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「弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)」が起こっていることをどう考えるべきか?

今回は、「社会福祉」、「アファーマティブアクション(ポジティブアクション)」、「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」などのような、「弱さを競う競争」をテーマにしたい。

社会福祉のような「弱者性を尊重しようとすること」が重要であることは前提とした上で、そこに、実質的に「弱者としての優先度を競う競争」が起こっていることは否定できず、それが問題だと感じている人は少なくないのではないだろうか。

社会保障制度は、「いざというときのための安心(セーフティネット)」を提供してくれるものということになっている。しかし、現在の社会保障制度は、苦境に陥ったときに、制度の側から歩み寄って手を差し伸べてくれるものではない。

どれだけ困っていて、苦しんでいたとしても、そのことを制度に認定されなければなんの保障も与えられないままだ。

生活保護などの福祉を受給するためには、それを受給する資格があると認められる必要があり、そのための手続きは、人によっては多くの心労が伴う、そこにリソースを使わなければならないものになる。

福祉を与えられる権利は、実質的に、「努力をして勝ち取らなければならないもの」になってしまっているのだ。

社会保障や何らかの支援制度は、「弱さ」を認められることで優遇されるという形になるが、そこにおいて、「いかに弱いか?」を競い合う競争が起こっていると考えることができる。

社会の全員が福祉を受ける側に回ることは原理的に不可能で、福祉のもとになる余剰は有限なので、社会福祉も、いかにその優先権を得るかという奪い合いになり、それは「競争」という性質を持つ。

今の労働者は、少なくない額の社会保障費を支払っているが、だからといって今の社会福祉は、いざというときに助けてくれるようなものではなく、実質的に、「競争に勝たなければ手に入らない権利」になっている。

今回はこのような、「弱さを競う競争」の問題について論じていこうと思う。

ただ、社会福祉のような「弱さ」に配慮する性質のものを疑おうとすると、それをすること自体が、「人でなし」だと思われてしまうような風潮もあるだろう。

今回は、そのような、「正しさ」を疑うのが難しい今の社会で、いかにして「正しさ」を疑うか? というのも副次的なテーマとしてある。


弱さを競う競争(マイナスの競争)

まず最初に、社会福祉が、万人に平等に与えられるという体になってはいるのものの、実質的に「競争」が起こっていることを指摘したい。

当然ながら、人それぞれ、抱えている弱者性の程度は異なるので、「平等」を実現するためには、形式的に全員に同じ待遇を与えるのではなく、個別の弱者性を認めて、それに対して支援する必要がある。

しかしそれゆえに、支援をめぐって、「いかに弱いか?」という弱者としての優先度を競う競争が起こることを避けられない。

社会福祉のもとになる余剰や、支援に使われる労働力、人間が何らかを認知・理解・配慮できるリソースは有限であり、「弱者を尊重しよう」とする試みは、限られたリソースを奪い合う性質のものに、どうしてもなってしまう。

ここでは、例えば

  • 弱者性を認められた者に金銭的な支援が与えられる「社会保障制度」

  • 制度的な優遇を行おうとする「ポジティブアクション(アファーマティブアクション)」

  • 社会保障・ポジティブアクションが発生する前段階としての、弱者性に対する認知・理解・配慮のような「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」

などをめぐって、「弱さを競う競争」が行われていると考える。

そして、ここでは、「弱さを競う競争」を、ビジネスやメリトクラシーのような競争と区別して、「マイナスの競争」と呼ぶことにする。

それに対して、ビジネスやメリトクラシーのような「強さを競う競争」は、「プラスの競争」と呼ぶことにする。

何らかのルールのもとで勝敗を争うのが「プラスの競争」であるとするなら、「プラスの競争」において、より勝ちにくい性質を持つことを認められようとするのが「マイナスの競争」になる。

「プラスの競争」には、学力テストやスポーツのようなメリトクラシーや、ビジネスなどが当てはまり、「マイナスの競争」には、社会保障、ポジティブアクション、政治的正しさなどが当てはまる。

