70.「祈り」には、心地よさが欠かせない
昨日の夕方、noteを通じて知り合った方から「この記事についての感想を聞かせてね」というLINEが届いた。
それは「祈り」をテーマとした記事だった。
僕は、すぐにその記事を読み感想を送った。
それから、普段通りに過ごして23時ごろ眠りについた。
しかし、深夜2時ごろ目が覚めてしまった。
起きて何かをするにはまだ早いし、もう少し寝ていたい。
眼を閉じて再び眠ろうとしたが、なかなか寝付けなかった。
そんなとき、ふと夕方に読んだ「祈り」の記事を思い出した。
どうせ眠れないなら、目を閉じて何かを祈っていれば、そのうち眠れるだろうと思った。
そこで何を祈るか考えて、ひねり出したのが「この世界が平和になりますように」ということだった。
それから、しばらく目を閉じたまま「この世界が平和になりますように」という言葉を心の中で繰り返した。
この言葉を唱え始めた当初は、どことなく居心地の悪さを感じた。
何か自分にそぐわない何かが、胸のあたりにあるように感じた。
でも、目的は眠りに落ちることだから居心地の悪さを感じながらも、「この世界が平和になりますように」という言葉を唱え続けた。
すると、不思議な事に徐々に胸のあたりにあった居心地の悪さが消えいき、すっと「この世界が平和になりますように」と唱えられるようになった。
きっと、何度も繰り返して唱えることで、慣れが生まれたのだと思う。
慣れによって、違和感という居心地の悪さが消えていったのだ。
そして、「この世界が平和になりますように」と唱えることが心地よくなっていった。
しばらくの間は、心地よさの中で「この世界が平和になりますように」と唱えることができた。
頭の中では、たくさんの人が平和に過ごしている人の姿を思い浮かべられるようになっていて、短い時間ではあったが、純粋な気持ちで祈ることができるようになっていた。
しかし、すぐには眠りに落ちることは出来なかった。
そこで言葉を変えてみることにした。
再び何を祈るか考えて、今度は自分のことについて祈ってみることにした。
思い浮かんだのは「私が喜びで満ち溢れますように」ということだった。
再度、この言葉を唱え始めると、今度は何も違和感を感じることはなく、すんなりと唱えることができた。
なぜ、違和感がなかったのだろう。
そのことを考えてみて、きっと「喜び」という言葉を普段、記事にして書いているから、この言葉に対して抵抗がないからなのではないかと思った。
ならばと思って、別な言葉を考えてみる。
次に思いついたのは、「これから先、素敵な出会いがありますように」という一文で、この言葉も抵抗なくすんなりと唱えることができた。
それなら、また別な言葉を唱えてみようと思い、「私はこれからますます豊かになりますように」と唱えてみることにした。
すると、不思議な事にこの言葉には、どことなく居心地の悪さを感じた。
最初に「この世界が平和になりますように」という言葉を唱えているときと似たような居心地の悪さだった。
でも、きっと唱え続ければそのうち、この違和感もなくなるだろうと思って、しばらく「私はこれからますます豊かになりますように」と唱え続けた。
しかし、最初のときのように違和感がなくなることはなかった。
そこで、なぜ違和感がなくならないのかを考えてみた。
時計を見ると、3時近くになっていた。
それから、いろいろと思いを巡らせた結果、「私はこれからますます豊かになりますように」という言葉に、僕のエゴがあるということに気付いた。
エゴが違和感の正体なのではないかという思いに至ったのだ。
「この世界が平和になりますように」と唱えたときは、唱え続けることによって、その言葉に慣れることができた。
では、なぜ慣れることができたのかというと、そこに「僕」という個人が存在していなかったからだ。
だから「この世界が平和になりますように」という言葉を徐々に受け入れられるようになったのだと思う。
「私が喜びで満ち溢れますように」や「これから先、素敵な出会いがありますように」という言葉に違和感が感じなかったのは、すんなりとそう思えたからだ。
でも、「私はこれからますます豊かになりますように」という言葉の裏が側には、僕の中にある根強い欲求があり、その欲求が違和感になっていたのではないか、と考えた。
逆にいうと、僕の心の中には、まだまだ豊かさという面で満たされていないという思いがあることが分かった。
これまで生きてきて、ずっと持ち続けていた満たされていないという思いが、違和感として現れているのではないか、そういった氣づきを得ることができた。
「祈り」とは、純粋な思いがないといけないのかもしれない。
純粋な思いとは、エゴのない思いだ。
エゴは、自分の中の「足りていない思い」から生まれるもの。
世界の平和を祈ることにエゴは必要ない。
