小説『生物失格』 4章、学校人形惨劇。(Episode 6-0.5)
Episode 6-0.5:盲目なる恋する少女。
***
――あの日、えーたを殺そうとしてしまったことをまだ後悔しているし、これからもずっと後悔するだろうな。
蒸し暑い体育倉庫の中で蹲りながら、カナはそんなことを思っていた。
彼氏である死城影汰は、あのサーカスでの一件の後、病室で「気に病むな」と言ってくれた。カナにだけ甘々な影汰のことだ、殺されさえしなければ、大体何だって許してしまうだろうとは思っていた。
その容赦のあり過ぎる優しさが、カナにとっては容赦なく思えた。
とんでもない過ちを犯したのに、それごと受け止められて抱きしめられてしまったら、体の内に燻る罪悪感と断罪欲はどこにも行き場がなくなってしまう。
恋人を殺そうとした罪を、誰も裁いてくれやしない。
こんな罪悪感を抱えたまま生きるのは、高々15歳の純真な少女には重過ぎる荷だった。
「……」
だから、夏の暑さで蒸される体育倉庫に居続けようと思っていた。少しでも自身の内に巣食う罪悪感を攻撃して弱らせたくて、脱水の危険があるこの場所にいようと。
何の意味もないことくらい、心の底ではカナは分かっていた。大体、本当に脱水症状を起こして倒れてしまっては、それこそ影汰に迷惑をかけてしまう。
でもこうでもしなくては、カナはおかしくなってしまいそうだった。
「……っ」
くら、と視界が傾くのを感じる。脱水症状前の危険域に入り始めたのだ。
『水は取りに行っても構わないけど、気をつけてくれ』
彼氏の忠告が頭の中に反響した。
「……えーた」
カナは大人しく立ち上がり、体育倉庫から出る。曇天が太陽熱を遮る外は幾分か涼しく感じる。吹き付ける風が、汗だくの体を優しく撫でつけた。
……こんな開放感を覚える資格なんて、私には無いのに。
そう思いはしたが、カナにはまた灼熱の体育倉庫に戻る気力は無く――それ以上に、水分不足の警鐘を鳴らす体に逆らえず、近くにあった水飲み場まで歩いてゆく。
ざく、ざくと音を立て、無意識に砂を強く踏みつけながら歩く。この行為に何の意味もないことにさえ、カナは自覚できていない――故に、罪悪感を払えないことに対する鬱憤を晴らすためだけにしているのだということにも気付かない。
水飲み場に辿り着く。すぐさま手を伸ばし、蛇口を上向きになるよう回転させ栓をひねる。透明で冷たい水が、弧を描いて水飲み場を叩きつける。
前屈みになって水の弧に口付ける。水は容赦なく入り込むが、それを難なく喉奥へ流し込む。ごく、ごくと小気味良い音が体内で響く。
10秒近くして、ようやくカナは水の弧から口を離す。ぷはっ、と水面に上がってきたかの様な爽快な声を発する。
それから弧を描く水が落ちてゆく先へ、両手を椀の形にして差し出す。優しく掌を叩きつけながら、小さな手製の椀に水が溜まってゆく。すぐに溢れそうになるその水を、自らの顔にぱしゃりとかけた。キンと冷えた水が、火照る体に心地良かった。
それから2度、3度と同じく顔に冷水を浴びせる。とても気持ち良かったし、爽快だった。
だからこそ、何やってるんだろう、と思う。
(……えーたは多分、今も危ない目に遭っているかもしれないのに)
自分はこうしてぬくぬくと、ひんやりした水を気持ち良く浴びている。少しは弱らせたと思った罪悪感が増長するのを、カナは感じていた。
(……面倒臭い女だよね、私)
そんな素直じゃない自分を好いて、愛してくれるえーたには、感謝しないとね。
影汰の顔が浮かぶ。それに対してカナは微笑む。
――天凱影汰。それは表世界の名前。
本名は、死城影汰。
世界を渾沌の底に叩き落とした、『汚辱』を起こした『死城家』の末裔が影汰であると、カナは知っている。
本来好きになってはいけないし、好きになるべき相手ではないのだろう。常識的に考えて、世界の所々を壊滅させたに等しい血筋の男の子と仲良くなるなんて、頭がおかしいことくらい、カナには分かっている。