このように考えるとした上で、ここでは、「プラスの競争」と「マイナスの競争」が、互いに補完し合うものではないということを指摘したい。


「プラスの競争」と「マイナスの競争」が対立すると思われているが……

一般に、「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、補完し合っていて、両方をうまく機能させることで、社会がより良くなっていくと思われることが多い。

例えば、市場競争という「プラスの競争」のために多くの人が努力して、それによって生じる市場の失敗に対して、政府による再分配である「マイナスの競争」が行われることで、両者が補い合って社会が良くなっていく……といったような考え方は、現在の政治経済において多くの人が何となく前提としているものだろう。

つまり、「プラスの競争」によって余剰が生産され、そこで発生した問題に対処するのが「マイナスの競争」である、といったような考え方だ。

しかし、ここでは、そのような考え方を否定したい。

実際はどうなのかというと、「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、どちらも「分配の優先権を争う競争」であって、分配するもとの余剰を作り出すのは、「競争を否定する作用(協力を促す作用)」になる。

ここでは、「プラスの競争」と「マイナスの競争」が対立しているのではなく、「競争(プラスの競争とマイナスの競争)」と「協力(競争を否定する作用)」が対立していると考える。

そして、「競争」は分配の優先権を争うものであり、「協力」が分配するもとになる余剰を生産すると考える。

ただ、念のために言うと、「プラスの競争」と「マイナスの競争」が、「分配するもとの余剰を作り出さず、分配の優先権を争う」性質のものだからといって、それが悪いというわけではない。むしろ競争は、非常に重要な役割を果たしている。

「競争」は、「個人の自由や権利・各々の抱える弱者性の尊重」といった点において、重視されるべきものなのだ。

ビジネスやメリトクラシーのような「プラスの競争」に参加できない社会は、個人の自由が制限された非常に危険な社会であり、「マイナスの競争」が行われない(弱者性が認められない)社会は、病気をした人や障害を抱えている人に補助が与えられない社会である。

当然ながら、「競争」が否定されるような社会は、望ましいものとは言えない。

この記事の意図は「競争」を否定することではないのだが、しかし、「競争」は、「それが行われれば行われるほど社会が良くなっていく」というものでもないのだ。

そして、「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、それ自体が非常に重要なものであるからこそ、それを疑うのが難しくなっている、という問題がある。

このような、「競争が重要であるからこそ疑えない」という問題に対して、ここでは、「競争」と「協力」が対立しているという見方を提示しているのだ。

ここでは、「競争」と「協力」が対立していると考えた上で、「競争」が「正しさ」を担保していて、「協力」が「豊かさ」を生産していると考える。

「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、どちらも「競争」の側になる。そして、それと対立する「協力」は、伝統的な価値観、社会の規範、ナショナリズムなどのような、個人が競争に参加することを否定して、集団のために貢献させようとする作用であると考える。


「競争」か「協力」か

「競争」と「協力」が対立することに関しては、「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」や「経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について」といった過去のnoteの記事で説明しているので、よければ参考にしてほしい。

まず、個人に与えられているリソースは有限だ。

その、限られたリソースを、「自分が競争に勝つため」に使うことが許される社会は、「正しいが、豊かにならない」と考え、「集団に協力するため」に使うことを強制されるような社会は、「豊かになるが、正しくない」と考える。

例えば、極端に言えば、有利なポジションやキャリアを争うような「プラスの競争」に使われるリソースや、弱者性を主張し合って議論を重ねるような「マイナスの競争」に使われるリソースが、全部、住環境やインフラや食糧生産のような「集団のための仕事」に注ぎ込まれれば、今もよりも生活は楽になりやすく、出生率なども向上して社会が長期的に繁栄しやすくなるだろう。

しかし、そのような、「競争」が否定されて「協力」が重視されるような社会は、「個人を集団に奉仕させる権力や暴力が強く機能している社会」「個人の多様性や弱者性が考慮されない同質性の高すぎる社会」である。

