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現代にポリコレが流行る理由と、解決策としてのべーシックインカム

今回は、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」が今の社会で流行っている理由を説明し、そして最終的には、話をべーシックインカムに繋げるつもりだ。

今回は

  • ポリコレという「弱さ」が重視される風潮が、現代において強まっている理由は何か?

  • そのようにしてポリコレが重視されることの問題点は何か?

  • ポリコレの行き過ぎに対抗する手段がべーシックインカム?

をテーマにして、順番に説明していきたい。


集団の規模を大きくし続けてきたサピエンス

現代において、なぜ「弱さ」が重視される風潮が強まっているのかについて説明したいが、そのためにまずは、「強さ」が重視されていた状況のことを考える。

現代は「ポリティカル・コレクトネス」という形で、「弱さ」が重視される社会になっているとして、それ以前には「強さ」が重視されてきた。

そのような、「強さ」が重視される状況において、どういう集団が強かったのか?

結論から言うと、個人の「本能」を否定して「集団の規模を大きくしてきた集団」が、「強い」集団だった。

当noteの「競争を疑うのが難しい理由」などの記事では、我々サピエンスの強さの源泉が、「本能」ではなく、「本能の外部」にあることを説明してきた。

サピエンスは、「本能の外部」にある「社会制度」の影響を受けることによって、遺伝子を介さずに行動パターンを変化させることができるようになり、それが、サピエンスが急速に社会を発展させることができた理由だった。

ただ、その代償に、サピエンス自身の幸福を規定する「本能」と、今までの社会の豊かさを築き上げてきた「社会制度」とが乖離してしまっている、という事情を抱えるようにもなった。

生存競争において、サピエンス以外の自然な生物と、サピエンスとでは、事情が異なる。

他の自然な生物の場合は、生き残りに有利な「本能」を持っている生物が生き残る。一方で、サピエンスの場合は、生き残りに有利な「社会制度」を持っている集団が生き残る。

そして、その「社会制度」は、サピエンスの「本能的幸福」に反するものでも、それが集団を強くするならば、尊重され継続されていく。

ここで言う「社会制度」というのは、結婚という制度、文化や伝統、共同体における常識や規範、宗教、ナショナリズムなど、「遺伝子の外部」にある情報でありながら我々を強く規定しているもののことを、そう呼ぶことにしている。

例えば、結婚という制度やそれに付随する文化や伝統は、それが我々を幸福にしてくれるからではなく、むしろ本能的な幸福には反するけれど、それを採用した集団が強くなり、生き残りやすくなるからこそ、重視されてきたものだ。

自然な「本能」に従って生殖をするような集団と、結婚のような無理やり男女をくっつけて添い遂げさせるような「社会制度」を備えた集団とでは、後者のほうが生き残りやすかった。

サピエンスにおいて、「本能」に従うような集団は淘汰され、本能的な幸福を否定してでも集団を強くする「社会制度」を備えた集団が生き残ってきたのだ。

「本能」を否定してでも集団を強める「社会制度」を機能させながら、集団同士が生き残りをかけて争ってきたというのがこれまでのサピエンスの歴史だが、そこで、どのような「社会制度」が強かったかというと、基本的には、「より大きな集団」を成立させる「社会制度」が強かったと考えられる。

人類は、基本的には「数が多いほうが強い」が原則で、実際に、時代を経るにつれて集団の規模は大きくなり続けていった。

「国」とされる集団の大きさは、過去から現在に至るまで、基本的には拡大し続けている。

サピエンスの集団は大きくなり続け、最終的には、大国同士が世界規模で争いを繰り広げる世界大戦にまで発展した。

「数が多ければ強い」という原則において、生き残りのために強さを求めるサピエンスの集団は、その規模を拡大し続けていったのだが、ただ、それが最終的に「グローバル」に行き着くことで、状況が変化する。

「グローバル」という概念に到達することで、目的が「強さ」から「弱さ」に反転するのだ。


「グローバリズム」が「ナショナリズム」を数の力で上回る

ここからは、まず、「ナショナリズム」と「グローバリズム」の違いについて説明しようと思う。

現在の我々は、自身が様々な共同体に所属していると考えているだろう。家族の一員だったり、地元の一員だったり、会社の一員だったりと、多層に集団に属していて、そして、「日本人である」という感覚を持っていると同時に、「この世界に生きる一人の人間である」という感覚も持っている。

