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魔法のペンは無いけれど

文章の修行を始めた。
3月末までは、文章の修行に力を入れることに決めた。英語、特にTOEICの勉強や、ナチュラルに英会話するための練習、英文法の復習はいったん脇に置くことにした。スマホのアプリを開き、ただそこに文章を書き溜める。感情のままに勢いよく書き、見直し、削って増やす。今までなら勇気が出なかった、段落ごと消すということもしてみた。

魔法のようなペンが欲しい。美しい、心を打つ言葉を、流れるように書くペンが欲しい。たとえば誰かが落ち込んで、外の世界と関わりたくなくなるとする。そんな時に寄り添う言葉を書くのだ。布団から出て朝日を浴びて「世の中も思ったより悪くないのかもしれない」と思わせる言葉を書くのだ。

でもそんな魔法は無い。

キーボードを叩いたり、スマホのアプリに書き込むこと以外では、言葉は生まれない。毎日書きつづけるしかないのだ。

子供の頃は作文が本当に苦手だった。
先生が黒板にその日書くべき作文のテーマを書く。あの時間が本当に苦手だった。

「将来の夢」「家族について」「平和とは」

あまりにも壮大で、大きすぎる話だ。それらがいつも目の前に立ちはだかっていた。そんなときふと教室を見回すと、クラスメイトは鉛筆でガリガリ書き進めている。悩みながら書く子、消しゴムに鉛筆をさして遊んでいる子、休み時間になったらすぐ遊びに行けるように、さっさと書いてしまう子もいた。みんなの様子を伺ったあと、恐る恐る原稿用紙に目を戻す。するとまっさらな原稿用紙が、じろりと睨んでくるのだった。文字を書く音が響く中、何もできずたたずむ。その時間は、絶望でしかなかった。悔しくてイライラして、鉛筆のおしりをよく噛んだ。黒い芯の、重だるい、鈍くて苦い味と匂いがした。

今はいくらか、ありのままの文章を書くことができるようになった。自分とそのときのテーマの関係性を、素直に書けばいいのだ。「平和なんてわかりません」だっていい。とはいえ、もっと素敵な文章が書きたい。梶井基次郎、原田マハ、青木祐子といった作家は、どのように文字を紡ぐのだろうか。想像するたびに「のぞかないでください」と、助けた鶴に障子を閉められたような気分になる。この場合は鶴が私を助けてくれているけれど。ただ、彼らのような素晴らしい作家の原稿にも、編集の方の赤い修正の文字が刻まれる。名作はそうして磨かれるのだ。

さて、ここまで書き進めてきた。
正直、けっこう疲れている。文章を書くことは尊く、地味で大変だ。明日この文章を見直して修正するとき、私はどんな気持ちになるのかな。素晴らしいと自惚れるのか、それとも全部消してしまうのか。自分の文章を読み返すと、自分と瓜二つの誰かが書いたものを読んでいる気になる。昨日は良いと思っていた言葉が、くどくて安っぽいものに見えてくる。文字の連なりをバラバラにして、組み立て直す作業が始まるのだ。

神様がいたら、こんな風に世界を作っていたのかな。

そう考えながら、やっとこさ書き上げた段落を丸ごと消すのだった。


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