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新海誠監督作品に触れてこなかったオタクの『すずめの戸締まり』感想

注意:この記事にはネタバレを含みます。

まず、前提として筆者は新海誠監督作品にまったくと言っていいほど触れてこなかった。『君の名は。』(2016)に関しては「なんか入れ替わって口噛み酒とかあって隕石がバーンとなる作品」という程度しか知らないし、『天気の子』(2019)にいたっては「異常気象少女と家出少年がうまそうにカップラーメンを食べる作品」という大雑把すぎるイメージしか持っていない。その程度の知識の筆者だが、家族からクーポン券があるとの勧めで『すずめの戸締まり』(2022)を観に行くことになった。

この記事は完全なる筆者の主観の感想であり、パンフレットを熟読したり、新海誠監督の作品に見られる文脈やこれまでのインタビューから熟知したものではなく、人生で初めて新海誠監督作品を観た一観客の意見だと思って、温かい目で見ていただきたい。

大雑把な感想

本当に、本当に大雑把な感想だが、『すずめの戸締まり』とは
『仮面ライダー響鬼』(2005~2006)の一之巻~三十之巻と終盤のオロチ現象×ギリシャ神話×マキシマム ザ ホルモン「鬱くしき人々のうた」
といった印象である。震災を題材にしている以上、批判も必ずあるだろうが個人的には大雑把だがこのような感想を抱いた。実際、家族からも民俗学要素があるからと言われて勧められたことで興味を持って観に行った。

作品そのものの感想でいえば、境界線を印象づける描写が多く、題名通りの戸締まりや岩戸という姓、それによる扉による再出発の演出、海と陸の境である浜辺など、不安定な時期にある十代の少女が旅を通して境界線を越えて再出発する物語に思える。

「ぼくたちには、閉じ師がいる」

『仮面ライダー響鬼』は2005~2006年にかけて放映された仮面ライダーで、キャッチコピーは「ぼくたちには、ヒーローがいる」。プロデューサーが「『響鬼』は平成の『仮面ライダーアマゾン』」と形容したほど、平成ライダーの中では異色で、和と楽器を題材にした仮面ライダーである。作中で仮面ライダーは鬼(音撃戦士)と呼ばれ、鍛え続けた人間のみが変身できる存在である。そして彼らが敵対するのが「魔化魍」と呼ばれる妖怪たちだ。

魔化魍は何か組織に属した存在ではなく、巨大なある種の自然災害で本来は悪い気によって自然の落ち葉などの土塊が未知の力で妖怪へと変化した存在であり、鬼たちは魔化魍に清めの音を打ち込んで元の土や落ち葉に戻す。『すずめの戸締まり』では「ミミズ」という大自然の中の「澱み」が災いになって現れるところに『仮面ライダー響鬼』っぽさを感じた。

しかし、これだけで「響鬼っぽい!」と断定していたら、それはただの厄介なオタクだろう。それ以上に響鬼っぽさを感じたのは喋る猫のダイジン(大尽)と閉じ師の宗像草太の設定だ。ダイジン(大尽)は終盤で実は岩戸鈴芽と草太を後ろ戸に案内していた存在なのだが、物語の節々で猫の気まぐれっぽさ故か悪意のようなものを垣間見せたり、サダイジンに関しては鈴芽と叔母の岩戸環の心の奥の澱みを爆発させている。

『仮面ライダー響鬼』では、自然発生するはずの魔化魍を故意に育てる怪童子と妖姫が存在する。二人は「仮面ライダー」シリーズにおける戦闘員にあたるポジションなのだが、怪童子と妖姫は鬼のバックアップ組織の猛士から「何か悪意を感じる」と評されるなど、自然の摂理で生きる魔化魍を利用して混乱をもたらそうとする謎の存在だ。そのため筆者は最初、「この猫ちゃんが怪童子と妖姫なのか……?」と困惑した。