「自分は日本人」が「ナショナリズム」で、「自分はこの世界に生きる一人の人間」が「グローバリズム」だったとして、どちらも、顔も見たことのない人たち同士の非常に大規模な集団に所属意識を感じているという点では同じだ。

ただ、「ナショナリズム」と「グローバリズム」には決定的な違いがあって、それは、ナショナリズムが「強さ」を志向するのに対して、グローバリズムが「弱さ」を志向することだ。

基本的に、「家族」から「ナショナリズム」までの集団は、「強さ」を志向する性質がある。

それらは、他の集団との生存競争に有利になるために重視されてきた「社会制度」だからだ。一方で、「グローバル」まで行き着くと、「他の集団」というものが存在しなくなる。

つまり、「グローバル」に到達すると、戦う相手がいなくなるので、「強さ」を目指す動機がなくなるのだ。

「外敵が存在しないので、強くなる動機がない」といった状態が「グローバル」であり、そのような状態においては、「強さ」ではなく「弱さ」が志向されるようになる。そしてそれは、「個人の本能的幸福」に向かう。

なぜそうなるかというと、先に説明したように、我々サピエンスが、「個人としての本能」を押しつぶす「社会制度」によって、「集団」として強くなってきたという経緯があるからだ。

我々は、「本能的な幸福を追求する個人」としては、「家族」や「国家」のような「社会制度」に対して否定的になりやすく、社会の繁栄や存続のための必要悪だった「社会制度」は、できればそこから逃れたいと感じるものになる。

「グローバリズム」が影響力を持ち、「個人」が重視されるという現象において、「数が多いほうが強い」という原則が変化したわけではない。

「グローバリズム(全世界)」は、「ナショナリズム(国家)」よりもさらに大きな集団だ。

「個人の本能的幸福」という「弱さ」を重視する「グローバリズム」が、「ナショナリズム」を数の力(集団の大きさ)で上回ることによって、「強さ」ではなく「弱さ」が重視される社会になっていくのだ。

これが、「ポリコレ」が現代において影響力を持つようになった図式的な説明になる。


少数派を尊重する人たちが最大多数派

グローバルな状況だからこそ、少数派が力を持てるようになる。

例えば、性的少数者とされるような、伝統的な「男女」の区分に馴染めないような形質を生まれつき持っている人は、「ローカル」な場においては少数派になりやすい。ただ、そうであるからこそ、「グローバル」な状況においては、別の場所の「ローカル」にいる人たちと強く連帯しやすくなる。

世界中の人たちが特定の関心によって結びつくことのできる「グローバル」な状況においては、「少数派だからこそ多数派になれる」ということが起こるのだ。

「少数者の尊重」といっても、「数が多いほうが強い」という原則に変わりはなく、「グローバル」になるほど、「少数派」であるゆえに互いに関心を持って強く連帯できる集団の力が増していくということだ。

そして、現代の社会でポリコレが強まっていく理由は、今は大多数の人間が、自分のことを「多数派には馴染めない少数派」であると考えるようになっているから、と考えられる。

なぜなら、そもそも「多数派」を形成してきた「社会制度」が、「個人の本能的な幸福」に反するものなので、近代教育を受けて「個人」として思考するようになれば、たいていの人は「社会制度」のほうをおかしいと感じるようになるからだ。

多数派に対して、「少数派を尊重するべき」というメッセージが強く語られるのが今の社会だが、そもそも今の先進国では、自分のことを多数派側だと考えている人のほうが少なく、むしろ、「自分は多数派に馴染めない少数派である」と考えている人のほうが多いだろう。

現代人は、過去の保守的な社会と比べれば、みんながリベラルになっていて、基本的には、「個人の自由」や「人権の尊重」などの理念に賛同しているし、旧来の社会のほうを疑問視している。

つまり、近代教育を受けた各人が「個人」として「社会制度」を疑うようになり、「少数派を尊重する人たちが最大多数派になること」によって、ポリコレが重視される社会に向かっていくのだ。

国家が個人に対して暴力的な集団であることは変わりないが、国家よりもさらに大きな集団である「グローバル」が「弱さ」を重視するゆえに、国家が「ポリティカル・コレクトネス」を無視できなくなっていく。