そのため、ここでは、「協力」が重視される状態を、「豊かになるが、正しくない」と考える。

一方で、「競争」が重視される社会は、ビジネスやメリトクラシーのような「プラスの競争」に参加する自由があり、「マイナスの競争」という形で各々の弱者性に配慮がなされる社会、ということになる。

しかし、そのような社会は、他人よりも相対的な優位を得ようとする「競争」のために多くのリソースが使われ、集団のための仕事が蔑ろにされやすくなる。

そのような、「競争」が重視される状態を、「正しいが、豊かにならない」と考える。

ここでは、「競争」が「正しさ」を重視し、「協力」が「豊かさ」を重視する、という見方を提示している。


個人の主観に反して、「競争」によって「豊かさ」が失われていく

これは、「現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由」や「競争を疑うのが難しい理由」という記事で解説したことだが、「個人」の主観では、「競争をすることで社会が豊かになる」という勘違いをしてしまいやすい。

実際には、「協力」が「豊かさ」で「競争」が「正しさ」だが、個人の視点では、「競争」が「豊かさ」に繋がると感じやすいのだ。

「プラスの競争」において、自分が競争に勝つための努力をしていて、同じように頑張っている人たちが周りにいれば、全体が良くなっていくように思えるかもしれない。ただ、そのような個人の主観に反して、社会全体では、競争が過剰になることで、必要な仕事にリソースが割かれなくなり、むしろ「豊かさ」が失われていく。

実際に、今の日本のような社会は、過去と比べて多くの人が、受験やスキルアップや美容など、自己を高めるための努力をするようになっているが、マクロで見れば少子化が進んで社会全体が弱体化している。

そして、「プラスの競争」と同じように「マイナスの競争」も、個人の主観としては、それによって社会全体が良くなっていくように思いやすいが、実際には、その競争が進むほど、むしろ余剰が失われて貧しくなっていく。

例えば、メディアやSNSなどで、「こういう弱者性があるので、みなさん配慮してください」とか、「実は、こういうふうにして困っている人がいます」といったような、何らかの弱者性に対する主張や問題提起がされているのを見たことがある人は多いだろう。

このようなものは、それを勉強したり共有したりしている人たちの主観では、何らかの理解が深まって、社会全体が向上しているように思えるかもしれない。

しかしこれは、結局のところ、「認知・理解・配慮」などの有限のリソースを奪い合っていて、「弱者性をアピールするのがうまい人が相対的な優位を得る」という構造のなかで競争しているにすぎない。

そして、そのようにして弱者性をアピールし合ったり、議論を重ねたり、弱者を救済するための制度を新しく作ったりするリソースは、分配するもとの余剰を増やすわけではないので、「マイナスの競争」が行われるほど、分配の正当性が高まる一方で、全員が競争によって苦しくなっていく。

「プラスの競争」にしても「マイナスの競争」にしても、それが過剰になるほど、分配するもとの余剰が増えずに、その分配の正当性をめぐる競争が激しくなるので、「競争」するほど苦しい社会になってしまう。これが、ここで言う「競争」の特徴だ。

なお、何らかの支援は、雑に行ったほうが、個々人としては不満が出るかもしれないが、全体としては全員が楽になりやすくなる。

例えば、まったく区別をつけずに全員に同額を配る「べーシックインカム」は、そのような「雑だけれど楽」な支援に当たる。

「競争」ではなく「協力」を重視しようとする政府支出の仕方が「べーシックインカム」であり、これは「マイナスの競争」と対立するものになる。

(べーシックインカムについては、また別の機会に詳しく説明するつもりだ。)


「競争(正しさ)」を疑うための方法

「マイナスの競争」が過剰になると、長期的な社会の余剰が失われていく。

なぜなら、集団全体を強くするためには、弱者ではなく、中間層に厚くリソースを振る必要があるからだ。

例えば、長期的な集団の強さや社会の存続において重要なのは出生(人口)だが、「これから子供を産めるかもしれない層(出生数を増やしうる層)」は、「マイナスの競争」の勝者にはなりにくい