宗像草太もそうだ。彼がたまに上着を脱いだときの「あれ? 意外と筋肉質じゃない?」という印象と、ブロック塀にぶつかってもブロック塀は砕けてたのに草太は平然としている様子が『仮面ライダー響鬼』のヒビキさんの口癖「鍛えてますから」を想起させた。そして「このことは忘れて」というくだりには、明日夢少年とヒビキさんの関係性を感じた。ヒビキさんは実際、明日夢が高校受験を控える身ながらも「屋久島のツチグモ」と響鬼の闘いを見てしまい、それに心酔していることを「このことは忘れて」といった様子で最初は流していたが周囲から「このままだと、あの子受験に落ちるよ」と指摘されるなど、両作品とも作品内で「あんな凄いもの見せられて日常に戻れるわけないじゃん」という当たり前をうまく指摘していたと思う。

宗像家が代々閉じ師として従事し、家の中には民俗学や地理学の資料があふれ、地図にピンを止めながら地震を引き起こす災い「ミミズ」を探す様子も『仮面ライダー響鬼』っぽい。『仮面ライダー響鬼』では鬼たちはオフロード車で各地を巡りながら、予兆を見つけては地図をピン止めして魔化魍の居場所を特定する。なんだか、筆者個人の「響鬼熱」が高まっていたことも相まって「もしかして新海誠監督も仮面ライダー響鬼好きなの……?」と一方的なシンパシーを感じてしまった。

『仮面ライダー響鬼』における清めの音にあたる祝詞と人々の思い出の演出は素晴らしかったが、その一方で「草太一人で全国の後ろ戸を閉めて回るのか……?」と心配になった。『仮面ライダー響鬼』では全国に119人も鬼がいると明言され、鬼になる人間は減っているものの弟子をとりながら脈々と受け継いでいる。しかも、地方ごとに支部が分けられ、千人単位のサポーターとキャンプ会社などのフロント企業による援助、さらにはシフトまであるが草太は教員を夢見ている理由の一つが「閉じ師だけでは食っていけない」という生々しい。

このままでは草太は『仮面ライダー響鬼』におけるシフトの穴を埋めるために過労寸前まで戦い、苦い思いをした仮面ライダー裁鬼と化してしまう。「誰か閉じ師を助けてよ! 何か東の後ろ戸は皇居地下にあるようだし、政府から援助してやってあげて!」と思ってしまった。教員の労働環境の悪質さが問題視される現代で閉じ師と教員の二束のわらじは過労死必至である。草太……

ペイリトオスとアトラス

要石の設定はおそらくタケミカヅチノミコト(建御雷神、建御雷之男神、、建御雷神、武甕槌、武甕雷男神、建雷命)があると思われる。雷の神にして剣の神、そして相撲の開祖とされるこの男神は鯰絵では要石に住み、地震を引き起こす大鯰を鎮める神として多く描かれている。神道的な要素を中心にしているようで、終盤の草太の変化やダイジンの行動原理にはギリシャ神話のエッセンスを感じた。

ギリシャ神話には忘却の椅子というものが出てくる。忘却の椅子は冥府の奥深くのタルタロスに存在し、座ると物事のすべてを忘れてしまう恐ろしい椅子である。実際、神話ではペイリトオスという青年がその犠牲になっている。草太は常世ですべてを忘れて文字通り忘却の椅子となり、要石となってしまった。椅子となったことでアイデンティティを失い、自分の姿も名もすべてをわすれて草太ではない何かになってしまったのだ

名前や自分自身に関する記憶というものは神話や伝承の中では重要視され、本当の名前を隠す文化は世界各地に存在している。そういった意味では、名前という究極の犠牲を払う人柱が宗像家なのかもしれない。そう思うと、もしかすればダイジン(大尽)とサダイジンは神ではなく、要石と成り果てた宗像家の祖霊なのかもしれない。そう思うと草太の祖父、宗像羊朗がサダイジンに対してとっていた態度も少し納得がいく。もしかして羊郎の羊は生贄を意味し、宗像家の人間は最終的に要石になる一族なのかも……