或いは、好きになったと見せかけて狡猾に殺すのなら、せめてもの理性的な判断だと言えるだろう。故に、『「死城家」は生きているだけで危険だ』という世界常識に照らし合わせれば、あのサーカスの舞台裏で秘密裏に影汰を殺そうとした選択は、正しいものであった。
しかし、カナはそれでも、非常識的な判断を取り続ける。
殺さなかったことを是とし、彼を殺す選択肢を取り掛けたことを責める。
好きであることを是とし、心を殺す選択肢など取らないと自らに言い聞かせる。
側から見れば、この状態こそ『恋は盲目』と言えるだろう。彼女に出会った人間は誰も彼も、落ち着けとか目を覚ませとか、心からの心ない言葉を掛けるに違いない。
しかし実際、カナは否定できない。恐らく上記の様に誰かから指摘されたとしたら、何1つ理性的な反論を返せないだろう。
だからカナは、感情的にこう返す。
殺したくないよ。
だって、えーたのこと、好きになっちゃったんだもの――
その時だった。
カナの耳に、硝子が割れる音が聞こえた。
「っ!?」
驚いて顔を上げると、窓をぶち破って人間が外に出てきた。顔や腕、体に硝子片が突き刺さり、血がポタポタと溢れている。
カナはその顔触れを見て更に驚く。
「……先生?」
現代文の文國先生、古文の山上先生、漢文の白先生。国語教師3人衆と呼ばれる先生達だった。その3人は不器用に着地し、カナの方を向いた。
全員、瞳が濁っている。
カナはその瞳を見たことがあった。
――記憶が疼く。
殺された父と母の瞳と、丁度同じ。
そう、その瞳に宿るは、死者の濁りだ。
気付いたカナは、すぐさま踵を返して逃げ出す。条件反射で反応し、先生共がカナへ向けて手を伸ばして追いかけ始めた。
「っ、うそ、嘘嘘嘘っ!!」
先生達が死んでいる。
死んでいるのに、動いてる。
まるで生ける屍の様に!
カナはパニックに陥っていた。脚がいつもの様に上手く動かせない。あまり走っていないのに既に息が荒い。それでも走らなければならない。
追いつかれた瞬間、死。
その厳然たる事実が、更にカナの焦燥を加速させる。
「っ、あっ!」
脚がもつれ、倒れてしまった。
何とか立ちあがろうとするが、その前に足首を掴まれる。
「ひっ、いっ……!?」
カナは振り返れなかった。
恐らく、先生達が追いついた。そしてこれから殺される。
そんな現実が、振り返ったら真になってしまいそうで、怖かったのだ。
怖かろうと怖くなかろうと、死が差し迫っていることは現実になっているのに。
「え、た」
震える声で、愛する者の名前を絞り出す。だが、当の彼氏は校舎の中にいる。聞こえる筈もない。
先生が、カナの足に顔を近づける。逃げられない様に足首を噛みちぎるため。
「や、だ。やだやだやだあっ!! えーたぁっ!」
じたばたと動かす。しかし、ゾンビと化して脳のリミッターが外れた彼らから、一介の中学生が逃げおおせる筈もない。
ゾンビは口を大きく広げ、腐臭漂う唾液を垂らしながら足に近付き。
「おいおい」
男の声が聞こえると同時――ぐちゃ、と何かが潰れる音が背後で響く。何かの破片や液体が自身の制服を叩くのを、カナは感じた。
「なに子供に手出してんだよ――大人が寄って集ってなぁっ!」
男の声が聞こえた後、何かが潰れる音が10秒の間に2回響き、静かになった。
何が起きたのかは分かった。
しかし、もう分かりたくなどなかった。
「……っし。良いぞ」
それでも、恩人に礼を言うため、カナは恐る恐る振り向く。
そこには、ハンカチで返り血を拭き取る、警察の大男がいた。周りには頭を潰された先生達が3体、地面に転がされている。
あまりにショッキングな絵面に、折角水飲み場で補給した水を吐いた。影汰の作ってくれた朝ごはんも幾らか戻してしまい、学校のグラウンドをびちゃびちゃ叩く。
そんなカナの背中を、男は優しくさすった。
「大丈夫か?」
