ルールを改善していけば社会が良くなるわけではない理由
今回は、「ルールを良くしていけば社会が良くなる」という社会通念を疑う内容の話をしたいと思う。
今の社会では、何らかの問題が起こったとき、基本的には「法律」のようなルールに準拠して問題への対処がされる。
もちろんルール(法律)は完璧ではないので、それが社会のより多くの人にとって納得できる公平なものであることを目指して、日夜議論が重ねられている。
「そうやってルールを改善していくことで、社会がだんだん良くなっていく」という考えを何となく持っている人が多いと思うが、実はそのような、「ルールを改善していけば社会が良くなる」といった考え方こそに問題があることについて、この記事で説明していきたい。
「ルール」と「非ルール」
「ルール」という言葉は非常に幅広いニュアンスを持つので、まずは説明のために、この記事における「ルール」という言葉を定義したいと思う。
ここでは、客観化・明文化を重視し、より多くの人に適用されより多くの人が納得するものであることを目指す作用を、「ルール」と置くことにする。
それに対して、客観化・明文化されず、特定の人にしか適用されないものを「非ルール」と置いて、「非ルール」と「ルール」とを対比する。
ここで言う「非ルール」にあたるのは、例えば「思いやり、愛情、友情、規範、常識、文化、伝統」などであり、一方で、「ルール」に当たるのは、具体的には「法律、貨幣」だ。
「愛情」や「規範」などといったものも、そこに何らかのルールがないわけではないのだが、それらは性質上、誰にでも同じように適用されるものではない。
自分の家族や友人だけに向ける感情と、国民全員に適用される法律は、性質として異なるものなので、ここでは、特定の人にしか適用されないローカルなルールのことを「非ルール」と置いて、全員に適用されることを目指すグローバルなルールのことを「ルール」と置く。
あくまでここでは、こういう言葉の使い方をするということだ。
そして、「非ルール」と「ルール」は程度問題であり、グラデーションがあると考える。
適用範囲が狭まるほど「非ルール」の側に寄っていき、適用範囲が広がるほど「ルール」の側に寄っていくことになる。
同じ「非ルール」側のものでも、例えば、「思いやり」と「常識」とでは、「常識」のほうが適用範囲が広いので、「ルール」の側に寄っていることになる。
ただ「常識」というのも、それが機能するローカルな場を超えても通用するものではないので、「非ルール」の側になる。
一方で、何らかの常識や文化なども、それを、特定のローカルを共有していない人でも理解できるように客観化・明文化していくほど、「ルール」のほうに寄っていくと考える。
このような図式で考えた場合、「思いやりが評価されるルールを作ればいい」ということにはならなくなる。
ここで言う「ルール」は、その性質上、「思いやり」のような、誰かを特別視する不公平なものと相反するものだからだ。
「思いやりが評価されるルール」というのは、いわば「思いやり」のことであり、単に「ルール」よりも適用範囲の狭い「非ルール」であるにすぎない。
家族や友人に抱くような「特定の人に対してだけ適用される感情」と、法律のような「全員に同じように適用されるルール」とは、原理的に相反関係があるということだ。
このような図式を示した上で指摘したいのは、今の社会における「ルールの改善」は、議論や検討を重ねてより多くの人が納得できる公平なルールであることを目指す方向に、つまりここで言う「ルール」の側に向かって行きやすいことだ。
そして、そうやって「ルール」の適用範囲を広げていくほど、愛情や友情のような「非ルール」が否定されてしまう構造がある。
この、「ルール」が重視されるゆえに「非ルール」が否定されていくという問題について論じるために、以降では、「思いやり」などのような「非ルール」と、公平であることを目指す「ルール」とが、それぞれ、どのような場合にどうやって機能するのかを説明していきたい。
「ルール」と「非ルール」、それぞれのメリット・デメリット
まず、例として、何らかのシェアハウスなどで共同生活をするような場合を考える。
当然だが、共同生活をする上で「思いやり」のようなものは必要不可欠だ。
しかし、「思いやり」だけでやっていくと、不公平感や不満が溜まって、共同生活が破綻しやすくなる。
例えば、「家事は気づいた人が進んでやる」といったような考え方は、共同生活において「思いやり(非ルール)」を重視するやり方だが、「思いやり」のような「非ルール」に多くを頼りすぎると、長く生活をしていく上で、不公平感や不満が溜まっていきやすい。
