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『WHITE ALBUM』(第八頁)    ~演出・批評と解説

今回は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第八頁(第8話)についてのお話です。

★1 「十字架」の不吉な予兆

さて、視聴者が思いがけず不吉な「しるし」を見て取らざるをえないのは、画面にあらわれる「十字架」のイメージです。

レコーディング・スタジオの屋上の場面。いかにも意味深長な会話劇が、藤井冬弥と緒方理奈によって演じられます。屋上の金網を背景にして、いささか落ち着きを欠く理奈の振る舞いは、金網に両手をかけることによって、「十字架」のイメージを2度、繰り返して見せます。

さらに11月29日に迫る学園祭のために、冬弥の実家で、彼と澤倉美咲は舞台の小道具なり衣裳なりの制作に勤しむ場面が描かれます。ここでも嘘のように、「十字架」のように見える木製らしき短剣をふたりが制作しておりますね。

今、指摘させていただいた場面における「十字架」のイメージは、きまって「由綺との離反」という出来事を「物語」に導入しています。前者の場面は、由綺の「素のヴォーカル」を聞いた直後の場面ですから、理奈の「(スタジオに)戻らないか」という誘いを冬弥がきっぱりと拒絶することは、「素のヴォーカルの由綺」からの「離反」と同義でありましょう。

後者の「実家」場面は、「モンタージュ・シークェンス」の技法の中に組み込まれておりますが、その直前のカットで冬弥のアパートに電話するテレビ局内の由綺が描写されております。言葉を変えるなら、この「実家」における不吉な「十字架」のような短剣作りの作業が、冬弥を由綺から「離反」させているように見えるわけです。

けれども今回の挿話にあって、画面の連鎖にただならぬ不吉さを波及させながら、それ以上に画面をひきしめている「十字架」のイメージか確かに存在しております。

★2 「縦の構図」と「横の構図」、あるいは「十字架」について

 勘のよろしいみなさんはお気付きでしょうし、わたしも以前から何度も指摘してきましたが、『White Album』というテレビアニメーションは、まぎれもなく、当時(2009年)放映されていたテレビアニメの中で、もっとも「縦の構図」と「横の構図」に自覚的な作品であります。

「縦の構図(デプス・ステージング)」とは、画面の奥行きをきわだたせる構図のことです。たとえば、長細い廊下や高架下で向かい合う冬弥と理奈、あるいは河島はるかと観月マナが、いかにも悪人めいた連中と対峙する際に使用されていた構図であります。

この奥行きをさらに強調する場合は、「ディープ・フォーカス」と言って、前景のキャラクターなり事物なりをピンぼけさせて、後景の人物に焦点を設定します。それに対して「横並びの構図(プレーン・ステージング)」とは、要するに演劇の舞台のような平面的な舞台にキャラクターを乗せて描きます。

今回の挿話は、「縦の構図」と「横の構図」が頻繁に使用されるあまり、交錯する「縦と横の線」が画面の連鎖において、見事に「十字架」のイメージを描き出してしまいます。『WHITE ALBUM』にあっては、第1話の電車とテレビ局の卓越した「縦の構図と横の構図」の交錯ぶりには、目を見張るものがございますし、冬弥が理奈のアルバイト・マネージャーとして初めてテレビ局にやってくる挿話でも、局内の廊下で交錯する「縦と横の構図」の圧倒的な不気味さが、見る者の度肝を抜いてくれるでしょう。

しかるに、今回の挿話でも決定的な場面にあっては、きまって「縦の構図」と「横の構図」が使用されており、「十字架」のイメージがしかるべき的確さで画面の推移を活気づけているのです。そして物語の終幕間際では、真俯瞰からの魚眼=広角パースで室内が描写し、そのイメージを「引き取り」ます。

★3 「クロス・カット」、あるいは「十字架」について

また、演出用語である「クロス・カット」という技法の使用についても、印象的なものがあります。この技法は、ある作品が「メロドラマ」(感情の起伏を誇張した感傷的な恋愛劇)であるかどうかを識別する重要な符牒(しるし)にさえなる、見逃せないテクニックです。

「クロス・カット」は、異なる複数の空間で同時的に生じている出来事を交互に編集することで、緊張感や切迫感の印象を生み出します。そして「サスペンス」(ある事実を隠したまま物語を進めていくストーリー・テンリング技法)に巻き込まれた視聴者の、緊張感や切迫感の解消=カタルシスのために、最終的に同じひとつの場面で複数の出来事・それを担っているキャラクターを遭遇させて見せるわけです。