「個人」と「グローバル」が接続していて、それが「国家」を上回る「数の力」を得ることで、国家が「個人」を重視せざるをえなくなっているというのが、ポリコレという「弱さ」が重視される風潮が、現代において強まっている理由だ。


「両極(グローバル)」と「中間(ローカル)」が対立するという図式

ここで提示しようとしている図式は、「グローバル」という「最大」と、「個人」という「最小」とが接続していて、そのような「両極端」が、「中間」にある国家や家族などと対立している、といったものだ。

一般的に、「ローカリズム」のような、地元同士や顔見知り同士の信頼関係によって結びつく小さな集団と、「ナショナリズム」や「グローバリズム」のような大きな集団とが対比されることはよくある。

ただここでは、それとは違った考え方をしていて、「個人」と「全世界」の両極端を「グローバル」と置いて、その中間にある「家族」から「国家」までを「ローカル」と考える。

ここで提示しているのは、「両極(個人・グローバリズム)」と「中間(家族から国家まで)」が対立する、という図式なのだ。

このような図式において、「グローバル」は、「全世界」と「個人」の両極から、「国家」や「家族」のような「中間的なもの(ローカル)」を解体していこうとする作用になる。

「最も大きな集団であるグローバル」と、それと接続している「社会制度に否定的になった個人」の両極端が、国家などの「ローカル」よりも強い力(数の多さ)を持つことによって、「グローバリズム」が影響力を増していくのだ。

ちなみに、「グローバル」の力を強める要因として、「市場」も大きな役割を果たしている。

貨幣は、ローカルな慣習や決まり事を超えて普及していくという性質を持つので、貨幣が普及するほど「ローカル」が解体されていく。

つまり、市場の作用は、「中間と両極が対立する」という図式において、「ローカル」を否定して、「グローバル」と「個人」を重視する側になる。

「ローカルを超える信用であろうとする貨幣」と「個人が自己利益を追求することを許すルール」を社会に普及させていこうとする作用が「市場」であり、それは「グローバル」を強めようとする性質を持つのだ。

市場が「グローバル」を強めるということは、「市場競争」と「ポリティカル・コレクトネス」は相性が良いということだが、これについてはすでに「弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)が起こっていることをどう考えるべきか?」という記事や、「べーシックインカムとは何か?メリットとデメリット、減税との違いなどを解説」という記事で解説している。

「グローバル」が影響力を持つようになった背景として、「市場が社会に普及したから」というのも非常に大きいのだが、ただ、ここで市場について論じると話が逸れるので、今回の記事では主に「ポリティカル・コレクトネス」のほうを扱う。


「普遍性」と「多様性」の接続がポリティカル・コレクトネス

「中間と両極が対立する」という図式によって指摘したいのは、「グローバル」という「普遍性」と、「個人」という「多様性」が、「ローカル」に反発するという形で接続しているという関係だ。

「中間(ローカル)」を否定するという形で、「最大」と「最小」が接続しているというのが、「グローバル」の特徴なのだ。

例えば、伝統的な社会で重視されてきた「男らしさ、女らしさ」のようなものが、ここで言う「ローカル」に該当する。それに対して、「グローバル」にあたるのが「すべての人間」で、「個人」にあたるのが「多様性」になる。

「男らしさ、女らしさ」のようなローカルに対して、「いや、すべての人間は平等だ」となるのが「グローバル」で、「人間にはもっと多様性がある」となるのが「個人」で、「グローバル」と「個人」は、共に「ローカル」を否定しようとする、という形で接続している。

このような「普遍性(最大)」と「多様性(最小)」の接続が、ポリティカルコレクトネスの特徴であると指摘したい。

ポリコレは、「すべての人を尊重するからこそ、個人の多様性が尊重される」といったものだが、それは図式的には、「グローバル」という「普遍性」と、「個人」という「多様性」が接続した形になっている。

これは別の見方をすれば、「個人の多様性の尊重こそが、最も画一的なもの」ということでもある。

実際に、個人の多様性を重視するポリコレの動きは、グローバリズムによる単一性によって、中間的な文化や伝統を解体していく。

このような、「グローバル」と「個人」の結びつきが「中間」を解体していく「ポリティカル・コレクトネス」が、良くないものだと主張したいわけではない。むしろそれは、個人の幸福や自由や権利を尊重しようとする作用であり、非常に重要なものだ。

