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私たちの、ことだと思う。

婚姻は、両性の合意にのみ基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

すべて、国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的あまたは社会的関係において、差別されない。

ここで、自分のセクシャリティや性的な指向を書き記すのが適切かはわからないがこの後の文章の整理のしやすさを目的に、記すこととした。私は、ヘテロで、心身共に女性だと思っている。そして、このニュースは、私にとって、非常に嬉しいものだった。

あらかじめ、断っておきたいのは、私は断じて、差別的な観点から物事を語るわけではないということである。文章が下手ゆえ、おそらく誤解をかけてしまう可能性もあるのだが、自分の内心を率直に書くとなると、いかに続く文章は誰かの反感を買いそうだと思っている。そして、断っておけば何を言ってもいいと思っているわけでもないと示しておく。これはひとえに、私の筆致力の至らなさから悲劇を生まないための予防線である。

私は、ヘテロで、心身ともに女性だと思っている。

 異性愛者、つまり、男性が恋愛対象で、心も体も女性であるということだ。古の御伽話のように。これまで散々ドラマで描写されてきたありきたりな恋愛のように、そしておそらく今も世界の大部分を占める関係性の一つだ。文字記号の上では、マジョリティだ。
 しかし、この1行にもグラデーションがあると思っている。全員が、ジャスティンビーバーに恋をしないのと同じで、男という統一の概念を好むわけではない。
私は、これまでの経験と、今の気分から、自分をヘテロだと思い、心身ともに女性だと思っている。でも、それがなぜかを問われると、生物学的性以外の説明をどうやってしたらいいのかわからない。
 心が女性であることは、どういうことだろうと考える。
 男性を好むことは、女性である証明ではないし。
 スカートを履くことが、女性である証明ではないし。
 化粧をすることが、女性である証明ではないし。
 おしゃれを楽しむ、ことが女性である証明ではない。
 生物学的性である女性に、納得しているかと聞かれると、仕方なく納得しているという状況でしかない。
 2000年に生まれた私からすれば、まだ「男に」生まれてきたかったと
嘆かざるを得ない世の中である。
 その上で、社会が構築した「女性」っぽいことも、気兼ねなく楽しんでいる。
 そして同時に、社会が構築した「女性」っぽいことに苦しめられている。
 こうなると、自分がヘテロで、心身共に女性であることという1行に、文字記号に託せる情報量はあまりに少ないなと思ってしまう。やはり、文章というメディアの中に自我は入り切らない。まるで、この自分の属性を示す一文は8ギガのUSBのように、使い物にならない。

「育休・産休制度あり」これは誰にとっての福音か

 「育休・産休制度あり」
この文言を、どれだけ自分ごとだと思って就活する人がいるのだろう。私は現時点では、結婚はさておき子供を産む気があまりない。けど、この一言にも私は注意を払って就活したはずだ。けど、ある時ふと思った。それは、私に子宮があって、今のところ生殖能力に問題がないからではないか。私にとって、この文言は、子供を産みたい人が、産める会社かどうかを見極めるためのものでしかなかったし、今時あたり前のものだ。しかし、同級生男子との会話の中で、この文言は「気にしたことがない」という発言を受けて、やはり世界はそうできているのだと思った。子宮を持っている方しか産めないから、どうしても意識に差が出ている。諦めでもあるが、ロジックとしてそういう認知になるのは、仕方ないとは思っている。
 母は言った、「本当の男女平等が欲しいなら、男が自分の腹から子供を産めるようになって自分の胸からおっぱいあげられるようになってから」
 まあ、向こう100年くらいはまだ世界はこうなんだと思う。私は、男女平等を求める活動家でもないけれど、現実問題、どうしたって子宮を持っている方が割に合わないのは事実だ。実際就活中に「ママ座談会」として子供を育てながら就業する社員のインタビューサイトがあった。私は思想家ではないのだが、シンママってこと?が第一印象だ。子育てをするのは女の役目で、時短勤務をするのは女の役目で、急いで保育園にお迎えに行くのは女性の役目で、部署に支えられてキャリアを続けられていてありがたいのは、女性のこと。そう言われている気がして、私からしたら「父親は?」というキョトンが止まらなかった。
 まるで、私が世界に噛み付くアクティビストのように思えてきた。もしかして、フェミってやつか?ん?意識高い系になっている?ん?と。
 理不尽、って思っただけ。どうしていつも、女だけが、って思っただけ。それだけなの。ただ、なんで?って思っただけで。なんか罪悪感があった。
 罪悪感。この大団円に収まっていないのでは、という罪悪感。
子供を持つ人全員に関係するはずの「育休・産休制度あり」これは誰に向けたものだろうか。子宮を持たない方がこれに無関心すぎるせいで、これは「子宮を持っていて子供を産む人間」のための言葉にされていないか。