「支援が与えられればこれからもっと子供を生むかもしれない層」は、相対的にはむしろ強者側であり、「マイナスの競争」におけるプライオリティは高くならない。

そのため、弱者性が重視される社会になる(「マイナスの競争」が激しくなる)ほど、「子供を産めるかもしれないほど恵まれているやつらよりも、もっと困っている弱者がいるだろ!」といった批判の声が強くなり、出生支援などが難しくなる。

このような形で、「マイナスの競争」は、長期的に集団を強くしうる余地を切り崩していく。

社会保障は「正しさ」において重要なものだが、現状の社会保障を維持すること(現時点における弱者を優遇すること)は、長期的な弱者支援を可能にする、社会全体の余剰を切り崩していく性質を持つ。

このような事情を、ここでは、「正しさ」を重視することで「豊かさ」が切り崩されていく、と考える。

現状の社会において、多少なりとも社会保障を否定することは、目の前の困っている弱者を切り捨てようとすることを意味し、まさに「正しさ」に反する。

実際に、今の日本において、社会保障費を削減しようとする主張をする政治家が議席を得ることは、かなり難しいだろう。

「正しさ」が「正しさ」であるゆえに疑いにくいという問題に対して、ここでは、「正しさと豊かさの対立」という図式を提示することによって、その問題を扱おうとしている。

そうやって「正しさ」を相対化しないと、「正しさ」を疑うことが難しいからだ。

以上のような経緯により、ここでは、「競争」という「正しさ」の作用と、「協力」という「豊かさ」の作用が対立していて、それが、ある種、互いに補い合う関係にあるとみなしている。

「正しさ」は、「個人の自由や権利を尊重するという点において正しいが、社会の余剰を切り崩すことで成り立つもの」、「豊かさ」は、「個人の自由や権利を否定するという点において正しくないが、社会が存続する前提となる余剰を作り出していくもの」、と考える。

  • 「豊かさ」は、「正しさ」に反するが、「正しさ」が成立する前提を作る

  • 「正しさ」は、「正しい」が、「豊かさ」が作り出した余剰を切り崩すことで成立する

このように考えることで、「正しさ(競争)」を疑おうとするのだ。

ここで提示した、「競争(正しさ)」と「協力(豊かさ)」が対立するという図式の上で、「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、どちらも「競争」の側になる。

そして、よくある、「市場競争の問題を政治による再分配で解決する」といった考え方は、「プラスの競争」の問題を「マイナスの競争」で解決する、と考えるようなものであり、「競争(正しさ)」のほうだけがひたすら強まっていくことになってしまう。

このような形で、現代の先進国において、「競争(正しさ)」が強くなり続けているのだ。

以降では、どのようにして、一見して対立しているように見える「プラスの競争」と「マイナスの競争」が、実は結託しているのかを説明していきたいと思う。


「プラスの競争」と「マイナスの競争」の結託

ここで提示してきた図式では、「競争」は「差を作り出す作用」で、「協力」は「差を否定する作用」だ。

このような図式において、競争の否定は、「そもそも競争に参加させない・差が生じることそのものを否定する」という形になり、つまり「個人の自由や権利」や「個性」の否定を意味する。それゆえに、ここでは「協力」を、「豊かになるが、正しくない」ものとしている。

それは逆に言えば、個人の自由と権利のような「正しさ」を重視する(差を尊重する)ならば、「競争」の否定にはならないということだ。

そして、「マイナスの競争」による、「正しさ」にフォーカスした「プラスの競争」への批判は、「競争」そのものへの批判はならず、むしろ「競争」を強めようとする作用になる。

「マイナスの競争」は、ビジネスやメリトクラシーを疑うことが多いので、「プラスの競争」と対立しているように見えるかもしれないが、「正しさ」を重視しながら「競争」を疑問視しても、それは実質的には「競争」の否定にはならず、むしろ「競争」の肯定になる。

「マイナスの競争」が行う「プラスの競争」への批判は、「それは本当に公平な競争なのか?」という問いかけになり、それは、一見「競争」と対立するように見えて、実は、むしろ「競争」を補強する。