たとえば今回の挿話ですと、屋上での冬弥と理奈の会話劇の場面に、はるかとマナが悪漢たちと対峙する危機的な状況が描かれます。そんなはるかの危機を視聴者でもない冬弥は知るわけもないのですが、きっちりとふたりはあの「幻想的な場面」の直後、冬弥の部屋で遭遇しています。

マナの場合も、冬弥と遭遇したことを知らせる家庭教師の短い場面が、したたかに挿入されておりました。そして、いかにも劇的なのは、「モンタージュ・シークェンス」と「画面分割」の技法を介して、ひたすら視聴者を焦らし続けた冬弥と由綺が、嘘としか思えないデタラメさで遭遇することでしょうか。

けれども、見逃してならないのは、この反復される「クロス・カット」というテクニック自体が、文字通り、「十字架(クロス)」のイメージを画面の連鎖に刻みつけるかのようにみえることです。しかるに、「十字架」というイメージが、あからさまに「ホワイトアルバム」の画面を活性化している事実に、見る者は気づくほかはないのであります。

★4 不在、あるいは「嘘を吐くこと」

今回の挿話にかぎるなら、突然、隣にいた人物が姿を消すという事態が、視聴者を不意打ちするでしょう。さらには、その変奏として、「そこにいるべきはずの人がいない」という事態にさえも、視聴者は頻繁に直面いたします。

もっとも判りやすいふたつの場面を思い出してみましょう。ひとつめは、いかにも悪人めいた二人組を追い払ったはるかとマナが並んで歩く場面です。カメラ(≒画面のフレーム)は、彼女らの歩調に合わせて、トラッキング・ショット(移動撮影)で、ゆっくりとプル・バック(後退移動)してゆきます。彼女らは冬弥というキャラクターの設定を巧みに利用することで、お互いに嘘を吐いて見せます。つまり冬弥の不在が彼女らの「嘘を吐く」という出来事を、物語に導入しているのです。

もうひとつは、はるかと冬弥が緒方理奈の誕生日プレゼントを購入しにゆく場面です。ここでも、ふたりを画面に映し出すキャメラは、ゆっくりとプル・バックしてゆきます。この場面でも、ショーウィンドウ越しに「円環」のイメージを無数に形成している指輪のなか、涼しい顔で描写されている「十字架」の装飾を見出せることを見落とすべきではないでしょう。

冬弥による、高校生の頃の駅舎での他愛のない誕生日をめぐるやりとりを描いた回想シーンが終わりますと、唐突に、はるかが姿を消して見せます。そして、あたかも「自分も誕生日には運動靴が欲しいなあ」と物欲しげな視線を送っているはるかの側に、冬弥は駆け寄っていきます。すると、画に描いたとしか思えないデタラメさで、その光景がマナに目撃されていることが視聴者に知らされます。

前回の、美咲との買出しを目撃された場合と同様に、「あれが由綺」とつぶやくマナから、冬弥は「勘違い」されてしまうわけですが、結果的にはるかの消失、さらには由綺の不在という事態が、マナに対しては「嘘を吐くこと」として機能してしまっているのです。

しかるに、いかにも胡散臭い不穏さを「物語」に浸み込ませる「嘘を吐く」という出来事は、画面のいたるところで反復されるのですが、きまって、そこには「誰かがいない」。言葉を変えるなら、「誰かの不在」が「嘘を吐く」という出来事を物語に導入するための前提条件を担っているように見えるのです。

★5 夢と回想、あるいはひそやかに成立する対話

多くの視聴者が思わず目を奪われてしまう場面と言えば、ことによると、河島はるかの夢の場面と、冬弥の回想シーンかもしれません。

ほとんど「繋ぎ間違い」ではないかと思わせかねない不親切ぶりで、弥生の電話の場面と由綺の電話の場面が続きますと、いきなり原始的な「ストレート・カッティング」であらわれる「垂直俯瞰(真下)」で描かれた、回転する森林の繁茂ぶりが、見る者を激しく動揺させます。その圧巻の映像に「子供の泣き声とひぐらしの鳴き声」が重ねられます。

この象徴的な夢の場面は、ブラック・アウト(黒画面へのフェードアウト)で終わるのですが、消え行く映像にはマナの「嘘つき!」という加工(リバーブ加工)された台詞が重なります。この夢の場面における最初のカットと最後のカットが、人の耳を惹きつける音声のイメージに挟まれているという点は、冬弥の回想シーンとはるかに、共鳴音を響かせています。