そして、もう一つ連想したのはギリシャ神話のアトラスだ。ざっくりした解説だがアトラスは天空を支える神で、罰としてこの役割に従事している。そして最大の特徴は天空を支える怪力以上に「この役割を代わってほしい、誰かを代わりにしてでもこの責め苦から逃げ出したい」と願っていることだ。彼はヘラクレスの十二の功業の「黄金の林檎」で、ヘラクレスにこの役割を代わってもらおうとするが、最終的にはまた背負う羽目になっている。ダイジンはアトラスに近く、草太に要石の役割を押し付けようとしている。

闇深けえ

草太の友人の芹澤朋也が鈴芽と環の関係性について度々発する印象的な言葉「闇深けえ」。震災のことや、二人の心のドロドロした澱がサダイジンによって爆発した際などにも発せられる言葉だが、作品内で芽と環が心の奥で互いに「鈴芽が環の人生を奪っている」という共通認識を持ちながら、最後はそれを否定せずに「だけど、それだけじゃなかった」という答えを出すのが良かった。筆者はここでマキシマム ザ ホルモンの「鬱くしき人々のうた」を思い出した。

筆者は熱烈な腹ペコ(マキシマム ザ ホルモンのファンの愛称)ではないため、解釈に誤りがあるかもしれないがそれは許してほしい。「鬱くしき人々のうた」はマキシマムザ亮君が自身の経験を踏まえて引きこもりやうつ病、自殺に薬物といった社会の闇を歌った曲だが、最大の特徴は「死んじゃいけないけど、死にたいと思ってもいい」「心の中にドロドロしたものを抱えながら生きていくことを否定しない」点だ。

環は人生の中で12年間という期間、それも同世代が恋や婚活、自由を謳歌している時期を鈴芽に捧げており、鈴芽も軽い口調で漏らしたりしているがそれを自覚している。ある日、急に震災で姉を失い、その上、手のかかる年齢の幼い姪っ子を引き取ることになったら誰だって内心そう思うだろうし、それを完璧に否定できる人はいないだろう。一方で引き取られた鈴芽自身も環が「自分は親でもないのにあなたのために人生をささげているんだから」という重たさをキャラ弁や長文ラインなどからひしひしと感じている。二人の持つ負の感情を否定できる人間はいないと思う。

それを端的に表現したのが芹澤の「闇深けえ」である。実際、二人の心の中にある思いは闇が深いし、それが当たり前だと思う。環が鈴芽に世話をしてあげていると思ってしまうのも当然だし、鈴芽がそれに嫌気がさすのも当然だ。これを平然とできる聖人君主はいなくて当然だとも思う。二人はこれまで、その思いを軽口などで少し吐き出すも、ぶちまけることはなかった。サダイジンが環を爆発させたのは一見すると悪意に満ちたものだが、その後に人間たちで要石とミミズをどうにかするように頼む姿を見るに、心のドロドロとしたものを全部吐き出させて、清らかな状態で要石やミミズの問題に対処させるための痛みを伴う通過儀礼だったのかもしれない。

このような心のドロドロした負の感情を否定せず、清濁併せ吞む姿勢は気に入ったし、震災直後に日本全体が抱いた「なんでこんな目にあわないといけないんだ」という行き場のない恨みや怒りを否定せずに「それを許す」といった姿勢ではなくて「光と闇があって当たり前」と認めて過去の自分を送り出すのは好きな場面だった。それを表現する何かがないかと考えたときに、筆者の中で最初に浮かび上がったのが「鬱くしき人々のうた」だった。

勢いまかせだけど結論

かなり勢いにまかせて書いたが、総括すると「地脈の流れを元に戻す」という原始的な宗教観と要石という生贄をギリシャ神話のように表現したこと、そして負の感情を持つことを否定しないところを新海誠監督作品初体験の筆者は気に入ったということである。これは余談だが猫を連れていくところでルージュの伝言を流すなどジブリへのリスペクト(?)を感じたし、皇居の地下に東の後ろ戸があるなど天皇というこれまでアンタッチャブルになりがちだった部分に触れるのは凄いと思った。『仮面ライダーBLACK SUN』といい、そういうアンタッチャブルな部分に触れる勇気は素直に凄いと思う。

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