なぜなら、まず、競争によって差が発生すること(競争に参加できる自由や権利)を重視しながら、競争の下位を問題視するのは、マッチポンプのようなものだからだ。

それが競争であるならば、必ず相対的な差が発生し、上位や下位が生まれる。

競争が機能している以上は、「競争の下位」が生まれるのは必然で、この「競争の下位」が存在することを問題視しても、それは原理的に解決不可能と言える。

本当に「競争」を否定したいならば、そもそも「差」が生じることそのものを否定しなければならない。

「マイナスの競争」は、「プラスの競争」における「競争の下位」を問題視し、「もっと公平なルールを!」と呼びかける。これは、「プラスの競争」を否定する作用にはならず、むしろその「競争」の社会的影響力をより強めようとするものになる。

ビジネスやメリトクラシーのような「プラスの競争」は、もともと「公平なルール」を重視しようとする性質のものであり、「マイナスの競争」を受け入れながら、影響力をさらに強めていく。

また、「マイナスの競争」は、「プラスの競争」を否定せず、競争を下に拡張するものと考えることができる。

簡略化したイメージだが、以下のような図式で考えてもらいたい。

「競争」が重視される社会になると、「プラスの競争」と「マイナスの競争」の勝者という両極端が、多くの分配を得られるようになる。一方で、余剰の生産は、そのどちらの勝者でもない、中間層が担うことが多い。

このような図式において、高学歴・高待遇・高年収などの「プラスの競争」の勝者と、社会保障の受給者・弱者性を認められる属性(ポリコレ強者)のような「マイナスの競争」の勝者は、どちらも、「相対的な競争に勝利して、分配の優先権を得た側」であり、互いに親和的になる。

実際に、現代は、エリートであるほど、社会福祉にも肯定的である場合が多く、福祉やポリコレの恩恵を得ている人ほど、メリトクラシーにも肯定的である場合が多いだろう。

一方、どちらの側の競争の勝者にもなれない「中間」にいる者ほど、「偉い人はわかってない」「福祉を受給するのは恥」といったような考えを持ちやすくなるだろう。

もっとも、両者の「競争」の作用が、「中間」にいると不利になるような状況を作り上げていくので、「競争」が影響力を強めるほど、より多くの人が、どちらかの「競争」の勝者を目指そうとするようになり、それによって、世の中の同質的な部分や、中間共同体などが解体されていく。

このようにして「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、結託し合って、互いに「競争」を強め、「協力」を解体していこうとする関係にある。

「マイナスの競争」が重視する「公平さ」はむしろ、「プラスの競争」を、より影響力の強いものへと補強していく働きになる。

また、「プラスの競争」も、「マイナスの競争」に影響を与え、それを強めようとする。例えば、何が「弱者性」にあたるのかを決める権限や影響力は、メリトクラシーの上位にあたる、医者、学者、セレブ、インフルエンサーなどが有していることが多い。

「プラスの競争」が「マイナスの競争」を強め、「マイナスの競争」が「プラスの競争」を強めるという形で、両者は結託して、「協力」が当たり前だった伝統的な社会に「競争」を浸透させていく。

なお、ひとりの個人が、「プラスの競争の勝者としての特徴」と「マイナスの競争の勝者としての特徴」の両方を備えている場合もある。

その場合、プラスとマイナスの競争が合算されて、上下の絶対値がその人の評価になるようなことが起こり、例えば、「高い学歴や経歴を得た」上で、「不利な出自や人種や性別」であると、より「競争」において評価が高くなる。

現代の競争(メリトクラシー・政治的正しさ)における最大の勝者は、高い経歴と不利な事情の両方を備えた者ということになる。

そのため、今はエリートやセレブたちも、「いかに自分が弱者性を抱えているか」や「いかに自分が不利な立場だったか」を主張するようになっているのだ。


結託して「伝統的な信頼関係(協力)」を解体していく

「プラスの競争」と「マイナスの競争」が結託するのは、「協力し合う集団を解体する」という共通の目的を持っているからでもある。

例えば、「プラスの競争」である「ビジネス」と、「マイナスの競争」である「政治的正しさ」は、どちらも、「集団」を解体しようとする動機を持っている。そして、「幸せな家族」とか「豊かな地域社会」のようなものが解体される対象になる。