というのも、彼の回想においては、OFF台詞ズリ上げ(音先行)という音響演出で、冬弥の笑い声がフラッシュバックによる白画面に重ねられます。さらに回想の締めくくりにあっては、再びホワイト・アウト(白画面へフェードアウト)してゆく映像に、マナとまったく同じ制服を身に纏った高校生・由綺のリバーブ加工された台詞が重ねられているからです。

さらに、夢の場面では、マナと彼女の持つ懐中電灯からやってくる「目もくらまんばかりの青い光」が、これまた、回想シーンでは画面の奥から「もの凄い速度で画面の手前にやって来る電車」とほとんど同じ輪郭におさまっている点をけっして見逃してはなりません。また、マナが大きな叫び声をあげる場面での、カメラの素早いトラック・バックも、これとほとんど同じ輪郭におさまっています。

ここで、精神分析めいた「夢解釈」ではなく、この夢と回想の類似性に、少しこだわってみましょう。

というのは、このきわめて類似したイメージで構成されている「非現実的」なふたつの場面は、緊密な連繋ぶりをみせているからです。

どういうことでしょうか。

それは、「はるかの夢」は、由綺が「どうしちゃったのかな、冬弥くん・・・?」と独りごちる独白カットによって導き出されており、「冬弥の回想」は、「少しだけ・・・現実になっているじゃないか」と由綺に返答する冬弥のカットで締めくくられておりますから、その両者は、あたかも由綺と冬弥のダイアローグ(対話)を構成しているかのように見えるということです。

★6 「中断すること」、あるいは「視覚的な不均衡」

本作、『White Album』にあって、「中断」(コードの断絶)という主題は、きわめて重要です。というのも、シリーズの全編にわたって、肝腎な場面や描写はどういうわけか回避・省略・迂回される傾向があるからです。それは、たとえば、性的描写に関してとりわけ顕著ですし、各話の構成にあって、「アンチ・カタルシス」、「アンチ・クライマックス」という発想が選択されるケースが多いという事実からも、あきらかでしょう。

Aパートの冒頭では、冬弥が「由綺の素のヴォーカル」を聴くことを「中断」いたします。はるかに絡んだ男たちは、マナにより目的の「中断」を余儀なくされますし、はるかは胸を触れられて強いショックを受けたかのように倒れたり、自転車の車輪の回転の「中断」に続くマナの消失により、彼女らの会話は「中断」されます。

理奈のレコーディングの同伴も、冬弥は「中断」して帰宅の意思を告げますし、翌日、冬弥は着替えを取りにアパートに帰ることで、美咲との作業は「中断」されてしまい、「モンタージュ・シークェンス」(行動説明シーン)の場面では、美咲の後姿をなめるように眺める冬弥の作業の手は「中断」し、彼をバイト先の喫茶店から自宅まで送る自動車も当然、自宅前で走行を「中断」いたします。

画面分割のカットでは、由綺は冬弥への電話を「中断」せざるをえず、彼はマナの家庭教師の最中に、居眠りすることで職務を「中断」しております。11月23日には、冬弥の自宅にかかってきた電話をとるために美咲は作業を「中断」し、由綺はまたしても冬弥との会話の「中断」状態を受け入れざるをえなくなります。

理奈の誕生日プレゼントの購入場面の描写は省略され、かわりに、冬弥の回想とはるかの消失が同じ場面に「中断」という主題を持ち込んでおります。11月24日の、緒方英二と神崎社長の電話での会話は、前者により一方的に「中断」されていました。

11月26日、眠りこける美咲は、当然作業を「中断」しております。「♪ハッピバースデ~」の歌は、容赦なくはるか→マナ→場面転換というトランジッションによって「中断」されてゆきます。

さらには、長尺の静止画を、浮き文字レタリングだけで成立させる大胆な場面でも、冬弥と由綺の会話は「中断」を重ねます。由綺のレコーディングへの冬弥の立ち会いも「中断」されてしまい、篠塚による自動車の走行を「中断」した車内での、ふたりのラブシーンが描かれるかと思いきや、当然のごとく、EDという時間の壁によって本編が「中断」されて、第八頁は終幕いたします。

このように「物語」を別の視点から織り上げ直すと、あたかも今回の挿話の主人公が、「中断という身振り」であるかのように見えるのだからおそろしい。それでは、繰り返される「中断」という出来事は、画面の連鎖にいかなる波紋をひろげてゆくのか。

答えは「視覚的な不均衡」です。どういうことか具体的に申し上げますと、「中断する」という出来事は、きまって「目をつぶること」・「一方的に見られること」・「目が描かれないこと」・「見えないこと」・「目が合わないこと」という風に「視覚的な不均衡」という出来事を画面に誘発することで、「物語」をぎこちなく推進させてゆくのであります。

