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おばあがあと3ヶ月で死ぬらしい(6)

「人はどうなったら『死んだ』ということになるのだろうか」

小学校の頃、担任が尋ねてきたことがあった。
道徳の授業だったかなあ。
授業で保険証の話になり、保険証の裏側について先生が教えてくれた。
当時私の保険証は親が管理しており、保険証の裏側なんて見たことがなかったので新鮮だった。
保険証の裏側に臓器提供の意思を示す欄があるのだけれど、それで
「人はどうなったら『死』なのだろうか」と。
当時の私と今の私の意見はあまり変わっていない。

心臓が完全に止まって体中の組織が全てストップしてしまったとき。
一般的にいう『死』は恐らくこのことを指す。

でも、
「頭が完全に機能しなくなったときから、人は死んでいるんじゃないのか」と私は思う。
大好きだった人たちの全てを忘れ、自分自身の存在すら忘れてしまい、ただ心臓が動いている。
これは人間以外の生物からしたら『生』なのかもしれないけれど。
感情という分野が地球上の生物の中で一番発達してるのは人間なんじゃないかしら。
「人間は豊かな感情を持つことが特徴の生物である」とするのであれば、やはり頭が機能しなくなり自分自身の存在すら感じなくなり、ただ生きているだけの状態は人間ではないように思えてしまう。

今日、おかんからおばあの病状について電話があった。
日に日に悪くなっているそうで、最近は食事が以前の半分くらいしか食べられなくなってきた。
座っていることも難しくて、横になっている時間が増えたそうだ。
もともと認知症を患っているおばあ。
以前会ったときは、私を含めた家族のことはバッチリ覚えていて、会話もできた。
もちろん自分自身のこともしっかりと分かっているように思えた。
でも、なんとなく分かる気がする。
「おばあの頭はどんどん機能しなくなっていく」
という未来のこと。
心停止の『死』よりも、恐らく早くやってくるであろう頭の『死』のことを考えると、おばあがおばあでいられる、おばあとして生きていられる期間の短さに絶望している。
今週末も会いに行くけれど、あと何回、本当のおばあに会えるのだろうか。



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