よく気がつく人ほどたくさん家事をすることになるし、人によって感覚が違うので、「なんでこんなに気が利かないのか」とか「なんでこんなに細かいことにこだわるんだ」などという形で、関係が破綻しやすくなっていく。
そこで、「ルール」を作ることにより、不公平感・不満を少なくして、長期的な関係を維持しやすくすることができると考える。
その場合は、例えば、掃除やゴミ捨てや洗濯などの生活上のことを、全員で話し合って「ルール」を作ることになるだろう。
ただ、ここでは「ルールを作ることが大事」と言いたいわけではなく、こうやって「ルール」を作ることにも一長一短があると考える。
「ルール」のためには、「これまでは曖昧にやっていたようなタスクを客観化・明文化する」必要と、その上で「各々が納得するまで議論をして、現実的な着地点を見出す」必要がある。
つまり、「ルール」作りには、タスクの可視化や議論などのコストがかかるということだ。
「ルール」を作ることにはコストがかかるが、それによって各々が納得できて関係を維持しやすくなるのならば、「ルール」という選択肢も悪くはないだろう。
ここで、「思いやり」と「ルール」とを比較するために、何らかのイレギュラーが起こった場合を考える。
例えば、誰かが怪我をしたり病気になったりして、ルールに定めた家事などのタスクをこなせなくなったとする。
「そのときにどうするか?」を、「思いやり」によって対処するか「ルール」によって対処するか、の二択で考えることにする。
「思いやり(非ルール)」による対処は、「困ったときはお互い様」といった感じで、特に「ルール」には準拠せずに、手が空いている人が代わりにタスクをやってあげることになる。
「ルール」による対処は、みんなで話し合って、「交代してもらったぶんの仕事をあとに回す」とか「家賃を多めに支払う」などのような、誰かが体調不良になった場合の対処法をルールに追加して、それによって対処することになる。
「思いやり」で対処する場合、代わりに仕事をやることになった人からすれば不公平だが、その場で迅速に問題を解決することができるので、余計なコストがかからない。
「ルール」で対処する場合、話し合うコストなどがかかるが、公平さという点においては、各々が納得しやすい形を探ることになる。
この場合、「思いやり(非ルール)」のメリットは「コストがかからないこと」、デメリットは「不公平であること」、一方、「ルール」のメリットは「公平であること」、デメリットは「コストがかかること」、となる。
そもそも、「思いやり」のようなものを問題解決の手段と見なしてメリット・デメリットを検討するという視点がサイコパス的ではあるのだが、ここでは「ルール」と比較する上で、このような図式で考えることにしている。
このような図式において指摘したいのは、「思いやり」や「規範」のような「非ルール」を重視する問題解決は、「手っ取り早くて楽」というメリットがあるということだ。
共同生活で誰かが体調不良になったなどの場合は、普通は「思いやり」などの「非ルール」によって対処することになるだろう。
親しみのある者同士で暮らしている小さな集団内で発生したイレギュラーは、基本的には「非ルール」による解決が適している。「不公平」というデメリットよりも、「タスクの可視化や議論などのコストがかからない」というメリットのほうが、明らかに大きくなるからだ。
「短期的かつ小規模」なら「非ルール」、「長期的かつ大規模」なら「ルール」
シェアハウス程度であれば、基本的には「思いやり」で、あとは「すごくざっくりしたルール」くらいで、問題なくやっていけることが多いだろう。
だが、集団の規模が大きくなるほど、事情が変わってくる。メンバーが増えるほど、「公平」のための「ルール」の重要性が高まっていくのだ。
次は、シェアハウスよりも集団の規模を大きくして、会社だったらどうだろうかを考える。
会社のような大きな集団になるほど、誰かが体調不良になったというような問題も、「非ルール」ではなく「ルール」によって対処したほうがいい場合が多くなる。
もちろん会社であっても、何らかのイレギュラーな問題に対して、いちいち「ルール」を参照せずに、「思いやり」や「規範」や「現場の(ローカルな)判断」のような「非ルール」で解決することは当然のようにある。そのほうが手っ取り早くて楽だからだ。
一方、「ルール」の利点は、いちどそれを作れば、あとで似たような問題が起こったときにそれに準拠して問題に対処しやすいことにある。
