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第56回:「喜び」という本質で生きる

今回は、「喜び」という本質で生きるということを書いていきます。

どういうことかというと、私たちは誰もが「喜び」を求めて生きているものであり、素直に「喜び」で生きていくことが人間の本質的な生き方であるということです。

私たちは日々、選択をして生きていています。日常生活の些細なことから、人生を左右するような大きなことまで、その選択はすべて自分の置かれた状況をよくするためしているものだったりします。

つまり、私たちが起こす思考や行動は、どんなときであれその状況下における「最善」を求めた結果であり、私たちはその時々の「最善」を具現化させるために生きているといえるのです。

こういったことから、私たちの本質は常に「喜び」にあり、私たちは「喜び」を「得る」ために生きているといっていいでしょう。

自分にとっての「得」を明確にする

「喜び」をあえて別な言葉にするなら「得」ということになるかもしれません。

なぜかというと、人は「得」と感じると「喜ぶ」からです。とはいえ、人は何に対して「得」と感じるかが異なるものです。こういったことから、自分は何に対して「得」と感じるかを十分に知る必要があるでしょう。

たとえば、私は文章を書くことに「得」を感じています。この「得」の理由は、自分の思っていることを文章に変換することで、その思いを明確化できるようになることです。また、思っていることを言語化していく最中で新たな気づきが生れたりすることも私にとっての「得」になっています。

さらにもうひとつの大きな「得」として、私の書いた文章がたくさんの方々に読んで貰えたことで共感して貰えたりすることです。

こういったことから、私が文章を書くことで得る「得」とは、「考えの明確化」であり、「気づき」であり「共感」であったりします。

とはいえ、私が日々文章を書いた結果で収入を得ることはありません。なぜかというと、私は「お金」という「得」のために文章を書いているわけではなかったりするからです。

もし、私にとっての「得」を「お金」にしたならば、日々文章を書いて暮らすということはないでしょう。きっと「お金」になることをして過ごしているはずです。

私は、様々な試行錯誤の末に、今、こうして自分の「得」だけのために生活できるようになっています。

もちろん、こういった生活をするようになるまでには様々な試行錯誤がありました。

では、なぜそういった試行錯誤をしたかというと、シンプルにそうしたかったからです。間接的に「得」を得るのではなく、直接的に「得」を得る生活をしたかったのです。

以前、「お金」を「得」と考えていたときは、月に一度、「お金」が入ってくるときだけ「得」を感じて、それ以外の時間を「得」と感じてはいませんでした。

しかし、私は、あるとき楽しくない時間を過ごすことに限界を感じました。つまらないという思いを抱えながら生きることに心の底から限界を感じたのです。

そこで私がとった選択は、生活のすべてを「喜び」にすることでした。私は私のとっての「得」を優先するという冒険を始めることにしたのです。

人間は損得勘定で生きている

私が生活のあり方を変えたことで得られたことが「自信」です。なぜかというと「喜び」で生きていると自然と「自信」が生まれてくるからです。

「喜び」は自分という存在を「肯定」してくれる力があります。また「喜び」は「達成感」を与えてくれるため、この「達成感」が自分の自信へと繋げてくれるものになります。そして、私は、自分に対して「自信」得られるようになったことで、「本来の自分」にたどり着けたという感覚を得ることができるようになっています。

冒頭にも書きましたが、人は常にその時々の「最善」を求めて生きていて、それを具体化させてることで生活を送っています。つまり、人は「喜び」という「得」と感じるために生きている生物であり、損得勘定でしか生きられないといえるのです。

私は毎日、自分にとっての「得」を感じることができるようになったことで、「本当の自分」という「得」を得ることができるようになりました。このことは、私が私の人生を生きるという冒険を始めたことで得られた大きな「得」なのです。

そして、この「得」がいよいよ「徳」に変わり始めようとしています。そういった実感を最近は特に感じるようになっています。というのも、人が「喜び」という人の本質で生きていけるようになると、「徳」で生きられるようになるからです。

道はおのずから尊い

すべてのものは、道から生じ、
もの自身の本質、すなわち徳に従って成長する。
そこに形が現れ、機能が完成する。
これゆえに万物は、道を尊び、自らの本質を大切にする。
道が尊く、徳が貴いのは、
誰かがこれに爵位を与えたからではなく、常におのずからそうある。

「老子 あるがままに生きる」

こちらは、老子の言葉です。老子は人が「徳」で生きられるようになると、成長することができるようになり、人としての本質を大切にするようになると語っています。

繰り返しになりますが、人はどんなときでも自分の「喜び」を得るために生きています。毎瞬毎瞬をしっかりと「喜び」を求めて生きることが、人間の本質的な生き方です。

さらに、どんなときでも素直に「喜び」を求めて生きることができるようになると、そこに「徳」が生まれ、その「徳」に従って生きることができると、常に「喜び」を感じることができるようになり、自分自身を成長させることができるようになるものなのです。

私が得ることができた「自信」はこういった「徳」の導きであり「成長」の結果です。また、私はこの「徳」の導きによって「本来の自分」と出会えることになったといえるでしょう。

誰もが最善を選んで生きている時代到来

私は、基本的にその時々で思いついたことを文章にして書いていたりします。特に私のマガジンでいうと「喜びを選んで生きる」と「自己実現は自分に満足すること」の二つは、ほとんど思いついたことだけで書いています。

このため、書き終えたあとで自分でも恥ずかしくなるようなことを書いているなと思おうことが度々あったりします。実をいうと今回も、そういった内容だったりします。

しかし、私は恥ずかしいと感じるようなことでも、あえて書き直さないようにしています。なぜかというと、その瞬間瞬間で思い浮かんだことは、本来の自分からのメッセージだと思っているからです。

書いた内容に対して、恥ずかしく感じたりするのは、他者からどう見られているかを気にしているからであり、そういった自分は「よそ行きの自分」であって「本来の自分」ではありません。

また、こういった「よそ行きの自分」で何かを表現している限り、自分の本心にたどり着くことはできないと感じています。

私の場合は、たまたま文章を書くということで「本来の自分」に近づくことができましたが「本来の自分」にたどり着くツールは人それぞれです。

そこで、もし自分の人生を自分のために生きようとするのであれば、自分の「最善」とは何かを明確にし、自分の「最善」を実現させるツールを見つける必要があるといっていいでしょう。

この自分の「最善」を実現させるツールを見つけることができるようになると、人は「喜び」という本質で生きることができるようになっていきます。

人が本来持っている「喜び」という本質で生きられるようになったとき、「徳」のある人生を歩んでいけるようになっていきます。

そして、少しでも多くの人が自分にとっての「徳」を表現し、「最善」の状態で生きられるようになったとき、この世界の姿も変わっていくと思っています。

私の願いは、一人でも多くの人が「喜び」で生きられるようになることです。

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