ただ、問題は、「社会制度」が解体されていくことにある。

国家や家族や文化や伝統のような、「ローカル」な「社会制度」は、「個人」を否定する一方で、今の社会の豊かさの前提でもある。ゆえに、「社会制度」を解体していく作用が進むほど、社会は崩壊に向かっていく。

過去に出した「競争を疑うのが難しい理由」や「なぜビジネスは悪質になるのか?」や「なぜ大多数の国家で資本主義が採用されているのか?」などの記事では、「社会制度」のほうを「豊かになるが、正しくない」もの、「個人の本能」のほうを「正しいが、豊かにならない」ものとして、両者が相反関係にあるという見方を提示してきた。

「正しさ(個人を重視して競争を許す)」と「豊かさ(個人を否定して協力を促す)」は、どちらが望ましいという話ではなく、「豊かさ」が、「正しさ」を可能にするもとの余剰を生産し、「正しさ」が、個人の幸福や自由や権利を実現する、という対立関係によって、現象を説明しようとしているということだ。

「正しさ」を重視する動きによって、「個人」の幸福や自由や権利が尊重されるようになっていくが、同時に、社会が持続可能なものではなくなっていき、長期的には「正しさ」も成り立たなくなってしまう。

この、「ポリティカル・コレクトネス」が「正しさ」を進めていくという問題に対して、それに対抗して「豊かさ」を進めていこうとするのが「べーシックインカム」であると、ここでは考える。


ポリコレとべーシックインカムの図式的な対比

ここで示したかった図式を整理する。

まず、我々はもともと「個人」だが、生き残るために「集団」を重視しなければならなかったという事情があった。そして、「数の多さが強さ」であるがゆえに、「集団」が大きくなり続けていった結果、最終的に「グローバル」という「最大」に行き着くことで、目的が「強さ」から「弱さ」に反転する、と考える。

そしてそれは、出発点だった「個人」に戻ってくるという形になる。これがポリティカル・コレクトネスであると、ここでは考える。

ここまでは、このような図式においてポリコレを説明してきた。

そして、べーシックインカムにおいては、ポリコレの場合とは対象的に、「弱さ」が「強さ」に反転する図式を考える。

「国家」は国民に対して福祉を提供するが、それは、全員を同じように扱うのではなく、弱い者を支援するという形にならざるをえない。

そこにおいて、「数の多さは強さ」の逆に、「数の少なさは弱さ」なので、支援のための何らかのカテゴリは、どんどん細分化していく。そして、弱さを競うために「集団」が小さくなり続けていく結果、最終的に「人それぞれが個別の弱者」という「最小」に行き着くことで、目的が「弱さ」から「強さ」に反転する、と考える。

そしてそれは、出発点だった「国家(集団)」に戻ってくるという形になる。これがべーシックインカムであると、ここでは考える。

いきなりこのような図式を出されても意味がわからないと思うので、以降で、この「弱さ」が「強さ」に反転する図式がべーシックインカムであることを説明していく。


弱者性を競う「マイナスの競争」のジレンマ

当noteの「弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)が起こっていることをどう考えるべきか?」などの記事では、社会保障や、弱者性に対する何らかの支援や理解や配慮を巡って、弱さを競い合う「マイナスの競争」が起こっていることを指摘してきた。

そのような「マイナスの競争」においては、基本的には、少数者であることにプライオリティがある。

「数が多いほうが強い」の逆で、「数が少ないほうが弱い」が原則なので、少数者であると認められるほど、「弱さ」が重視される「マイナスの競争」で有利になりやすいと考えられる。

ただ、そのような「数の少なさにプライオリティがある」が原則であるがゆえに、「マイナスの競争」のジレンマが発生する。

例えば、オンリーワンの弱者であり、人知れず大きな苦しみを抱えている人がいたとして、それが誰にも認知されなければ何の支援も与えられない。「マイナスの競争」は、ただ弱者であるだけではダメで、弱者であると周りに認められる必要がある。

弱者性を認められて社会的な影響力を持つためには、ある程度の「数の多さ」がなければならない。一方で、「数の少なさが弱さ」というのがルールなので、「数の多さによって認知されている」ことがまさに、弱者性を疑われる理由になる。

つまり、弱者性を争う「マイナスの競争」において、「数が多くなければ認められないが、認められている時点で十分な弱者ではない」というジレンマがあることになる。

基本的には、弱者性に対する認知や配慮や支援は、そのためのカテゴリが作られることによって行われるが、そうやって何らかのカテゴリによって救済されている時点で、弱者性が疑問視されるので、基本的には、カテゴリは細分化に向かっていく。

