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佐々木敦『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』を再読する

2つの「冒険」、2つの「二重性」

佐々木敦による『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』を読んだ。正確に記せば「再読」した。

それは「Webちくま」に連載の頃から、リアルタイムで読み進めていただけでなく、先日行われた本書の出版イベント(対談相手は、畑中実氏(ICCで「坂本龍一トリビュート展」を企画))が、本書を補完するような内容であったため、本書を読み直す必要性を感じたからだ。

再読後の結論を記せば、佐々木氏による「坂本龍一論」は、坂本龍一や高橋幸宏が亡くなり、「ポストYMO」「ポスト坂本龍一」ともいえるこれからの時代において、坂本龍一に関する定本になるということである。

それだけはない。この本は佐々木氏の言論活動においても、転換点となる可能性を秘めていると、私には考えられるのだ。

なぜだろうか。その疑問を解き明かす手がかりは、本書の冒頭にある。

私は私なりのやり方で「坂本龍一」を批評してみたい。ここでの「批評」とは、対象の存在理由を問い直し、そこに潜在する可能性をを押し開くことである。私がしたいのは、坂本龍一がいつどこで何をしたのかという歴史的な検証でもなければ、何らかの意味で彼の認識や主張を代弁しようとすることもでもない。かといって私個人の思いの丈を吐露するだけに終わらせるつもりもない(そんなことに読者は興味を持たないだろう)。

佐々木敦『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』, P16

本書の冒頭で、佐々木氏は坂本龍一を批評すると言明しているのである。そうであれば、パフォーマティブ(行為遂行的)なテクストが想像されるが、本書の趣はやや異なる。それは本書がコンスタテイブ(事実確認的)な性質を持ち合わせているからだ。

「Webちくま」連載時には記していなかったが、空里紀氏(KAB)には当初からファクトチェックをお願いしていた。空氏は非常にご多忙であるにもかかわらず、すべての原稿を丁寧に読み、細かい事実の誤りや、こちらの思い違いなどを逐一ご指摘くださった。

前掲書, P516

つまり、本書はパフォーマテイブとコンスタテイブのどちらにも所属しないあるいは、二重に属するテクストである。それは長年批評活動を続けてきた、佐々木氏にとっても新たな経験であったに違いない。

佐々木氏はあとがきでこのように記す。

私は「坂本龍一」が主人公の、一編の物語を書いた気持である。「教授」と呼ばれた男の、めくるめく波乱万丈な冒険物語。

前掲書, P516

しかしそれは、本書の執筆が佐々木氏にとっても「冒険」であったことを示していると、私には解釈できる。

そしてその「冒険」は成功であったように思う。坂本龍一を批評するという新たな領域を切り開いたように思えるからだ。

事実、長年に渡って坂本龍一を追い続けてきた、一介の熱心なファンに過ぎない私が、このような文章を綴るようになったのは、本書の刊行が直接のきっかけである。

ところで「Webちくま」で佐々木氏による「坂本論」にはじめて目を通した際、不思議な距離感のようなものを感じていた。
というのも、私は音響派に代表されるポストテクノというコンテクストで、佐々木氏の活動を捉えており、そのようなフィールドを活かして、ある時期は、当事者として坂本のインタビューアーを務めていたと認識していたからである。直截的にいえば、佐々木氏がYMOを批評するイメージをなかなか持てなかったのだ。

あるタイミングでの当事者が坂本龍一の全体を語るということ、それが先に述べた不思議な距離感の正体である。

しかしそのような感覚は、私の誤解であるととともに、その根源はある種の複雑性を孕みながら、本書の題名として表象されていることに気づく。

そのことについては、序論で言及されているのだが、ここではそのテクストを引用することなく、『「教授」と呼ばれた男』というタイトルが、本書の全てを表象していると言明したい。そのことは本書を読めば分かるはずである。