 

私、は嬉しかった。

 きっと、私は マジョリティで。この判決があろうとなかろうと、関係ない立場のはずだ。立場だけで分けるなら。でも、私はこの判決が嬉しかった。愛する人が、愛する人と結婚できる。自分ごとのように喜べるかと言われればそうではないが、他人事だとは思わなかった。「育休・産休あり」の文言と似たものだ。厳密に当事者ではないけど、全くの他人事ではない。はっきり言って、あろうがなかろうがどうでもいい。それがあろうとなかろうと、私の幸せ不幸せに関係ないからだ。けど、私の周りの普遍的な幸せに関係ある。周りが幸せであることは重要である。だって社会はそうやってできているから。結局、この判決が出ようとでなくても。社会はいつも通り最悪で、楽しくて、それなりだろう。政治家は納税せず、姪っ子の3歳児は風呂上がりの保湿を嫌がるし、父の会社が劇的に儲かったりしないだろう。殺人事件も起きるだろう。でもただ、ただ、幸せが、増えるだけ。結局離婚も増えるんだと思う。ただ、普通に、当たり前を営む人の数が増えるだけ。あってもなくても、何かが大きく変わらないし、「どうでもいい」かもしれないけど、私は単純に嬉しかった。うまく因数分解の出来ない感情だが、嬉しかった。どうでも良くなかった。自分ごとではないけれど、「私たち」のことだから。

性的マイノリティーという言葉の魔力

 私は、ヘテロで、心身共に女性だと思っている。この文字記号では、私はマジョリティだが、かつてのトラウマから男の人が苦手で、手を握ることですら大汗をかいていて、誰かを信じることも、他の人よりちょっと、勇気がいる。当たり前に結婚出産を考えたりもしない。マジョリティという言葉で括られた、大きな流れるプールの中で、浮き輪もビート板もなしに、楽しそうな人々を横目に流されながら、必死に溺れないようにしている気分がする。だからかもしれないが、私がマジョリティだと思ったことはない。このプールに入れない人がいる。このプールから上がりたい人がいる。けど、社会という言葉に包括されるのは、このプールに流されている人と、そして楽しんでいる人。プールの外の人は、きっと言葉における「マイノリティ」なんだろう。名前がつくことは大事だ、存在として認識されるからだ。でも、マジョリティという名前がつくと、数の利でこっちが「正しい」メインストリームがあるように思えてくる。性的少数者と名前がつくとプールの中で楽しく流れている人は「関係ない」と思ってしまう。
 プールの中で楽しく流れる人々は自分たちがマジョリティだと分かってはいても意識はしていないのではないか。
 プールの中で楽しく流れる人々は、この戦いを「性的少数者」がこっちの社会と「同じく」なれるための戦いだと思っているのではないだろうか。実際文字にしたらそうなんだろう。男女と「同じように」婚姻を認めて「もらう」ための戦いだ。けど、私はどうしてかその目線が怖いのだ。誰かが誰かと愛し合うための戦いを「自分たちのものではない」と思っているのが怖いのだ。そして私も、私自身が戦いに加わっていないのが、怖いのだ。思想だけ持っていて、行動が伴っていない現状が、結果何を連れてくるのか怖いのだ。どちらかというと、マジョリティのくせに、これに喜んでいる自分が怖いのだ。何もしていない、誰かが変えてくれる現状をあくまで享受するだけのくせに、流れるプールで楽しむ人にも、プールの外にいる人にも、どちら側でもなく、ただただこの渦の中で半分溺れながら生きているのが、みっともなく情けないのだ。
 
 でも、私ができることがないわけでもなくて。自分のためにやるだけだ。私は、その世界を無視していないと、示すだけ。少しの言葉にきをつけるだけ。その方法は、恋バナの入りに「彼氏いるの?」って聞くんじゃなくて「恋愛するタイプ?」って聞くことかもしれない。よくわからないけど、私は流れるプールで溺れる1人として、これからも当たり前に誰かを傷つける人間だと自覚して、流れていくだけのことなのだ。いつか、一緒に流れる人の腕を掴む日が来るかもしれないし、来ないかもしれないけど、それでも、どうなっても。誰かを傷つける正しくない人として、これからもずっと、溺れていようと思う。このプールで、幸せに流れる人が、増えれば、その景色があれば、私は少し、楽しく溺れていられると思うから。

 あの日、あの判決を固唾を飲んで待った全ての人。その判決を傍聴席で聞いて、かけだしたあの子。みんなのことが、大好きなので。私は、いつかあの子と結婚することがあれば、この日があって良かったと、不惑の素敵な笑顔で追憶しようと思う。そして、社会の一員として、老後に怯えて、暮らそうと思う。

その100円で私が何買うかな、って想像するだけで入眠効率良くなると思うのでオススメです。