「エモい」のコーティングが、社会問題を見えなくする

「エモい文章」が世間に求められていた。

「エモい」の定義を確認しよう。

エモい 
俗に、心に響く様子。エモイとも。〔感動を意味するエモーション(emotion)から〕
(スーパー大辞林 3.0)

何かの事実を伝える媒体として、感情や感動が利用できる。たとえば何かの社会問題について、「エモい」文章技術を利用することで、人間の感情を刺激し広い方面に伝わる(≒バズる)ことが期待できる。

「エモい」は令和っぽく今どきで、やさしく、多感な人達に広く届くツールのはずだった。

社会問題とその当事者を“ポジティブに”伝えるWebメディア「soar」の元理事が、複数の性的加害を行った。ここでは詳細を割愛するが、被害者の一人である卜沢彩子氏のツイートツリーを参照してほしい。

また、cakesの連載における幡野広志氏の、ゆるふわで論点をずらす「人生相談」も併記しておく。

このほかにも、3.11以降の糸井重里(犬のツイート)や、新今宮ワンダーランド問題も束ねて論じたいが、割愛する。

社会問題の、その「問題」と称すべき理由や事実や背景を、ごまかしてあやふやにして、「エモい」でコーティングして、無かったことにする。それが共通点であろう。

その社会問題がなぜ解消されないのか。問題の根っこや、周辺にある別の問題は何か。当事者に対する正しいアプローチはなにか。私たちはどうすべきか。具体的かつ現実的に、草の根的にできることはないか。

上に挙げたメディアや当該記事は、それらの問いをごまかして、無かったことにしている。

※メディアの中でも、リディラバジャーナルはきちんと各関係者に取材した上で、社会問題を構造として見事に解説している。(PRではないが個人的にお勧めしたい)

そしてわれわれは、「エモい」を消費していないだろうか。

週刊誌には、ウンコするより気持ちいい下らない記事もあれば、物事の核心に迫るジャーナリズムというべき正統派の記事もある。そういう清濁が交わる媒体だと割り切れるなら、週刊誌はむしろ潔いと私は思う。

問題は、社会問題を紹介する「エモい」「ゆるふわ」な糖衣記事が、しばしば下らない方の記事であることだろう。ウンコするときに読んで終わり。「世の中っていろいろあっていいよね、多様性だよね〜」と言いっぱなしで、何も動かない。

問題に飛び込め。階段を下りろ。地べたに足を付けろ。片足を深く突っ込め。

もちろん、厄介ごとに関わらずに済む人生は幸せである。別に嫌なら無理に触れなくてもいいと私は思うし、私自身も深く関わらない社会問題がたくさんある。ただ、知るなら消費で済ますな。痛みと、己の無能さを知れ。

藤原 惟

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