そして、「カテゴリ」の細分化が進んでいくと、それは最終的には、「人それぞれが個別の弱者である」まで行き着く。

具体的な例を出すなら、例えば、性的少数者というのは、弱者性が認められやすく、ポリコレにおいて有利になりやすい属性だ。ただ、性別のような「カテゴリ」は、弱者性のジレンマの中で、細分化が進んでいく傾向にある。

性的少数者を表すワードとしては、「LGBT」が有名だ。

伝統的な性別の区分が「男」と「女」だったのに対して、「自分は男にも女にも当てはまらない」という人たちが声を挙げて、LGBTというカテゴリが影響力を持つようになった。

ただ、LGBTにしても、2つあったものに4つ追加されただけで、多様なものを画一的なカテゴリで括っていることには変わりないので、「自分はLGBTのどれにも当てはまらない」という人も当然ながら存在する。

そして、そういう少数派に配慮するため、今まで名前のついていなかったセクシュアリティに新しく名前をつけていくことになるのだが、それを真面目にやると、どんどんカテゴリの数が増えてすぐに把握しきれない数になっていく。

LGBTQのような文字列は、色んなバージョンがあり、文字が非常に長く続くバージョンもある。新しい少数者の主張を受け入れて、それに名前をつけるほど、カテゴリが増え続けていくのだ。

世の中には色んなことを言う人がいるので、例えば、「男性と女性がそれぞれ何割かずつ自分の中にいる」とか、「その日によって男性か女性か変わる」みたいなことを言う人も実際にいて、しかしそれに対して、「いい加減にしろ」とか「面倒くさいこと言うな」とも言いにくい。

なぜなら、「少数者を尊重するべき」というのがそもそもの始まりだからだ。

「では、いったい性別はいくつあるのか?」だが、区切り方や、定義の仕方や、各要素の掛け算などによって、いくらでも細分化していく。

誰でも今この瞬間から自分のオリジナルのセクシュアリティを主張できるし、性的嗜好や性的魅力の過多のような要素も「性別」に含めていけない道理はないので、少数者の主張を無視しないのであれば、把握しきれないほどカテゴリは増え続けていくし、それは究極的には、「人それぞれに異なる性別がある」まで行き着く。

これが、先ほど図式的に示した、「数が少ないほど弱い」という原則において弱さを競う結果、最終的に「人それぞれが個別の弱者」という「最小」に行き着く、という状態だ。


カテゴリの細分化が進んでいくと、究極的には福祉が崩壊する

「性別」とは別の例を出すと、例えば「障害」といったものにも、「性別」と同じようなことが言えて、最終的には「人それぞれに異なる障害がある」まで行き着く。

ただ、何らかのカテゴリは、雑に括るからこそ現実的な影響力を発揮できることがあって、例えば日本では「発達障害」というカテゴリが大きな知名度を得ている。

発達障害において、「発達障害の特徴は明確にこれです」と言えるものがあったり、厳密に定量化できる指標があるわけではなく、障害の特徴は人によって千差万別だ。そして、「発達障害」は、そういう様々な弱者性を雑に一括りにできるキーワードになったからこそ、今のように影響力を持っていると考えられる。

現代の社会に適応しにくいような偏った特徴を先天的に持つのが発達障害だとして、そういう障害性は、学力テストやビジネスなどにおいて有利に働く場合もある。

弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)が起こっていることをどう考えるべきか?」の記事では、メリトクラシーのような強さを競う「プラスの競争」と、弱さを競う「マイナスの競争」が、実は結託している作用であることを説明してきたが、「社会的成功者が自らの弱者性をアピールしやすい」という特徴によって、「発達障害」というカテゴリが影響力を持つようになったという事情もあるだろう。

ただ、そういう多くのものを雑に括ることで影響力を持っているカテゴリであるゆえに、その内部や周辺での対立や議論が激しく起こるし、特に具体的な支援をしようとするフェイズになると、様々な問題が出てくる。

