すことになる。

鉄のために森を潰して人は進化してきた。

鉄を必要とする「種」は人のみ。

人以外、鉄を必要とはしない。 

知恵という「有為」を持った人は進化し文明を築く。

その結果、人は「自然」と乖離して生きるようになる。

知恵を得たイブは裸であることを「恥ずかしい」と思うようになった。

イブが感じた「恥ずかしさ」とはいったい何なのか?

イブが感じだ「恥ずかしさ」とは、禁断の果実を食べて得た知恵が「真実の知恵」ではないということを知った恥ずかしさだ。

知恵を得てすべてを手に入れたと妄信していたら、実はその知恵は全体の極一部でしかなかったと知ったがために、自分自身の幼さが露わになってしまった恥ずかしさなのだ。

自然というエデンの園から追放された我々が、再びエデンの園に戻ることができるのだろうか。

もう両の手の中にある禁断の果実は幻想でしかない。

もう禁断の実の味を十二分に味わいつくした。

もう禁断の実は体内で消化され、排出されている。

だから、これからはエデンの園に帰還することになる。

「有為」を消し「無為」に還る時が来た。

鉄を手放し砂漠を森に変え、我々は森の人となる。

砂漠には雨が降らないから循環が起こらない。

森は水を貯めることができる。

水がある場所に、循環が生まれる。

水の循環のある場所は森であり、森とはエデンを意味する。

循環がある場所が自然なのだ。

蛇が人をそそのかしたのではない。

神が蛇の姿となって、人に禁断の実を与え人を旅に出させたのだ。

森という名のエデンから遠く離れてはじめて「真実の智慧」に目覚める。

自然という叡智を知るためには、一度、森から離れる必要があったのだ。

そして、今、エデンの園に還る時を迎えた。

「真実の智慧」は、森というエデンの園の中にある。

人が「無為」になるとき「自然」になる。

人が自然に還る時、人は人でなくなることであろう。

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