「坂本龍一」と「坂本さん」という関係性を巡る二重性、そしてパフォーマテイブとコンスタテイブというテクストの性質を巡る二重性――その2つの結節点に本書は存在する。

円環構造としての第1章、そしてアブ時代

前章では、いささかペダンチックな手つきで本書に触れたが、これからは一介のファンとして、時代ごとに区分された章立てを1つずつ解説したい。

その前に章の構成を俯瞰しよう。

坂本の50年(レア音源を集めたコンピレーションのタイトルが『Year Book 1971-1979』となっていることから)にも渡る音楽活動をクロニクルに取り扱っている。一冊の本にまとめることを前提として考えれば、たしかにそれは「冒険」ともいえる試みである。

しかしながら、各章ともテーマ性を持たせることで記述を捨象し、部分的でありながらも全体的でもあるという巧みな構成によって、コンパクトであるが読み応えのある内容を実現している。

さっそく章ごとの解説をしていきたい。ここからは、「坂本龍一の研究者」を僭称する私なりのコメントになる。

第1章「「教授」以前の彼」は、YMOデビュー以前のいわゆる「アブ」と呼ばれた時代の坂本について論じている。(佐々木氏は、定型的な議論になるのを回避するため、「教授」という呼称を使わないが、「アブ」についても同じ姿勢である。)

『Year Book 1971-1979』が2016年にリリースされ、本人がこの時代について言及したことや、坂本が亡くなった後、同世代の関係者が追悼として、坂本との様々な記憶を記録として残したことから、近年ではアーリーワークスとも言える、この時代の解明が急速に進んでいるようにも思える。そのような事情も手伝い、第1章が本書を占める割合は大きい。
「Webちくま」での連載開始当時は、この大著が出来上がるのは数年後になるのではないかと心配したものである。

少し話を戻すと、ある時期まで坂本はYMOも含めて過去の活動について積極的に言及していなかったように思う。

だが2003年にYMOベスト『UCYMO』や過去のオリジナルアルバムのリイシューを監修し、ライナーノーツにインタビューを掲載するなど、この頃に大きな転回を迎えたように思う。そのような流れの中で、1976年リリースの土取利行との共作『ディスアポイントメント - ハテルマ』が2005年にリイシューされ、ライナーノーツには坂本のインタビューが掲載されたのだ。

本リイシューでは、初期の坂本の活動を共にした竹田賢一が、新たに文章を寄せているものの、時代背景を読み解くことが難しかったことから、この時代の坂本の音楽活動を捉えるには至らなかったと、個人的に思う。
しかし本書では、坂本による2009年の自伝『音楽は自由にする』を参照しつつ、時代背景が丹念に描写されている。第1章は、本書の副題である「坂本龍一とその時代」を象徴するような内容である。

また坂本の思想傾向や政治性などにも言及されており、晩年の社会的な活動と結びつくようなっている。さらに坂本の音楽に対する感受性についても考察されていることから、この点でも晩年の活動との共通性を指摘できるような内容となっている。

つまり、晩年の坂本の作品や社会的活動が初期と共通性を持っていたことが示唆されるだけでなく、本書の構成についても、第6章が第1章に繋がるという、ある種の円環構造になっていることが、本章では示されていると考えられるのだ。

再考としてのYMO

第2章では、YMOの結成から散開までの活動と、その間にリリースされた2枚のソロアルバム『B2-UNIT』『ひだりうでの夢』、さらに映画『戦場のメリークリスマス』や忌野清志郎とのコラボレーションについて取り上げている。

この時期のYMOの活動については、これまでに様々な著者により散々論じられているだけでなく、情報過多と言えるほど関係者の証言も多い。そしてファンにとっても、各々の坂本龍一観やYMO観が錯綜する時代でもある。

しかし本書においては、批評対象と一定の距離感を持ちつつ、ダブやニューウェーブなどのYMOと同時代に並走していた音楽的ムーブメントを補助線に、共時的に坂本とYMOを論じている。そのことによって主観性が抑えられている。佐々木氏ならではのアプローチであると思う。