ここからは、もう少し抽象的に考え、何らかの支援制度を作って、弱者を救済しようとする場合について述べる。

例えば、何らかの弱者性の基準を作り、そのカテゴリに当てはまる人たちに支援を与えるとする。

そうすると、現実的な制度として運用するためには、多くの人を同じカテゴリで括らなければならないので、弱者性の強い人と弱い人に同じ支援を与えることになる。そうすると、カテゴリにギリギリ含まれて支援の対象になる人が最も得をすることになり、同カテゴリ内の弱者は不満を持ちやすくなるので、そのカテゴリの内部で対立が怒るようになる。

そして、カテゴリによる弱者支援が行われると、支援をギリギリ受けられないボーダーが、最も弱者になり、当然ながらこれも問題視される。

さらに、そもそもの、何らかの弱者性の評価基準において、それによって補足できない弱者が存在するのではないかということも議論になりやすい。

抽象的な話だった、何が言いたいかというと、弱者支援のためのカテゴリは、どうやっても不十分なものになり、それによって細分化に向かっていくということだ。

そもそも、カテゴリが何らかの支援として機能している時点で、それによって救済された人の弱者性にケチがつくのが「マイナスの競争」であり、公平性を重視して厳密に弱者性を汲み取ろうとするからこそ、カテゴリは細分化せざるをえず、そのために必要な議論や手続きが途方もなく増えていく。

先に「性別」や「障害」の例を出したが、身体、人種、出自、居住地、家庭環境、世代など、弱者性の要因となるものは様々で、それらが掛け算されれば、当然ながら何らかのカテゴリを作って対処できるようなものではなくなる。

つまり、「数が少ないほど弱い」という原則において、弱者性に対して公平に配慮しようとすると、競争によってカテゴリが細分化し続けていき、最終的には「ひとりひとりがその人に固有の弱者性を持つ」としか言いようのない状態まで行き着くことになる。

このような「人それぞれが個別の弱者」まで行き着いた状態では、福祉は成立しない。

全員が「個人」であり、「それぞれが他者と比較することのできないオンリーワンの弱者」ならば、もはや「弱者」は存在せず、特定の誰かに優先して支援が与えられる道理がなくなるからだ。

そして、このような、「弱さを競う競争」の結果として「人それぞれ」に行き着き福祉が崩壊する、という問題に対処するための方法が「べーシックインカム」であると、ここでは考える。


ポリティカル・コレクトネスとべーシックインカム

べーシックインカムとは何か?メリットとデメリット、減税との違いなどを解説」という記事では、べーシックインカムのような、あえて国民全員を同じく扱おうとする「形式的な平等」は、分配の優先権をめぐる競争のために使うリソースを、分配のもとになる余剰の生産に使えるようにすることに意味があり、性質としては国家を強くしようとする「ナショナリズム」に近いことを説明してきた。

つまり、べーシックインカムは、「国民」という同質性を機能させて「大きな集団」を再構築し、それによって「強さ」を目指そうとする政策になる。

そして、図式的には、弱者支援が細分化していき、「人それぞれ」に行き着いて福祉が成立しなくなったあとで、べーシックインカムに向かうことは、目的が「弱さ」から「強さ」に反転したことになる。

ここでは、目的が「強さ」から「弱さ」に反転するのがポリティカル・コレクトネスで、それと対照的に、「弱さ」から「強さ」に反転するのがべーシックインカムであるという整理をしている。

もともとは「個人」だったのに対して、生き残るために「集団」を重視しなければならなかったが、「グローバル」に行き着いて再び「個人」が重視されるようになるのが、ポリティカル・コレクトネスだ。

もともとは「集団」だったのに対して、福祉のために「個人」を重視しなければならなかったが、「人それぞれ」に行き着いて再び「集団」が重視されるようになるのが、べーシックインカムだ。

両者の対比を図式的に示すと、以下のようになる。

  • 「数が多いほうが強い」という原則において、集団がだんだん大きくなっていった結果、「グローバル」に行き着くことによって、「強さ」が「弱さ」に反転して、「個人」が重視されるようになるのが、「ポリティカル・コレクトネス」。

  • 「数が少ないほうが弱い」という原則において、集団がだんだん小さくなっていった結果、「人それぞれ」に行き着くことによって、「弱さ」が「強さ」に反転して、「集団」が重視されるようになるのが、「べーシックインカム」。

このような対比で、ここでは、「ポリティカル・コレクトネス」の行き過ぎに対処する方法が、「べーシックインカム」であると位置づけている。

このような話について、この記事ではまだ説明が足りないと思うが、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを公開していて、そこに詳しく書いている。ここで論じているのは主に第3章の内容になる。

