データの可視化はなぜ必要なのか

情報認知科学的に言えば、ヒトが取り扱える情報量には限界があり、また脳の情報処理として複雑なものを複雑なままに扱えないので、ある種の単純化を持ってして複雑な情報を理解できる段階まで落としてから処理する。
ただ、そうした情報処理の過程で失われる情報もあれば、単純化の処理が適切に行われないと本質と異なる理解をしたり、考えるために必要な情報を削ぎ落としてしまい、誤った判断や思考を繰り広げたりしてしまう。様々は場面でフレームワークというものが発案されて使われるのは、この複雑な情報群を単純化の過程で意図せず不適切な処理をしないために、単純化処理の設計書なるものがフレームワークだったりする。

思考の範囲であれば、こうしたフレームワークや所謂リテラシーなるもので対応できるわけだが、これで呼応しあえる関係者は、自己のみ、または自己と思想や視座、方向性や価値観が合っている必要があったりする。

先に説明したとおり、フレームワークは情報処理過程の設計書が役割であって、そこに価値観の共感化や、思想の共有が為せるものではない。ゆえに、フレームワークやリテラシー、知識をヒトに与えたからと言って大きく前に進むわけではないのはそういうことである。

一方、共有には思考も必要だが、もっと単純に視覚的にも重要である。なぜなら、情報処理の始まりはインプットなくして始まらない。インプットチャネルは五感だが、もう少し整理すると、視覚・聴覚・体感覚の3つに大別できる。ヒトによって、視覚優位、聴覚優位、体感覚優位で優位なインプットシステムが異なるが、比較的多くのヒトが視覚優位であるため、視覚的なアプローチが重要視される。

余談だが、視覚優位になるのはテレビやスマホ、絵本とか、小さい頃から視覚依存した情報インプットの媒体が多いからである。例えば、山奥の生活が長いとか、毎日のようにピザやオペラの英才教育を受けているという人に会うと優位システムは異なり、なにか写真を見せるより、話をしたり、体感できるモノを触れてもらうほうが理解されやすかったりする。

さて、話を戻すと、思考領域じゃなく人と共有する場合は、共有する媒体が必要なわけだが、その媒体を用意するのは容易ではない。冒頭言ったように、ヒトは意識的・無意識的情報をすべて合わせると大量な情報を毎日インプットしている中、その情報を単純化して処理しているため、情報という無形物は同じ空間で同時期にインプットしたとしても同じ情報認知になるとは限らないからだ。
もう少し言うと、情報の単純化処理とは、削除・歪曲・一般化の3つの処理である。単純化というと一番一般化が近しいイメージだが、実は削除や歪曲もされている。コミニュケーションが取りづらい相手はまさに、この削除や歪曲の偏重があったりする。こうしたことから情報をヒトが認知の過程でありのままに取り込まないので容易ではないことになる。

また、共有を語るにはもう一つの概念で直感と客観がある。基本的、ヒトを自分を主体としたRPGのような人生を繰り広げているわけだ。シューティングゲームをしたことある人はFPSとTPSという言葉を聞いたこと、やったことがあるだろうから想像しやすいと思う。FPSは一人称視点、TPSは三人称視点でゲームプレイするものだが、普段TPSで自分を俯瞰しながら生きている人は少ないだろう。時々、反省や思考を巡らせるときに客観視するくらいではなかろうか。
ゆえに、基本的には直感のFPSモードで情報に触れ、情報処理していて、主にFPSモードだと自分との対話もしないことが多い。
一方、TPSモードになると自己対話や他者対話がしやすくなる。もしかしたら、対話はTPSモードに切り替えることが必要といえるかもしれない。

これまで話した、情報の単純化と直感・客観の文脈で情報世界を見ていくと、いかに情報がありふれたものでありながら、簡単なようで難解なものかがわかるのではないだろうか。この難解な情報という存在を、共有する場合、難解にする所以がヒトであるからしてその媒体がヒトでは担えないこともお分かりだろう。

ここでやっと登場するのがデータ可視化という手法であり、その手法でアウトプットしたものが媒体になりえる。情報はヒトやヒトが作り出したものから生み出されたものであるがゆえに人工物ともいるが、ありふれたものであり広義に捉えれば自然物のようにも思えるこの存在は、誰もが扱っているようでヒトが介した情報やヒトとヒトとの間を介したりする場合はいかに情報の単純化処理を適切に、かつ最小限の単純化処理に留めながら情報をヒトが扱える状態にしていく必要がある。ありのまますぎるとヒトの情報認知限界を超えてしまうし、認知限界の範囲に収めようと恣意的すぎると情報の共有がしづらくなる本末転倒な事象が起きてしまうし、なかなか難しいこの妙をバランスよく対処するのがデータ可視化の役割であって、必要な理由である。

ちなみに、これが得意なのは、ビジネスマンよりデザイナーが向いているかもしれない。ビジネスマンは発散と収束の過程でロジカルという手法を持ってして共感しうるロジックストーリーを作ることを得意とする。これはいわば脳の情報の単純化処理において、歪曲を制御しつつ削除と一般化をうまく扱いながら、発散した情報群を収束に向かわせている所作とも言える。一方、デザイナーは歪曲と削除を制御しつつ、なるべく一般化の範囲で情報をありのままに近い状態で残す表現を作ることを得意する。また、デザイナーはデザインリサーチやデザイン思考などの手法でわかるように人間観察手法の経験値も高く、アプローチとしても人間観察からスタートすることに特徴を持つ。ビジネスマンはどちらかといえば、企画やマネタイズが成立するか否かが関心ごとで理論に偏重してしまいがちなところがあるかもしれない。
これゆえに、データ可視化においてデザイナーが頼りにされるのかもしれない。


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