世界の平和を祈ることに最初は違和感を覚えたのは、慣れないことをしている自分に対しての違和感だったのかもしれない。
また、世界の平和を祈るとき、そこに「自分が」という思いは存在しない。
だから、普段していないことをすることの違和感を除くことができれば、心地よく祈ることができるようになる。
その次の「喜び」や「出会い」に関しては、今は満たされている。
もちろん、今以上に「喜び」や「いい出逢い」が生まれることは大歓迎。
そういった思いがあるから、すっと祈ることができた。
しかし「豊かさ」を考えたとき、つまり「お金」という面では、まだまだ欠乏感が残っていて、その欠乏感からエゴが生まれ、結果として祈りという行為にそぐわなかったのかもしれない。
そう考えた。
例えば、苦しさのあるなかで何かを強く願うと、それは苦しさを強化してしまうことになる。
「苦しいから助けてください」という思いは、自分の中の苦しさを助長してしまうことになる。
「苦しいから助けてください」では、自分の心をより萎縮させてしまうことになる。
神社の拝殿の奥の祭壇には、必ず鏡がある。
なぜ鏡があるかというと、鏡は祈る自分を写しているからだ。
つまり、祈る相手とは鏡ではなく鏡にの中にいる自分なのだ。
自分とは「我(が)」だ。
そして、「かがみ」の「が」を抜くと「かみ」となる。
「我」は、エゴを生み出す原因となる。
そんな「我」を取り払うことができれば、誰でも「かみ」になることができる。
よく神社は祈る場所ではなく、感謝を伝える場所であるという話を聞いたりする。
神社にある鏡に向かって感謝を伝えるということは、鏡に写った自分に感謝を伝えることになる。
神社で「この一年無病息災で過ごせることができました」と感謝を伝えたなら、それは自分に感謝を伝えたことになる。
感謝の気持ちにエゴはない。
だから、感謝することが推奨されるわけだし、感謝することでその言葉が自分にそのまま返ってくるから、心地よさを感じられるようになる。
しかし、エゴの含まれた思いを投げかけると、それがそのまま自分に返ってくるから、苦しさを助長させることになり、さらに自分の心を萎縮させることになる。
では、豊かさに満たされていない場合には、どう祈ればいいかいうと、満たされていないことに焦点を合わせるのではなく、今すでに手にしている豊かさに感謝をすればいいということになる。
今ある豊かさに感謝して、それを祈りに変えれば、それがそのまま自分に返ってくるから心地よく祈ることができる。
心地よく祈ることができるということは、そこに「我(エゴ)のない」状態になれるということだ。
エゴのない状態での祈りには心地よさがある。
心地よさのある祈りからは、そこに希望を見出すことができ、さらに、その希望を祈りに変えれば、祈ることが快感になっていく。
心地よさとは「純粋さ」だから、その純粋さを祈りに変えれば違和感を感じることなく祈りができるようになる。
例えば、病に伏した友人のことを祈るとき、病床にいる友人の姿を思い描いて祈るより、元気になった友人の姿を思い描いた方が心地よく祈ることができる。
あるいは、もし自分に何かしらの欠乏感があるなら、その欠乏感を解消したいという思いではなく、欠乏感が解消された自分の姿を思い浮かべて祈ることができれば、そこに心地よさを生み出すことができるようになるだろう。
欠乏感がなくなっている自分の姿を思い浮かべるとき、そこに「我(エゴ)」は存在しない。
満たされた思いからはエゴが生まれることはない。
「我(エゴ」」のない自分は「かみ」となる。
もちろん、エゴが100%悪いというわけではない。
欠乏感が自分を成長させる原因にもなる。
しかし、何かを祈るときは、エゴのない自分の姿を思い描いて祈った方が、祈りとしての効果は大きいといえるだろう。
苦しい思いで祈るのではなく、明るい気持で祈ること。
そうすれば、鏡に写った明るい自分がそのまま自分に返ってくることになる。
僕が「私はこれからますます豊かになりますように」という言葉を祈ったことに違和感を感じたのは、欠乏感から生まれる思いで祈っていたからだ。
でも、その欠乏感を手放すことができた自分を思い浮かべて、それを感謝として祈りに変えることができたとき、僕の中にあった違和感を解消することができたのだ。
ジョン・レノンの「イマジン」という曲は祈りの曲だ。
ジョンは曲の中で「イメージしてみよう」と唱っている。
よいイメージを持って祈ること。
それが上手な祈り方なのかもしれない。
思いが自分の世界を創造する。
理想の世界をイメージし、心地よい気持ちで理想の世界の実現を祈れば、それが自分の世界だけでなく、この世界を変える力となる。
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