会社において、突然誰かが体調不良になるといった問題は一度きりのことではないだろうから、それに対処するためのルールを作っておくことは悪い選択ではないだろう。
つまり、「不公平だけど楽」な「非ルール」と、「コストがかかるけれど公平」な「ルール」との対比において、
単発の問題、初見の問題、イレギュラーな問題で、集団の人数が少ないなら、「非ルール」で対処するのが適している場合が多くなる。
何度もありそうな問題、ルーティンワークで、集団の人数が多いなら、「ルール」で対処するのが適している場合が多くなる。
と言える。
単発のちょっとした問題の場合は、「ルール」に準拠するという面倒くさいことをせずに、その場にいる人たちで対処してしまったほうが、当人たちにとっても楽である場合が多いだろう。
しかし、それが長期的に何度もある問題ならば、場当たり的に対処を任せられる人たちの不満が蓄積していきやすく、「ルール」が望まれるようになりやすい。
また、「思いやり」や「規範」のような「非ルール」は、近しい人たちや仲間同士(適用範囲が狭い状態)であるほど機能しやすいが、その集団の規模が大きくなると機能しにくくなっていく。
つまり、問題が「短期的かつ小規模」な場合は、「不公平だけど楽」という「非ルール」のメリットが上回り、問題が「長期的かつ大規模」な場合は、「コストがかかるけど公平」という「ルール」のメリットが上回るということだ。
「ルール」による問題の対処は効率的か?
「短期的かつ小規模」な場合に向いているのが「非ルール」、「長期的かつ大規模」な場合に向いているのが「ルール」である、という対比を示した上で、「非ルール」が向いているものの顕著な例が「育児」であると言える。
シェアハウスのような共同生活や、夫婦でも子供がいない場合なら、「ルール」をしっかり作ってやっていくということも不可能ではないだろう。家事というのはルーティンワークが多いので、分担もしやすいからだ。
しかし、「育児」は、「ルール」とは特に相性が悪い。
育児の場合、子供がだんだん成長していくので、初見の問題が次々にやってくるし、イレギュラーも非常に起こりやすい。
また、そもそもの乳幼児や児童は「ルール」の外側にいる存在であり、彼らは一方的に「思いやり」を受ける必要がある。
そのため、子供のいる家庭というのは、「思いやり」や「愛情」のような「非ルール」が特に重視される場になる。
育児のような問題に対して、「ルールを作って対処しよう」というのは不適切なのだ。
一方、「非ルール」が重視される育児とは対極に、集団の範囲をずっと大きくして、「社会全体(市場経済)」や「国家」となると、「ルール」が特に重視されることになる。
集団の構成員が増えるほど、貨幣や法律のような「ルール」がなければ、集団を維持することができなくなる。
つまり、家族のような「短期的かつ小規模」な場合は「非ルール」で、国家のような「長期的かつ大規模」な場合は「ルール」が適しているということだ。
このような対比を示した上で問題視したいのは、多くの人が「ルールを作るのが効率的」といった考え方をしがちなことだ。
たしかに「ルール」は、大規模な協力関係を可能にするので、その点においては、効率的な社会の運営を可能にしていると言える。
しかし、ここまで説明してきたように、「ルール」を作って解決すること自体は、むしろコストが増えやすい非効率的な手段になる。
特に、目の前の問題に対処しようとするときは、ほとんどの場合は、「非ルール」のほうがずっと効率的だ。
念のために言うと、繰り返しになるが、ここで言う「ルール」というのは、全員が納得する客観的・普遍的なルールであることを目指そうとする作用のことだ。
世の中には様々な価値観の人がいるので、全員が納得する「ルール」を目指すと、そのぶんだけコストが増えていく。もちろん、「ルール」がなければ社会が維持できないのだが、その「ルール」を、万人にとって納得できるものに改善していくことは、その公平さのために多くのリソースを投入しなければならない試みなのだ。
なお、例えば「独裁」というのは非常に効率的だが、独裁のように人々を恣意的なルールに強制的に従わせることは、ここで言う「非ルール」の側になる。
自分が納得できるルールだけに着目すれば、「ルール」によって物事が円滑に進んでいるように見えるが、「ルールによって対処する」というのは、そのルールのための議論や諸手続きのコストを考えるなら、実は非効率的な手段なのだ。
「ルール」が非効率であることは、例えば、何らかのトラブルがあったときに、厳密に法律に準拠して問題に対処すること、つまり裁判(訴訟)を起こしたときにかかるコストを考えるとわかりやすい。