カナは答える余裕がなく言葉を発せなかったが、こくこく、と力なく頷く。男はそれ以上尋ねることはなく、ただ背中をさすり続けた。
その優しさが、カナの心に沁みる。
数十秒かけて、カナは落ち着いた。それを悟ったのか、警官はまた言葉をかける。
「落ち着いたか?」
「は、い……」
本当は落ち着いてなどいない。しかし、今はパニックにばかり陥っている場合ではない。
まずカナは。
「ありがとう、ございました……警察官の人」
「鐡牢だ」眩いばかりの白い歯を見せ、警官――鎌川鐡牢は応える。「どういたしまして、だな。ま、人助けは警官の勤めだからよ」
頼もしい。
カナは率直にそう思う。
先生達がゾンビと化して徘徊する様な異常な状況では、そう思うのも無理ない話であり。
「……あの、テツローさん」
「何だ?」
「1つ、頼みが、ありまして」
だからこそ助けを求めるのも、無理ない話であった。むしろ、理に適っていた。
「校舎に、私の大切な人がいるんです――助けて、くれませんか?」
それに対し、鐡牢はニカッと笑ったまま答える。
「任せておけ!」
市民の味方、警察官として。
「……とは言え」鐡牢は苦い顔を浮かべて続ける。「その場合だが、お嬢ちゃんにもついて来て貰わなきゃ困るんだ。このまま外に置いておけば、またあのゾンビ達が襲いかかってくるかもしれねえからな」
ご尤もな意見だった。
無論、このゾンビ達が彷徨いてるであろう校舎に戻るのは怖い。また殺されるかもしれないという危機感が、カナを脅かしている。
だがそれ以上に、鐡牢に着いていけば大丈夫という安心感が、カナを強く動かした。
それに何より――影汰の無事をいち早く確認したかった。
「分かり、ました」
カナはできる限り力強く答えた。それに鐡牢は微笑みで応える。
「なら、行こう。絶対に俺の側を離れるなよ」
こくり、と頷いてカナは鐡牢の横につき、校舎の中へ行く。影汰を助けるために。
***
そう。
人助けは警官の勤め。
何も間違っていない。
今自分は、警官の身分でさまざまに振る舞っているのだから。
(……ったく。随分な破壊っぷりじゃねえか)
『破壊屋』は興奮していた。
今し方潰したゾンビは、『破壊屋』が殺す前から死んでいた。瞳は濁っているし、死斑がポツポツと顔に浮き出ている。何より、死者特有の腐臭がする。
それでも奴らは動いていた――いや、動かされていた。
間違いなく、更に人を殺すため。
異常なまでにドス黒い悪意を、『破壊屋』は鋭く感知していた。
(凄えな、俺にはできない破壊の仕方だぜ。しっかしどうやってんだ? 幾ら糸で動かしてるからって、およそ人間のできる範疇を踏み越えてやがる)
だからこそ合格だ。
犯人の姿を見てはいないが、既に『破壊屋』は合格の印を捺していた。
だが。
(それでも――ここでその嬢ちゃんを殺すのは戴けねえよなァ)
それだけは『破壊屋』の美学に反する。
故にそれだけは、『破壊屋』が後で分からせてやるつもりだった。
――『破壊屋』はいずれカナを殺す。これは確定事項だ。
だが、それは今ではない。
カナという少女は、死城影汰にとって非常に重要な存在。それは以前サーカスの一件で分かったことだ。
故に、『破壊屋』はこう考えている。
より効果的により効率的に、より豪快により爽快に死城影汰をぶち壊すため、彼女を殺すタイミングはよくよく見極めねばならない、と。
今はまだ、仕込みをし、機を熟させている最中。すっかり熟れたら美味しく調理して命を摘み取ってやる――未熟の果実を前にする時の様に、『破壊屋』はカナを見つめている。
(楽しみにしてるんだよ、俺は――最高に美味いタイミングで、コイツの命を啜るその時を)
『破壊屋』は、『鎌川鐡牢』という名の仮面の奥で、そう微笑んだ。
その真の顔を、盲目なる恋する少女は見ることができていない。
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