また、YMOに関する記述に偏重せず、第1章と第2章とで熱量が変わらないという点が、本書の統合性や統一性を支える要因になっていると考えられる。

『音楽図鑑』から海外進出まで

第3章ではYMOの散開を挟んでレコーディングされた『音楽図鑑』から、ヴァージン・アメリカと契約後の『Heartbeat』までを取り上げている。

テクノロジーだけでなくビジネスにおいても、音楽を取り巻く状況が目まぐるしく移り変わっていくなかで、坂本の作品も生成的に進化を遂げていった時代であるように思う。

この頃は出版社を興したり、アートパフォーマンスを始めるなど、坂本は音楽以外にも表現の領域を拡大する。ナムジュン・パイクや浅田彰など、坂本と関わった重要人物を丁寧に取り上げることで、本章だけはテクストの解像度が向上しているように感じられる。意図したものか分からないが、そのような操作によって、80年代特有の過剰性が前景化されているように感じられる。

90年代、J-POPSシーンでの坂本龍一

「「J」との遭遇」と題された第4章は、90年代の坂本について論考している。活動の密度は80年代とさほど変わらないものの、テクストのボリュームはさほど多くない。

ここで一つだけ告白すると、本章を読んだ段階で、90年代にフォーカスした論考については、私にも執筆の余地があると考え、坂本龍一についてのテクストを綴ることを心に決めたのである。

本章はコンパクトにまとまっているが、ゴーダルにとってのアンナ・カリーナのように、中谷美紀を坂本龍一のミューズとして見立てた論考は、慧眼に他ならないと思う。

中谷美紀はもちろんのこと、gutレーベルで発表した『Sweet Revenge』『Smoochy』『1996』『Discord』、そしてGEISHA GIRLSや坂本美雨、さらには1990年代の締めくくりとなったオペラ『LIFE』など、更なる批評の可能性を感じさせる時代でもあったのではないか。

当事者として、批評家として

『LIFE』以降の活動から、2017年までの『aync』までについてまとめたのが、第5章「調べから響きへ」である。

佐々木氏がエレクトロニカシーンに深くコミットしていたことから、当事者ならではの臨場感が伝わってくる。

佐々木氏が日本での活動の最初期から携わり、後に坂本とコラボレーションすることになる、カールステン・ニコライやクリスチャン・フェネスに関する言及は貴重である。本章は全6章のなかでもアクセントになっており、次の最終章に向かう高揚感すら感じられる。

「渾身」と佐々木氏が表現する『out of noise』(2009年)のインタビューも再録されている。作品の静謐さとインタビューの熱量が対称的であるほか、この時代における坂本に関する批評は、佐々木氏をおいて他にいないと感じさせる内容である。

もっとも、当事者でありながら、批評家でもあるという、佐々木氏が常に抱えている二重性が前景化されているとも指摘できよう。

批評の可能性と新たな坂本龍一

最終章は、最後のアルバムとなった『12』だけでなく、オペラ『LIFE』の続編となった、現在も上演中のシアターピース『TIME』についても言及するなど、本書の刊行時点でリアルタイムの状況を取り扱っている。

このことから、坂本が亡くなった後に書かれているにもかかわらず、まだ存命で活動中であるかのような錯覚に陥る。そして私が想うのは、第6章は終章(CODA)ではないということだ。

それもそのはずである。本書を通じて、私たちと坂本龍一との時間的関係性は、傾きはじめたからである。

本書は、私たちと坂本龍一をめぐる時間の在り方を、批評というフォーマットで展開しただけでなく、更なる批評の可能性を開き、新たな坂本龍一像を生み出している。

本書はそのような希望に満ちているのだ。

最後に坂本龍一が好んだ古代ギリシャの言い伝えを引用しよう。

「芸術は長く、人生は短し」

【了】




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