裁判をすると、非常に多くの金と時間と労力がかかる。
そのため、世の中の揉め事の大半は、厳密な「ルール」ではなく、もっと「非ルール」に寄った形の、常識や文化やローカルな権力などによって対処されている。
もちろん最終的には「法律」という「ルール」が背景にあるのだが、厳密に「ルール」で対処するとコストがかかり過ぎるので、「非ルール」的なやり方でトラブルが解決される場合が大半なのだ。
これは、言い方を変えると、「非ルール」を強めることは、不公平で理不尽なものになるというリスクがある一方で、あまりコストのかからない、柔軟で効率の良い問題解決の手段になりうるということだ。
日本型雇用は「非ルール」を強めるやり方
例えば、日本企業の雇用の仕方は、よく「日本型雇用」などと呼ばれるが、「ルール」よりも「非ルール」を重視するような働かせ方が「日本型雇用」だと考えることができる。
日本型雇用は、「この仕事のために雇われる」といった職域が明確に定まっているわけではなく、「汎用的な社員」のような職務内容が曖昧な形で契約されていて、ジョブを重視して契約する欧米の企業の働き方とは違いがあると言われている。
日本型雇用は、年功序列で横並びに出世していくイメージから、硬直的な仕組みであると思われることが多いが、実は柔軟な部分がある。
多くの仕事は、明確に職務が定まったルーティンワークばかりではなく、イレギュラーが発生することはよくある。
また、変化が激しい世の中なので、ずっと安定的に仕事があって安定した業績を上げ続けられる企業のほうがむしろ少ないし、社会情勢や産業構造が変化することも当然ある。
そんなかで、欧米のように「この職務内容でこの給料」みたいに契約を厳密に結んでいる場合、それと違う働かせ方をしようとしたら「契約と違うよね」となって、最初から交渉しなおすとか、一度解雇してから雇い直すとかしなければならないので、けっこう面倒なことが多い。
一方で、日本型雇用の場合、曖昧な感じの社員として雇っているので、「今ここの人手が足りないからここに行ってくれ」といったような、柔軟な感じで人を動かすことができる。
配置転換などをやりやすい日本型雇用は、「面倒な契約のためのコストを支払わずに迅速に社員を動かせる」という点においては、効率的で変化に強い部分があるのだ。
また、「規範」や「仲間意識」のような「非ルール」が重視されることで、社員のモラルの高さ、ルールに規定されない細かいところへの配慮、現場での対応力などが強められやすい側面もある。
つまり、「短期的かつ小規模」な場合に適している「不公平だけど楽」な手段である「非ルール」を、それなりに大きな規模の集団にも適用しているのが日本型雇用というやり方で、それは柔軟性や対応力という強みに繋がっている。
もちろん、社員からすると不公平感や不満が溜まりやすいものなので、近代化が進むほど難しくなっているのだが、まったく不合理なやり方というわけでもなく、実際に、いまだに大企業が多くが日本型雇用の慣行を実質的に維持し続けている。
このように、組織戦略として考えても、「非ルール」には強みもある。
「非ルール」だから良い・悪いというわけではなく、一長一短であるということだ。
「ルール(ブレーキ)」の過剰が社会に必要な仕事を成り立たなくする
ここまで、「非ルール」と「ルール」は、どちらが良い・悪いではなく、それぞれメリットとデメリットがあるという話をしてきた。
「非ルール」と「ルール」との対比を述べた上で指摘したいのは、今の社会は全体的に、「ルール」の側に寄りすぎてしまっているということだ。
「ルール」に寄りすぎるとどうなるかというと、「ルール」のためのコストが膨れ上がって、社会に必要な仕事や余剰を生産する仕事の効率が悪くなり、どんどん苦しい社会になっていく。
公平な社会になっていく一方で、生活は苦しくなっていくのだ。
先ほど、子育てが「非ルール」でなければならないことを説明してきたが、それはつまり、我々の存在は、「愛」のような不公平なもの、「ルールに反するもの」に頼らなければ成り立たないということだ。
今の社会は、全員に適用されるような「客観的・普遍的なルール」を目指そうとする向きが強いが、そのような、「客観的・普遍的であること(万人に適用されること)」そのものが、我々の存在にとって不可欠である「ルールに反するもの(愛など)」を取りこぼす、という考え方をしている。
ゆえに、「ルールを良くしていけば社会が良くなる」わけではないのだ。
「非ルール」と「ルール」は両方とも重要なのだが、「ルール」が強まっていくと「非ルール」が否定されていくので、それゆえに「ルール」が過剰になっていることを問題視するべきだと考える。
