空想の冒険と浪漫
これは根津美術館の記録である。
建築素人が云うのも恐れ多いが、遠近法、光の入り方、その技術はものの見事で、モダンな形状に日本の風情を混ぜつつ矛盾を感じさせない端正な建築に息を止めた。
そこへ、何の展示をしてるか調べもせず足を踏み入れる。
この腐れ切った脳みそに新しい風を吹き入れるべく、普段自ら観ないであろう展示があることを期待するわたし。
なんとこれがまったく期待どおり。
新しい風が吹いたのだ。
(BGMはYAH YAH YAH(※風はドライヤーで人工で吹かせるとしよう))
日本と中国の織物、骨董品、それと絵画が展示されていた。
そしてわたしは日本絵画に酷く感化されてしまった。ここは格好良くインスパイアされたとでも言っておこうか。
先に言っておくが、ここから取り留めもないただの妄想が続くから覚悟してほしい(笑)
百椿図(ひゃくちんず)
時代に沿った人それぞれの想いを年表のように漢詩や和歌、それと百以上の椿の絵で表現した、長さ1197cmにも及ぶ巻物である。(上下巻存在)
江戸時代初期、空前の椿園芸ブームが巻き起こる。そこで、篠山城主松平忠国が百椿図を考案した。
この男は、茶を嗜み、俳句を愉しんだ風流な漢である。
この漢の文化と発想が粋で格好いいと思ったのは私だけではないはず…(?)詩と絵を時の経過で繋げていくって発想が小洒落ていて憎い。
嗚呼、なんとも卑怯ではないか。
我も茶を嗜み、詩を愉しもうではないか。
芸術作品は時代を超越した影響力がある。
この世から姿を消しても尚、当時の世界観や文化が共有されるのだ。
まったくロマンチックだこと。
個人的に古典絵画と純文学は似ていると感じる。
表現者の心に遺る一瞬、または心に遺る物語に心酔した時、己の揺れ動く精神と、固定概念に囚われない自由な表現力を燃料に、その感動を作品に乗せて伝えようとする。
その作品が果たして何人の目に止まるか、何人がその作品によって心が動かされるかわからない。
それでも表現者は描き/書き続ける…
映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』の主人公も同じ事を云っていた。
主人公である作家サリンジャーは、ライ麦畑でつかまえての出版で一躍有名になるも、戦争で患ったPTSD(精神疾患の一種)は心に重くのしかかり、協調性を失い、閉塞的になってしまう。
独りぼっちになった彼は生前、手紙にこう書き遺した。
故に、表現者は描く/書くという行為自体を愛しているだけなのではとも思うのだ。
絵画の良さは文章で伝えることのできない抽象的なイメージや空気感を表現し、言語関係なく鑑賞者の解釈が可能となる。
文学の良さは説明しすぎない文章から、その先の想像は読者の経験と想像力を信用して委ねられるので、これも読者により解釈が異なる。
同じ瞬間を絵で表現するのと、文章で表現するのとでは受け取る側の解釈が異なるのは非常に面白い。
だから原作の小説が映画化されて文句が出てくるのは当たり前なのである(笑)
小説を先に読んだ者からすれば、その人なりの理想で作られた想像上の物語が、他人の映像化によって自分の理想を破壊されるのだから。
兎に角、百椿図に“インスパイア”された絵を描きたくなったのであった。(本当に描くかどうかは別)
琳派(りんぱ)
この作品の中にボートに乗った男女の絵があった。
男がその女のことを想い詩を綴ったそうな。(ソースはネット調べなので有力ではない(笑))
これでわたしは思い出してしまった…
己の夢を____
“井の頭”ではない場所で、春の晴れた日にボートに乗って、優しい太陽の光に照らされたその人を眺めることだ。
そう、“井の頭”ではない。
恋人同士で乗ると別れるという都市伝説があるからだ。
もう一度言っておく、“井の頭”ではない。
占いも運命も信じないわたしが都市伝説を信じるのかと(笑)
マジ笑える(急にギャル)
ここまで鑑賞を愉しんでいるが他にも目が離せないことがあった。
わたしの目の前をn個の首が通りすがってゆく。
なぜ冬なのにそんなに首が見えるのかって、着物を着てる人が多いせいである。
首フェチにとって着物はとんでもねぇセクシャルなお召し物である。
美術館の中はいい匂いしかしなかった(それは美術館の木の匂いでしょうよ)
わたしはまたしても思い出してしまった…
己の夢を____
着物で風情のある町を練り歩くことだ。
とりあえず一緒に着物着て、その人は横で美味しいものを食べてるだけでいい。
わたしはその横顔の造形美を眺めて満足感を得ることとする。
できれば一枚くらい写真を撮らせて欲しい。
やっぱり一枚とは言わず二、三枚許してほしい。
漆塗りのお皿(作品名失念)
畳の上に展示された漆塗りのお皿が一際高貴に眼の中に映り込み、わたしが切り取ったその世界の瞬間は平安時代のものだったと思う。あれはどう考えても平安時代。
ああそうか、わたしは一瞬あっちへ行ったのだ。
そして決断した。
まず大正時代(平安じゃないんだ、個人的にすきなだけ)にタイムスリップしたような畳の部屋にゲスト(怪..)を迎え、そのうち買うであろう漆塗りのお皿に上生菓子を乗せて、お茶と共にもてなすのだ。(ドヤ顔を決め込む)
するとどうだろう、ゲスト(怪…)から微笑みが溢れるのではないだろうか?
..妄想だけで一生愉しめるこの脳をどうか誰か戒めてほしい。
ああ平安時代と云えば、アニメの平家物語をついでに推薦しておきたい。
ええそうです、皆さんご存知のあの平家物語。平家が失脚してくまでの過程が文学的な描写で描かれていて、美しさの余り平安時代への羨ましさを感じずにはいられない。
主題歌の羊文学「光るとき」のMV映像が芸術的で、何度も見ては、北欧の海上を客船で旅したことを思い出している。
硬めのベッドに転がり目を瞑るも、夜明けまで酔っ払いが外で騒ぎちらしていて、寝ぼけ眼で乾燥した朝の空気を吸ったこと(オール明けの気持ち悪い感じわかるよね)
知らないマダム達とワイワイお酒を飲んでデッキで写真撮りまくって謎に爆笑してた事(アルコールのせい)
どこぞのイケメンにスウェーデン愛を語られ、そんな話は半分左から右へ受け流し、目元の美しさに気を取られていた事。(しょうもない人生やな)
それから、自己肯定感が低く何をするにも自信が無かったあの頃‥(今では考えられない)
ああそうだ、まだあの頃は若かったのだ…!
自信がないと言いつつも、若さという勢いで何でもできたのである。
というような感じで思い出が走馬灯のように駆け巡ってしまう。
ため息を吐くほど私にとってはエモい(懐かしさとその時感じていた感情が込み上げる(エモいでまとめた意味を問う))MV映像なのだ。
事実取り留めのない話になったが、興味があるかどうかすらわからない美術館に行っただけで人はこんなにも想像力を働かせられるのである(笑)雑多ではあるが。
コロナ禍で出掛けづらい世の中なので、積極的に新しい事に触れていこうと思う。
わたしは新しい点と、今まで経験した事の点が繋がり脳内の電気回路が走り出したとき、それまで見えなかったものが見えるようになるようだ。
日本絵画は空想の冒険と、浪漫を届けてくれた。今後浮世絵も観に行こうではないか。
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