このnoteの内容をより詳しく知りたいという方は、全文無料で読めるので、サイトのほうを見てみてほしい。


まとめ

  • サピエンスのこれまでの歴史において、個人の「本能」を否定する「社会制度」によって、「大きな集団」を形成してきた集団が生き残ってきた。時代を経るほど、集団の規模は大きくなり続け、大規模な国家同士が争う世界大戦にまで発展した。

  • 集団の規模が大きくなり続け、「グローバル」まで到達することで、状況が一変する。これまでは、外敵よりも強くなるために集団の規模を大きくしてこざるをえなかったが、「グローバル(最も大きな集団)」には外敵が存在しない。そのため、「グローバル」に到達することで、目的が「強さ」から「弱さ」に反転する。

  • 「社会制度」は、サピエンスの「本能」に反するが、生き延びるためにそれを尊重せざるをえないというものだった。そのため、「個人」が重視される社会になるほど「社会制度」が否定されやすくなる。グローバリズムは、そのような「個人」が重視される社会をもたらす。

  • 「数が多いほうが強い」という状況は変わらなくとも、国家よりもさらに大きな集団である「グローバル」が「個人(弱さ)」を重視するという形で、国家が個人を無視することができなくなっていく作用が、グローバリズムである。

  • ここでは、「グローバル(最大)」と「個人(最小)」が接続して、それと「中間(ローカルな社会制度)」が対立するという図式を提示している。そこにおいては、家族から国家までを一括りに「中間(ローカル)」であると考える。

  • 家族、国家、文化、伝統などの「ローカル」は、個人を否定して集団を重視するものであり、「強さ」を志向する。一方で、「個人・グローバル」は「弱さ」を志向する。「グローバル(弱さを志向)」が「国家」を上回る「最も大きな集団」であるゆえに、国家が「弱さ」を重視せざるをえなくなっていくというのが、ポリコレが影響力を持つようになった理由だ。

  • 「ローカル(中間)」は、「グローバル(普遍性)」と「個人(多様性)」の両方と相反する。「ローカル」に反発するという形で、「普遍性」と「多様性」が接続しているのがポリコレの特徴になる。

  • ポリティカル・コレクトネスは、個人を尊重するという点において重要なものだが、グローバリズムという「多様性と接続した単一性」によって、「社会制度」を解体していくという問題がある。「社会制度」は、個人の「本能」を否定する一方で、現代社会の豊かさの前提でもあり、それがなくなると社会が成り立たなくなる。

  • 「強さ」を競い合い「グローバル(最大)」に到達することで「強さ」が「弱さ」に反転するのがポリコレだとして、それと対照的に、「弱さ」を競い合い「人それぞれ(最小)」に到達することで「弱さ」が「強さ」に反転するのがべーシックインカムであると考える。

  • 弱さを競う「マイナスの競争」においては、「数が多いほうが強い」の逆に「数が少ないほうが弱い」であり、少数者であることにプライオリティがある。

  • 「マイナスの競争」において、「数が多くなければ認められないが、認められている時点で十分な弱者ではない」というジレンマがあるが、弱者性に厳密に配慮しようとする議論を進めていくほど、カテゴリは細分化していきやすい。

  • 何らかの弱者性のカテゴリが細分化していけば、それは究極的には、「人それぞれに異なる性別がある」「人それぞれに異なる障害がある」など、「人それぞれ(最小)」という、何らかのカテゴリが存在しない状態に行き着く。

  • 弱者性の要因となる要素は様々であり、それらが掛け合わされば、何らかのカテゴリを作って対処できるものではなくなる。つまり、弱者性に配慮しようとするからこそ、それが究極的に「ひとりひとりがその人に固有の弱者性を持つ」としか言いようのない状態まで行き着き、福祉が崩壊してしまう。

  • ここでは、弱者性への配慮が「個人(人それぞれ)」に行き着くことで、目的が「弱さ」から「強さ」に反転し、再び「集団」に向かうのが「べーシックインカム」であると考える。

  • 国民全員を同じく扱うべーシックインカムは、意図的に「形式的な平等(同質性)」を機能させることで、「集団(強さ)」を再び強めようとする政策であり、この作用は、ポリティカル・コレクトネスと図式的に対照なものになる。


今回の内容は以上になります。

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