当noteの過去の記事では、「アクセル」と「ブレーキ」という比喩を使って、実は「市場のルール(法律)」が、生産を抑制する「ブレーキ」として働いて、「伝統社会や家族の絆やナショナリズム」などが、生産を促進する「アクセル」として働くことを述べてきた。
これについて詳しくは、「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?」「なぜビジネスは悪質になるのか?」「なぜ大多数の国家で資本主義が採用されているのか?」などの記事を参考にしてほしい。
この記事では「非ルール」と「ルール」という言葉を使ってたが、過去記事の内容と接続すると、「非ルール」が「アクセル」に、「ルール」が「ブレーキ」に当たることになる。
「アクセル」のような原動力になるものが、気持ちや規範や集団の圧力のような「非ルール」であるとするなら、「ルール」は、「アクセル」の過剰を抑えるための「ブレーキ」の役割を果たしている、といったイメージだ。
過去記事では、「アクセル」と「ブレーキ」の比喩において、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏むことができる」という説明をしてきた。
それは、この記事の内容に照らして言えば、「ルール」という「ブレーキ」の作用があるからこそ、「非ルール」という「アクセル」の危険性を制御しながら、国家のような大規模な集団を維持することができていて、その点において「ルール」は生産に大きく寄与していることになる。
しかし、「ルール」そのものは「ブレーキ」なので、「ルール」の作用が過度に強まっていけば、やがて勢いが失われていく。
「ルール」が志向する「客観性・普遍性」が行き着く先は、我々の存在の前提条件である「愛情」などの「非ルール」が一切起こらないような状態で、それを比喩的には、「ブレーキ」を踏み続けて静止したような状態であると、ここでは考える。
このように、「ルール」の徹底は我々の存在そのものの否定を意味するのだが、現代は、「とにかくルールの客観性を高めていくことが重要」という発想に偏りがちであることを、ここでは問題視している。
「ルールを良くしていけば社会が良くなる」という考え方の問題は、現代において「ルールの改善」というのが、それがより大勢が納得できるような「客観的・普遍的なルール」に向かいやすいことだ。
何らかの問題に着目して、共有・議論・検討を重ねて、解決策を探る……といったような現代の問題解決のフォーマットは、基本的には「ルール」の側を強めることになりやすい。
しかし、例えば、「少子化が進む」とか「頑張って働いているのに生活が苦しい」といった現代の大きな問題は、むしろ「ルール」が過剰で、そのためのコストが膨れ上がっていることで起こっている。
だとしたら、これから必要なのは「非ルール」の側を強めようとすることになる。
「非ルール」の側を強める
では、「非ルール」を強めるというのはどういうことなのかというと、例えば、現在の弱者支援は、「ルール」に準拠して、様々な手続きをこなし、福祉に繋げることで支援が行われる、といったものだが、そういうやり方では救うことができない人がたくさんいる。
一方の、「非ルール」的なやり方は、昔ながらの助け合いのようなイメージで、何らかの生産活動をしている人たちが、多めに生産することで余った住居や食料などを、近くにいる困っている人に好意で提供する、といったようなものになる。
法や制度として明文化された「ルール」を介するのではなく、その場の気持ちや親切心によって困っている人を助けようとするのが「非ルール」だ。
こういうやり方は、まず、「公平さ」には欠ける。より困っている人ではなく、たまたま目についた人を場当たり的に助けようとすることは、優先順位がバラバラになるので、社会全体が納得するものにはなりにくい。
また、ローカルな助け合いは、そこに暴力的なものが発生しやすいことを否定できない。
それを行う人の素朴な感情として、嫌な人間だったら助けたくないなど、その人間が好きか嫌いかといった価値判断が介在しやすくなるし、「助けてやってるんだから何か手伝ってくれ」といった取引が発生するかもしれず、そこには危険な側面が多分にある。
このように、「非ルール」は、単純に望ましいものではなく、「手っ取り早くて楽」というメリットがあるが、「不公平」や「何らかの間違いや暴力が発生するリスク」などのデメリットもある。