★7 「視覚的な不均衡」と「フレーム内フレーム」

『White Album』という作品にあっては、現代のテレビアニメーションらしく、幾多の「フレーム内フレーム」が画面に氾濫しております。

誰もが容易に確認できるのは、おそらく、冬弥のお父さんが「作品内のテレビ(フレーム内フレーム)」で見ていた、火山が噴火する光景でしょう。このような描写を、時代設定を作品に導入させるための小ざかしい時代符牒であると批判することは、いともたやすい。けれども、設定批判など、「アニメーションを見る喜び」とはほとんど無縁な愚行であります。

さらにまた、この描写に関しては、執拗に反復される「赤と黒」という「色彩の経済学」をまたしても指摘できますが、今回は措いておきましょうか。

他にも「フレーム内フレーム」として、森川由綺のオーディション写真の描写も数カット存在しておりましたね。もちろん、冬弥の部屋に貼られているポスターを指摘しても構いませんよ。

肝腎なことは、これらの「フレーム内フレーム」として描写されている各種のメディアが、きまって「見るもの/見られるもの」という、選別と排除の力学に従わざるを得ないことであります。いいかえるなら、ここにも「視覚的な不均衡」という主題を見出すことができるのです。

★8 「視覚的な不均衡」と「ホワイトアルバム」

この「視覚的な不均衡」というモチーフを、わたしたちはあえて取り上げなければなりません。電話という題材なり小道具なりにあっては、煎じ詰めるのなら、固定電話であろうが携帯電話であろうが、例外なく「視覚的な不均衡」を回避することができないからです。そしてその射程からは、圧倒的な不特定多数のファンの視線を集める「アイドル(古典的なアイドルであれアイドル声優であれ)」もまた、「出演者/観客」という関係性から、けっして逃れることができなません。

さらに決定的なのは、そもそも『White Album』という作品とそれを視聴する圧倒的多数の視聴者の間にも、原理的に「視覚的な不均衡」が機能しているという事実です。それだけではなく、『White Album』とは「フィクションと呼ばれる何モノか」ですから、視聴者にかぎらず、制作者との間にも、「視覚的な不均衡」が存在していることは確かであります。申し上げるまでもなく、制作者もまた、視聴者と同じように「フィクション」ではございませんからね(笑)。

しかるに、今回取り上げただけの細部に過ぎない「視覚的な不均衡」は、かくも緊密に、『White Album』と呼ばれる作品と連繋しながら機能しているのであります。この慎ましやかな周到さを、けっして見逃してはならないでしょう。

★9  「水樹奈々」と呼ばれる「スタア」

第五頁では、川沿いの道路を舞台にして、篠塚弥生を演じる朴璐美さんが、殺気立った凄まじい長広舌を披露なさる場面がございましたよね。

対して、今回(第八頁)の挿話では、駐車場も兼ねているらしきレコーディング・スタジオの屋上を舞台にして、緒方理奈を演じる水樹奈々さんの素晴らしい長台詞が、見る者を画面に惹きつけます。

とりわけ「緒方理奈」という配役にあっては、「水樹奈々」という声優だけに許された特権を、享受するかのような晴れがましさをこそ、特筆すべきでしょうか。ふたつの場面にわたって、内省的な台詞と挑発的で悪戯めいた台詞を、的確に使い分けながら、彼女はみずからの圏域に冬弥を演じる「前野智昭」を、ゆるやかに吸収してみせます。

やれ声音(こわね)が多彩だの、的確な感情表現だの、音域の広さだの、そういう問題とは無縁な場所で、「水樹奈々」は輝きを放っていると言うほかありません。まぎれもない「スタースタア」としての彼女の資質は、アグレッシブに状況を変容させながら、同時に見る者のまなざしを武装解除に誘うのであります。

声優批評にあっては、現在にしてもなお「スタア論」が著しく欠如しておりますから、水樹奈々の存在が、そのような欠如を埋めることを、『White Album』放送当時、切実に願わずにはいられませんでした。

しかし、当時は割りと珍しい分割二期という、今ではありきたりとなった放送形態で、『White Album』が3月いっぱいで放送を終えると、『White Album2』が2009年12月に放送を終了します。

すると、その年の第60回NHK紅白歌合戦にて、水樹奈々が、しかも本作のオープニング・テーマを引っ提げて、初出場いたしました。

にもかかわらず、あまり盛り上がりをみせませんでしたね。
そのあたり、日本の音楽市場の脆弱性を垣間見るにつけ、「寒い時代になったな」と嘆かざるを得ませんでした。

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