見出し画像

絵を描く

 絵を描くことが好きだった。
 完成したときに、間違いなく、自分が描いたものだって一目でわかるから。子供の頃、母親に怒られるのに部屋中にらくがきをして回ったのは、そういう特別なしるしを残すことが単純に好きだったのかもしれない。

 高校の美術の先生に勧められるがまま、私はごく自然な流れで、美大受験の予備校に進んだ。予備校にはひどく変わっていると思っていた自分よりも個性的な人がたくさんいて、クラスの女の子と恋愛の話をするより何倍も面白く、なにより手を動かすほど絵がうまくなることが単純に楽しかった。けれど、枚数が増えるにつれて目も確かになり、私自身は特別じゃないことに気づき始めてしまった。
 美大に進学すると、今度は予備校のときと比べようもないほど、絵を描く人が大勢いた。同世代の私たちの絵は皮肉にもよく似ていて、その中で私は明らかにうまくないほうだった。私じゃない、他のだれかが描いているほうがよっぽど有意義だ。それなのに、絵を描き続ける以外に生きる価値を見いだせない世界にいることは修行そのものだったし、自分が描くための正当な理由を探さなきゃいけないことは死ぬほど苦痛だった。そのときは、もう絵を描くことが好きじゃなかった。
 だから、私は卒業後ごく普通の人に戻った。
 大半がアルバイトしながら制作を続ける中、私だけが就職の道を選び、すべての道具をあっさりとクローゼットの奥に片づけた。同級生の中には有名な賞をとってデビューする人もいたけど、多くは才能を開花できない挙げ句定職にもつけない気の毒な人ばかりで、それらの情報が垂れ流されるSNSを読みながら、肝心の私は会社から帰るとビール片手にゴールデンタイムのドラマで膨大な時間つぶしをする、一番つまらない大人になった。

 昨晩から泊まりにきて今もベッドで眠っている恋人の亮介は、私がかつて絵を描いていたことをほとんど知らない。私たちは職場の飲み会で出会って親しくなり、お互いの家を行き来して夕飯をつくって食べたり、何本も借りてきた映画を観たりと、ごくありふれた恋愛をした。その間、絵のことは少しも気にならなかったし、このまま一生絵なんて描かかなくていいとさえ思っていた。だけど、友達から結婚式のウェルカムボードを頼まれて、ひさしぶりに鉛筆を持ってみると、私の考えとは裏腹に、線は迷いなく動き出した。こういう似顔絵を描くのは苦手だったから気が引けたけれど、鉛筆の線は、まるで長い間ずっと我慢していたみたいに、勢いがあった。
「絵、描けるんだ」
 目を覚ました亮介が後ろから覗きこむ。私は黙って頷いた。
「ああ。そっか。美大行っていたんだっけ」
 彼はあくびをして煙草に火をつけ、なんでもなく私の頭を撫でつける。
「俺、全然絵なんて描けないから羨ましいよ」
「やってみれば、亮介だってこのくらいできるよ」
「いやいや。できないって」
「やってみればいいのに」
 私はわざとらしくないよう気をつけて笑う。
 だれだって絵を学んだ経験がないからそう言うだけで、一度覚えてみたら自転車に乗ることくらい簡単だと思う。彼は器用だから、むしろ私よりも向いているかもしれない。だけど、簡単だと言って片付けることはできなくて、急に自分が恥ずかしくなって、思わず色をのせすぎてしまう。亮介はそれ以上なにも言わず煙草を消し、エアコンの電源を入れてシャツを着ると、もう一眠りしてしまった。

 彼が帰った後、クローゼットの奥からひさしぶりにキャンバスと道具を引っ張り出して、新しい布を張った。あまりに触っていなかったから布の張り方すら忘れた気もしたけれど、手を動かすと迷いはなかった。
 あのときは、周りに何十人もの学生が狭いアトリエにひしめき合って、みんな無心で絵を描いていた。今まで見たことない色がでるまで絵の具を混ぜたり、だれも使ったことのない構図を探してイーゼルを移動させたりして、自分だけが特別である理由を探し続けた。だれもが信じていたし、私も同じだった。どうかそうでありますようにと、心から願っていた。
 少なくとも、今よりは何倍も自由だった。
 大人になった私は、会社の会議ですら言いたいことが言えない。誘われた飲み会で気の利いたお喋りもできない。亮介もきっと私のことを大人しく地味な女だと思っているに違いない。でも、あのときはたしかに違った。今までに描いてきた何百枚という絵が、なによりの証拠だった。

 絵の具を混ぜ合わせて、最初の下地の色をのせる。
 そうして息をついたとき、この絵がいつか完成したら彼に見せてあげようと決心した。どんなにありきたりで、平凡で、上手く描けなかったとしても、きっと亮介は笑ったりしないと思うから。


 

 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?