この記事で繰り返し言っているように、「非ルール」も「ルール」も一長一短で、バランスが重要なのだが、現在は、「非ルール」は「正しくないもの」と頭から否定されて、「ルールの客観性・普遍性を高めていけばそれで問題が解決する」みたいな考え方がされやすい、というのが、ここで指摘したかった問題だ。
実際には、「ルール」は実は非効率的であり、また愛情や親切心のような「非ルール」を抑制していく作用なので、「ルール」が強まっていくほど、公平さが増す一方で全員が苦しくなっていく。
先に例を出した弱者支援の例は一例で、現在は、社会の至るところで「ルール」が過剰に適用されていると考えている。
本来であれば「非ルール」のメリットが明らかに上回る場面でも、「ルール」のほうが適用されているということだ。
「ルール」に厳密になるのではなく、素朴な良心や、規範や責任感などで対処することのメリットのほうが多い場面でも、「ルール」を参照せざるをえず、そのためのコストが膨らんで、生活が苦しい社会になっている。
そして、そのような現代における「ルール」の過剰適用の、最も典型的な例は、「何でも貨幣を介して取引をしようとすること」であると考える。
「貨幣」には、客観的・普遍的な性質があり、また、国家が管理する法定貨幣は、それに「法律」が付随している。つまり、「貨幣・法律」を介さなければならないという形で、我々は「ルール」の重視を強いられているということになる。
ゆえに、「ルール」を疑うためには、「貨幣」や「法律」を疑う必要があり、「日本円を使うメリットとデメリットを検討して、デメリットのほうが大きくなる場合があるのではないか」というのが、この「ルール」と「非ルール」との対比を論じてきた上で提示したい視点だ。
今回はすでに長くなってしまったので、「日本円を使うメリットとデメリット」の話については、また以降の記事で詳しく論じたいと考えている。
なお、この「非ルール」と「ルール」の対比や、貨幣を否定する試みについては、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトにはすでに詳しく書いているので、先に内容を知りたければ読んでみてほしい。
まとめ
ここでは、客観化・明文化され、より多くの人に適用されることを志向する性質のものを「ルール」と置き、特定の人にしか適用されないものを「非ルール」と置いた。
「思いやり、愛情、友情、規範、常識、文化、伝統」などが「非ルール」に当たり、「法律、貨幣」が「ルール」に当たる。
「思いやり」などの「非ルール」は、手っ取り早くて楽な問題解決の手段だが、不公平感や不満が溜まりやすく、「非ルール」に頼りすぎると、長期的には破綻しやすくなる。
「ルール」は、可視化、明文化、議論、手続きなどのコストがかかるが、公平感を重視し、長期的に多くの人が納得しやすい状態を維持することに繋がる。
ここでは、「非ルール」のメリットを「コストがかからないこと」、デメリットを「不公平であること」、「ルール」のメリットを「公平であること」、デメリットを「コストがかかること」、であると考える。
何らかの問題解決において、「短期的かつ小規模」な場合は「非ルール」が適していて、「長期的かつ大規模」な場合は「ルール」が適している。
「育児」は、初見の問題やイレギュラーが多く、対応力の高い「非ルール」が特に適したものと言える。
集団が大きくなるほど「ルール」の重要性が高まり、それなしには集団を維持できなくなる。
「ルールは効率的」と考えられがちだが、「裁判(訴訟)」によって問題を解決しようとすると非常に手間がかかるように、何らかの問題への対処において、実は「ルール」はコストがかかる手段である。
日本型雇用は、会社というそれなりに大きな集団でも「非ルール」を重視しようとするやり方であり、問題もあるが、強みもある。
我々の存在にとって「非ルール(ルールに反するもの)」は必要不可欠で、ゆえに「ルール(客観性・普遍性)」が強まりすぎると、社会が成り立たなくなっていく。それは具体的には、現状の少子化や生活苦である。
問題の共有・議論・検討などが重視される現代の問題解決のフォーマットは、「ルール」の側を強めやすいが、それゆえにコストが膨れ上がっていく。そのため、「ルールを改善していけば社会が良くなる」と考えるのは問題がある。
現代において必要なのはむしろ「非ルール」を強めることであり、そのためには、「貨幣」や「貨幣に付随する法律」を疑う必要がある。
この記事の内容は以上になります。
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