「ビジネス」が集団を解体しようとするのは、そのほうが儲かるからだ。貨幣を介さない信頼関係で結びついている「家族」や「地域」が解体されて、各々がバラバラの個人になっていくほど、消費量が増えやすくなる。

そして「政治的正しさ」は、そのような「ビジネス」と手を結んで、「家族が当たり前なんておかしい」「田舎から離れて自由に暮らしてもいい」「もっと自分の個性を大事にして」といったようなメッセージを広めようとする。

このような形で結託して、「旧来の社会において機能してきた信頼関係(協力)」を解体していこうとするのが、「競争(正しさ)」という目的において結託した、「プラスの競争」と「マイナスの競争」なのだ。

以上のことを説明するために、ここでは、「競争(正しさ)」と「協力(豊かさ)」が対立するという見方を提示してきた。

今回のテーマである「弱さを競う競争(マイナスの競争)」については、他にも様々な論点があるので、これからも関連する記事を出していきたいと思っている。

なお、「正しさ」と「豊かさ」が対立する、見方については、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを公開していて、そこにより詳しく書いている。かなりの長文になるが、ちゃんとした説明が欲しい方は、サイトのほうを見てみてほしい。(全文無料で読めます。)


まとめ

  • 社会保障やポジティブアクションなどの「弱者への支援」をめぐって、実質的に、「弱さを競う競争」が起こっている。

  • ここでは、メリトクラシーやビジネスを「プラスの競争」として、社会保障、ポジティブアクション、政治的正しさを、「マイナスの競争」としている。

  • 一般的に、「プラスの競争」と「マイナスの競争」は、対立しながら補完し合うものと思われやすい。それに対してこの記事では、「競争」と「協力」が対立し、「プラス・マイナスの競争」はどちらも「競争」の側、という見方を提示している。

  • 「競争」には、「分配するもとの余剰を生産せずに、分配の優先権を争う」という性質があり、「競争」が激化するほど、分配の正当性は高まるが、生活が苦しくなっていく。

  • ここでは、「競争」を「正しいが、豊かにならない」、「協力」を「豊かになるが、正しくない」ものと考える。しかし、個人の主観では、「競争することで豊かになる」という勘違いをしてしまいやすい。

  • 「プラスの競争」において、自分が競争に勝つために努力をすると、それによって全体全体が良くなっていくと思いやすい。しかし実際は、社会に必要な仕事のために使えたリソースが空費され、マクロでは貧しくなっていく。

  • 同様に、「マイナスの競争」において、メディアやSNSなどで弱者性に対する理解が進むと、それによって社会全体が良くなっていくと思いやすい。しかし実際は、認知・理解・配慮のような有限のリソースを奪い合う競争になり、マクロでは、競争によって全員が苦しくなっていく。

  • 「競争」は、「正しい」ゆえに疑いにくいが、ここでは、「競争(正しさ)」と「協力(豊かさ)」が対立するというモデルによって「競争」を相対化し、それを疑おうとしている。

  • 「協力(豊かさ)」は、「正しさ」に反するが、「正しさ」が成立する前提を生み出し、「競争(正しさ)」は、「正しい」が、「豊かさ」が作り出した余剰を切り崩すことで成立している。

  • 「競争」の否定は、「そもそも差を作らせない」という形になる。個人の弱者性や個性(差を生じさせること)を重視する「マイナスの競争」は、一見して「プラスの競争」を否定しているように見えて、実際には「競争」を強めようとする。

  • 「競争」が重視されると、「プラスの競争」と「マイナスの競争」という両極端が分配の優先権を得るようになる。そうなると、「中間」にいるほど不利になり、どちらかの競争の勝者を目指す者が増えていく。このようにして、「プラス・マイナスの競争」は、結託して「中間(協力し合う集団)」を解体していこうとする。


今回は以上になります。

このnoteと似たような内容のyoutubeもやっているので、動画で見たい方はyoutubeで見てください。


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